| 1 おちこぼれ ID:eyQCGTmI |
2008/12/30 18:15 |
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さて、証もまた変化をしようと思います。引き続き 感謝のスレッドではありますが・・・。聖書、この最も尊いイエス様からのプレゼントの中から、数々助けていただいた御言葉を書いていこうと思います。御言葉には本当に魂を救う力があります。
まず、最初に十字架につけられて救われた泥棒さん・・・。「助けてくれ、救ってくれ」とは言わず、「わたしを思い出してください」と話した、この心にとっても感動しました。
最後の審判の時に羊と山羊に分けられますが、初めは、羊の側にいた人は、「いろいろされていたんだな」、ぐらいにしか思っていませんでした。
しかし、羊の側の方々のイエス様がお褒めになられる時、「いつしたんですか」との答えに感動しました。彼らはいっぱいされていらっしゃるのに覚えていないのです。反対に山羊の側は「いつしなかったんですか?」 完全にふてくされています。両方の方々も、「やっている」のですが、心の違いにとっても感動しました。
タラントのたとえ、5タラント、2タラントいただいて、倍にして帰ってきました。ご主人がお褒めになります。「良い、忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くの物を管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。この「わずかなもの」にもイエス様の愛がいっぱいに込められています。
結核菌を殺すには、あらゆる消毒剤の中でグルタール製剤といわれる最も強力な消毒剤が必要です。消毒用エタノールでもだめ、塩化ベンザルコニウムでもだめ、次亜塩素酸というかなり強力な消毒剤でも死にません。かつてコーツライトといわれる、紫外線滅菌装置で十何時間も殺菌していたとか・・・(違ったらごめんなさい)。
ところが太陽光線は わずか2秒・・・すごいものです。布団を干すたび、そんなことを思い出します。もちろん、汗など水分を蒸発させるには2時間ぐらい?必要なので、2秒でとりこまないでください。
太陽や月、空の星は、「天には大きな光があって、わたしたちはその栄光で輝いている」と証していると言われていますが、イエス様の栄光は太陽の7倍?すごいものです。
また、太陽光の中に骨を丈夫にする要素など人の健康にとっても大切なものがたくさんあります。人のためオゾンホール、温暖化現象、あるいは日光を浴びただけで癌になってしまう病気まで出てきていますが、太陽がなくなったら人類は全滅です。
僅かなもの・・・いえいえ、草木や、空気、風、土、雨などなど測り知れない祝福に囲まれていますが、人間の罪の性質がいかに感謝のないものであるか、をよくご存知でいらっしゃるかのように、「わずかなものに忠実であったから」とやさしくおっしゃっています。
またもっと感動したのは、「主人と一緒によろこんでくれ」との御言葉です。ご主人は僕がどうしてもうけてきたか、その動機を良くご存知であるかのように、「主人と一緒に・・・」とおっしゃっておられます。僕は、ご主人が喜んでくれたことに、儲けたものとは比べられないくらい喜びを感じたでしょう。とってもうれしかったでしょう。またその事を本当によくご存知でおられるご主人様に感動です。
また、イエス様の戒め、十戒は、イエス様の御品性を現していると言われますが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして・・・」、そうか、そんなにも人を愛しておられるんだな、と気付くとすごいです。
さて余談ながら、「僅かなものに忠実であったから」とありますが、「僅かなもの、僅かなもの」と探していくと、あれも、これも・・・とたくさん出てきて、「僅かなものって、随分たくさんあるなぁ」と気付きます。
「多くの物を管理させよう」
「あれ?今でも結構多くの物を管理しているじゃないか」
電気も、水も、家も、じゅうたん、蛇口、聖書、本、CD(?)・・・。
いつのまにか感謝でいっぱいになっていて、さっきと全然心が違う! 天国って心の中に始まるとか、この地上で始まるとか・・・。
「また、天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産をあずけるようなものである」 |
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| 2 おちこぼれ ID:hVwsGvCA |
2008/12/31 01:27 |
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種まきのたとえ
「おちこぼれ」は牧師でも、宣教師でもないですので、聖書の意味を解き明かすなんて無理です。しかし、それでも聖書は本当に素晴らしい恵みいっぱいの本です。
聖書の中にある種まきのたとえ、4つの畑、道端、石地、茨の地、良い畑・・・。僕なら、絶対に良い畑だけに蒔きます。道端に落ちたら拾って良い畑へ・・・。ところが、種を蒔かれるイエス様は、4つのすべてにお播きになられます。そんなこと無駄じゃない、結果ももうわかっているのに。初めから終わりまで見通される御方が誰よりもご存知なのに?
