| 1 一伝道者 ID:2Ix2We6c |
2009/01/11 07:26 |
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聖書、福音を心から信じている者にとって、それを伝えた時に拒否されれば、まるで自分の全人格を否定されたようなものです。断られ方は様々かもしれませんが、気遣いがあってか露骨ではないにしろ、その態度からまったく受け入れられていない、ということを感じるとき、本当に辛くなります。
何度となくそのような伝道の苦しみを経験しましたが、なかなか完全に立ち直ることが出来ないでいままでいます。よきアドバイス、助言をいただければと願っております。 |
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| 2 アーメン太郎 ID:6Ti8jiDU |
2009/01/11 19:11 |
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勧誘活動なんてしなければいいのに。
相手にとってはとっても迷惑なことだしね。
政治と宗教の話はしないというのが、社会生活のマナーです。
勧誘活動なんかしなくても、来る所には来るのです。
カトリックなんて表立った勧誘活動してないのに、今、爆発的に信者数が増加してますよね。
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| 3 東方博士 ID:nn6RaXzQ |
2009/01/12 18:08 |
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スレ主さん
自分自身は伝道者でもない身として伺います。
1.あなたはフルタイムの伝道者ですか?(朝から夕方、月から金土)
2.どんな伝道しておられるのですか?
3.伝道は組織的なものですか?
4.伝道の対象はどうですか?
伝道=勧誘という拙速な結論付けは避けてもう少し内容を知りたいです。 |
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| 4 mei-mei ID:Zv/XmUVQ |
2009/02/02 09:57 |
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主の御名を賛美いたします。
一伝道者さん、主の素晴らしさを知らない人に少しでも伝えたいというお気持ちはとても素晴らしいものですね。そう思っていても、なかなか行動として出てこないわたしとしては頭が下がる思いです。
神様は、一伝道者さんにどんなことを願ってらっしゃるのでしょうか。
わたしが愛の実践の辛さを感じている時、マザーテレサの言葉によって慰められました。
『与えてください、あなたの心が痛むほどに』という言葉です。
だから人を愛する時、心の苦しみなしには最上の愛を捧げたとは呼べないのではないでしょうか。
だから一伝道者さんが傷ついてもなお主を賛美し、伝道のために苦しむことは、必然なんだと思います。
愛の道に進む人はボロボロになり、だから神様が支えてくれるんだと思います。
主はわれわれと共におられます。
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| 5 北海鱈 ID:z.AoQCso |
2009/02/02 13:26 |
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日本の宣教、
場所にもよると思いますが、都会でされてますか
それとも、地方で奉仕されていますか。 |
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| 6 無頼庵 ID:9tqdswuU |
2009/02/07 12:39 |
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最近、自分の中で“これぞ伝道”と思った事がある。それは美味いものを食って、人に
「うめぇ!これ食ってみろ」
と勧めたとき。そんなとき、相手が
「いらねぇよ」
って言ってもこっちは全然傷つかない。
「あぁ、もったいない。おまえはすごいチャンスを逃した」
と思うくらいだ。
だが、もしそこで少しでも傷つくとしたら、それは“本当に美味い”と言う確信が無いからかもしれない。なぜ、傷つかなけりゃいけないんだ?なぜ傷つくんだ?現実体験として食べて美味いと実感しているのに、それを否定されようがされまいが、関係ない。一伝道師はもしかして、救いの体験をリアルなものとして感じていないのではないだろうか?
実は僕はここにこそ日本でキリスト教が広まらない理由があるのではないかと思っている。我々が救いだ福音だと思っているのは、実は自分の中で完結してしまっている“思い込み”や“妄想”みたいなものなんじゃないかと。妄想を否定されればそれは傷つく。半ば確信が無いからだ。
大宣教命令とかでうまいこと言いくるめられて伝道しようとするのだが、自分の中にあるものは妄想でしか無いことを知っているからすぐへこむ。自信が無い言い方だから相手に上手く伝わるわけが無い。何度やっても同じで自分は駄目なやつだと思い始める。信仰が無いのではないかと。そして、ますます内向きになる。
本当に素晴らしいものだったら、人は命令されなくても伝えようとする。だからこそキリストの福音は今日まで、そして日本にまで伝わった。素晴らしいキリストの福音に混ぜ物が加えられているから伝わらないのではないか。
ガブリとかじりついて「美味い」と言わせるような、ダイナミックな姿が本来の伝道であり福音では無いのか。
牧師や神父を見て、そこに在りし日のイエスやパウロを見出せるだろうか?僕にはサラリーマンしか見出せないのだが・・・。 |
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