いろいろな人々と証をしていると、びっくりすることがあります。ビジネス界でバリバリに働いていらっしゃる方、「やくざ」まがいの会社?の方、いわゆるキャリアウーマン、朝から晩まで夜遅く夜中まで働いていらっしゃる方々、
だんだん話が進むと、意外なくらい聖書を知っています。
小さいころ、幼稚園が、大学が、ミッション系だった、ご家族がほとんどクリスチャンだった。特定の宗教は持っていないけれど、人間を超えた存在を信じている方々、かなりいらっしゃいます。
種を蒔かれるお方は、人間とは到底およびがつかないくらい大きな愛をもって、一人、一人の人生に種を蒔いておられるのがわかってきました。
誰が蒔いたのかな?以前は超自然的な方法で?と思っていました。ある時、誰かが蒔いたんだ!と当然の事に気付きました。誰かが祈り、誰かが勇気をもって、誰かが時間を割き、伝えたのです。
引用文で申し訳ないです。
このため、ワルデンセスの宣教師は、関心を持った人々に福音の尊い真理を熱心に伝えた。彼らは聖書の写本の一部を用心深く取り出した。刑罰の執行官のようにいかめしく構え、報復のみを行う神しか知らず、罪悪感に襲われ、いつも恐れおののいている人々に希望を与えることは、彼らにとって何よりの喜びであった。彼らは感動に唇をふるわせ、目に涙を浮かべながら、そして時折ひざまずいて、罪人の希望を告げる尊い神様の約束を彼らの同胞に読んで聞かせた。こうして真理の光は暗黒の中にある無数の人々の心を照らし、覆いかぶさるような暗雲を取り除き、ついには、その光にことごとく癒す力がある義の太陽が彼らの心にさし込むようになった。しばしば聖書のある部分は、くり返し何度も何度も読むことを相手から望まれた。あたかもそれが聞き違いではないかと確かめているようであった。特に次のような聖句は何度もくり返して読むように要求された。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」「そして、ちょうどモーセが荒野でへびをあげたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」
道端の地は、人の足で、あるいは車輪で押し固められた心とも言われます。人は、打たれているうちに、心を閉じてしまったり、防衛本能で固めてしまっていることがとっても多いようです。よく「こわ~い看護婦さん」と言われますが、一応?彼女たちも「白衣の天使」を目指した?方々、ところが患者さんに怒鳴られたり、厳しい現実に出会い、「鬼になっている?」ケースも多いようです。そして、内心かなり葛藤している・・・。
お金のことしか興味がない?と思える「茨の地」(勝手にきめこんでいるのでしょう)方々でさえ、「一度も、誰にも心を開いたことがないのですが」と言いながら、心の中にある神様について話してくださったり・・・。超一流のメーカー営業マンでさえ、「親にも、家族にいえない心の闇」を持っていたり・・・。少なくとも、イエス様が「良い地だけ」に種をまかれていたら・・・、「おちこぼれ」はこの世にいなかったでしょう。
こんな言葉が大好きです。
「おそらく、あなたが顧みないその時こそ、彼らがあなたの同情を最も必要としている時である」
悪魔も馬鹿じゃないです。必要な魂がいるときには、周りの人がそれに気がつかないように働きます。 |
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| 3 おちこぼれ ID:hVwsGvCA |
2008/12/31 20:45 |
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「限りない愛」
「イスラエルが安息を求めた時、
主は遠くから彼に現れた。
わたしは限りない愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに
真実を尽くしてきた。」
賛美歌の中には、
「御神の恵みを思い見れば
うれしさあまりて歌とぞなる」
「迷える時には道を示し
おごれる時には鞭をたもう」
とありますが、はじめてこの聖句を見た時には、それこそ「予想」「推測」でした。しかし、この聖句は真実であります。わたしを助けてくださったあるクリスチャンの方が、こんな聖句を見つけたそうです。
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、
受け入れるすべての子を
むち打たれるのである」
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神様はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。
いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練があなたがたに与えられないとすれ
ば、それこそ、あなたがたは私生児であって、ほんとうの子ではない。」
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ、悲しいものと思われる。
しかし後になれば、それによって鍛えられ る者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
これを読まれて、主にお祈りされたそうです。「神様、わたしは私生児でしょうか?」 よほど訓練を受けて来られなかったのか、いえいえ、結構苦労されていらっしゃいます・・・。
すると・・・次から次へと「訓練」が降りかかってきたそうです。この方は、本当に「おちこぼれ」がお世話になった、それこそ「訓練された」方です。
えーやだー、訓練なんて・・・。
耐えられない試練は与えない、というのも本当です。
「わたしは限りない愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに
真実を尽くしてきた」
これは本当のことです。なんて書いていると、あたかもわかっているようですが、陰でひたすら祈っていただいている「おちこぼれ」です。 |
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| 4 おちこぼれ ID:hVwsGvCA |
2008/12/31 20:51 |
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「ぶどう園のたとえ」
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、1日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから9時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせず立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから』そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、12時ごろと3時ごろとに出て行って、同じようにした。5時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、1日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園にいきなさい』。
そして、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい』。そこで、5時ごろ雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして、言った、『この最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、あなたは1日じゅう、労苦と暑さで辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当たりまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」
まず、最初に、長年主イエス様のご奉仕に携わってこられた方々には、お詫び申し上げます。とばしてください、としかいいようがありません。
さて、月給をもらい、明日はちゃんと行く仕事場がある時には、思い浮かべもしなかったことがあります。それまでは「いいなあ、夕方来た人たちは・・・僕もそれがいいなぁ」なんて思っていました。
さて、仕事がなくなり、日雇いの仕事をその日の朝、探すようになった時です。たくさんの労働者が集まっていて、列を作ります。「はい、今日はここまで」と職員の方が言いますと、そこから後ろにいた人々はすごすごと帰っていきます。文字通り、「1日中、就職雑誌を手にして、市場に立っていなければなりません。」
「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」との悲しい言葉が彼らの話せる精一杯の言葉でしょう。1日仕事がなくて市場に立っている・・・誰も気にしないかもしれませんが、本人はまるで見られているかのよう。「よく立っていたなぁ」とも思いますし、それ以上に彼らは行く場所の無かったのでしょう。家にはとてもじゃないけれど帰れない。
ちなみに家に「ただいま」と帰れるのはかなり幸せなことです。仕事がなくて家に帰ることの足の重いこと。仕事をしている時より、はるかに疲れます。
そこへ、不思議な声がかかります。「なぜ、何もしないで、1日中ここに立っていたのか」。彼らは、賃金の約束もなしに、自動的にぶどう園にむかいます。賃金がほしいのではない、生きた証が欲しかったのだと思います。
さて、賃金をもらう時間が来ます。当然、もらえると思っていない最後に来た人々、みんなに見られないように裏口から静かに去っていく???少なくても「おちこぼれ」なら、そうしたでしょう。
その時、彼らは主人が管理人に話す不思議な声を聞きます。それは、「だれも帰ってはいけない」とすべての人に聞こえるかのよう。そして、「最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい。」
この御主人様が、もし、最後の人だけを特別扱いして、最初に払い、あとは最初に来た人から・・・としたら、最後に来た人々はみんなの前で「あわれむべき人々」になってしまったでしょう。
「最後に来た人々から」「順番に」払ってあげなさい。このあたたかさの前に、涙がポロポロと流れるのです。おそらくは、目に涙を浮かべて、夕暮れに1デナリをもらって家に帰る労働者、「お土産でも買って行こうかな」・・・。たぶん次の日もぶどう園かな?
さて、最初に来た労働者、月給もらっていた時は気付かなかったのですが、彼らは「日雇い」でした。もしかしたら、次の日、彼らは「1日中市場に立っていなければ」ならなかったかもしれません。
人類がどんなに残りの人生、一生懸命努力しても・・・、天国の住民の方々、天使の方々から見たら、「最後にきた労働者」です。彼らは、ほぼ何万年???前からイエス様に忠実に従っているのですから・・・。しかも、人類の隠れたすべての罪をみんなよく知っています。
しかし、彼らは決して、「この最後の者たち」とは言わないでしょう。むしろ「良かった、良かった」と大歓声を上げて喜んで迎えてくださるでしょう。天国ってそんなところなのかな?
な~んて思いながら、製本会社で日雇いの「本の積み上げ作業」を溢れ出てくる涙を拭いながら仕事をしていた「おちこぼれ」です。 |
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| 5 おちこぼれ ID:hVwsGvCA |
2008/12/31 20:58 |
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「わたしにできない事があろうか」
「見よ、わたしは主である。すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」
「『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。』
主は、そのことばについて、不信や誤った理解、解釈の余地を残さないように、三度繰り返して言われた約束をもう一度仰せになっています。主は神様を求める者に、万能の神様を信じさせたいと望んでおられるので、『すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである』とつけ加えておられます。」
さて、「おちこぼれ」は今まで、数々の御業を見てきました。病院では助からないと言われたすい臓癌の患者さんが退院できるようになり、この人、無理じゃないと言われた人が新しく生まれ変わり、タバコが教会に来ただけで禁断症状もなしにやめられる。罪を自覚して、謝りに行く、他にも、舌癌、脳腫瘍、など数え切れないくらいです。
映画「聖衣」の中に、僕(しもべ)がペテロさんのお祈りにより癒されるところがありますが、そこにたった2人だけ居合わせることが許されました。結局、2人は皇帝の前で証します。しかし、その後2人は殉教していきます。
先に奇跡の場所に居合わせることによりその準備をさせていらっしゃったかのようです。奇跡とはとっても厳粛なものです。
中国伝道で、貧しい人々にお金をほとんど捧げてしまった宣教師、はじめはそんな信仰はなかったのですが、心に響く「イエス様、王の命令に力があって」ささげました。その時、食事がなくなる前に、雨で「送り主」の名前が消えてしまった封筒が送られて中にお金が入っていたとの証は、今でも現実に起こり続けている事実です。
「もうだめだ、絶望だ、もう死んだ方がいい」と思える人間に対して、「私にできないことがあろうか」と仰せになられる主イエス様は生きておられます。
こんな「おちこぼれ」でさえも、聖書の史実的、学問的、論理的、預言的な正確さで説明しなくても、聖書に書いてあることは「真実」であると、証できるくらいです。 |
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| 6 おちこぼれ ID:7RMYHoq. |
2009/01/01 10:53 |
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「教会」
「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」
さて、「教会はイエス様の身体であって」とありますが、「おちこぼれ」も教会で本当にお世話になりました。いえ、なっています・・・。僕も困っている人に、聖句をわたすのはあまり好きではありませんし、もらうのも・・・「それより、今日どう生きていくかの方が重要なんだけどな」な~んて。
教会でほとんど無意識に、「パンをくださり」「食事に誘い」「お餅をくださり」「集会に招き」、隣に座り、時にかなった説教、陰に祈り・・・。しかし、それは、はっきり言って命綱?、生きるか、死ぬかの生命線、といった大げさ?ではないでしょう。
記憶をたどっていますが、こんな文章があります。
救われた人は、自分をイエス様に導いてくれた人に言うであろう。
「わたしは、神なく、望みない異教徒だった。あなたは住み慣れた住まいを捨て、あたたかい家庭を離れ、わたしの所へ来てくれた。わたしは救われた、永遠に救われて、わたしのためにご自身を捧げてくださった御方に賛美をささげることができるのだ。」
多分、クリスチャンの方々が味わう最高の喜びの一つでしょう。
「だから、愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあってはあなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」
「神様は、無駄な人間を御創りになられない。神様は無駄な事を起こされない」
「主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たとい死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油を注がれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」
この聖句を現実と感じられるのは、イエス様と教会のおかげです。
クリスチャンとはとっても言えない「おちこぼれ」、お前が引用したら冒涜だ、といわれても当然。しかし、こんな「おちこぼれ」も人にはとっても言えないけれど、「こんな所通ったことあったな」「ほんとにここに書いてある事、その通りだな」、なんて人生の節々の場面に思え、この聖句を歌った「THE LORD IS MY SHEPERD」の賛美歌を歌う時に涙が溢れてくるのです。 |
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| 7 おちこぼれ ID:7RMYHoq. |
2009/01/01 11:00 |
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「一羽のずずめさえ」
「二羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その1羽も地に落ちることはない。またあなたがたの髪の毛までも、みな数えられている。それだから恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさったものである。」
普段何気ない聖句ですが、着のみ着のまま、お金もなく、家もない・・・。時には、ましてやそれに加えて自分の罪にさいなまれている時には、この聖句は本当に、憐れみ深い響きを持ちます。今という時は、これが必要な時代でしょう。
「一羽のすずめさえ」の賛美歌もこういう時には、独特の響きをもちます。ちまたでは、「歓喜のよせて」がどこへ行っても流れていますが、歌っている鳥さえ、嘲られているように聴こえる時があるものです。
しかし、そんな時でさえも、主イエス様はどんな暗い陰にさえも訪れになられます。いえ、むしろ「人間の危機は、神様の好機である」とか。保護天使の方は、あまりの状況に祈る言葉さえ出ない時にもそばにいてくださるようです。いえ、むしろ「足跡」の詩ではないですが、もっとも近い時かもしれません。
失業した時、「クリスチャンよ、救い主は大いなる光の源であられると同時に、人間を通してこの世にご自身を現されることを忘れないでください」という言葉に励まされました。理由はわかりませんでした。
「えー!教会行っているのに?」と言われたら何にも言えない、「証なんてとってもできない」という状況でしたが、「忘れないでください」との言葉に、「ひょっとして、何かわからないけれど、特殊な働きがあるかもしれない」と思いました。そこには、そこでしか出会えない思い出と、出来事と、喜びがありました。
イエス様は義人の?髪の毛の数をご存知なのではないように思っています。
今、多くの人の献身と祈りと犠牲により、聖書は多くの本屋にも出ています。そこに書いてあるのは「神様の御言葉」です。人間じゃない。嘘もつく、冷たい、間違いも山ほどする人間の言葉ではありません。
教会で学ぶ聖書ガイド、一度開いてみると、「なんか難しいな、いやだな、つまらなそう」と思いました。ところが、真剣に光を求めて開いてみると、「すごい!」と全然全く違う本になりました。
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」
ほんのちょっぴり、戦いが感じる、あるいは見えるように思える「おちこぼれ」・・・。「難しいな、いやだな、つまらなそう、むなしい、絶望」と思える今の人生を、全く光に変える力をこの聖書の御言葉は持っています。「聖書からの助け」と副題つけたら、「いくらでもあるじゃないか」と思いました。
というわけで、どんどん書いていこうかな? |
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| 8 おちこぼれ ID:DykPVGbs |
2009/01/05 16:50 |
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「不思議な輪」
エゼキエル書の中に「輪」の話が出てきます。大変複雑そうに見えながら・・・調和を保っている輪です。イエス様の不思議な御導き・・・。一見複雑そうに見えたとしても、着々とその御目的をなされておられます。
映画の中でさえ、多々その場面がありますので、多くの先輩のクリスチャンの方々が経験されているのでしょう。「ベンハー」の中で、鎖でつながれた主人公がナザレの村で、たった一人ローマの兵隊から水をもらえず、たおれます。そして、「神様、お助けください」と祈ります。すると、神様であられるイエス様が水をお与えになられます。
また、「十戒」の中でも、斧?で殺されたイスラエル人が最後の息を引き取る時、こう話します。「私の祈りは聞かれなかった」「死ぬ前に一目だけお目にかかりたかったのだ。わたしたちを奴隷から解放する救い主の御顔を・・・」とモーセの顔を見ながら話すシーン。
私たちと天とのつながりは、とっても近いそうです。日ごろの生活の中で、天使に出会い、助けられたりしているそうなのです。
文書伝道者が道に迷った時、不思議な車が来て道案内をし、道がわかるところまで来た時に、車が急にわき道にまがり、その道を見てみるとその車はなかった・・・。
「おちこぼれ」の話をすると、グレードが落ち、「笑い話」になってしまうのですが・・・。
さて、朝勤務先に向かう途中、バスが渋滞でした。「ああ、来たばかりの職場なのに遅刻してしまう」。しかし、バスは依然としてほとんど進まない・・・。「イエス様、祝福を受ける価値はない者ですが、わたしは御名によって唱えられている者です・・・」と必死で心の中で叫びます。
すると、後ろがら女性がさっと来られて、バスの運転手さんになにやら話します。運転手さんはバスの前の扉を開けて、女性を降ろします。「天使の方だ」と思い、後ろに続いてバスを降り、「天使の方」を振り返る余裕も無く、職場へ走っていきます。ついたのは始業2分前・・・。何気ない顔をして?仕事につきます。
こういう話をすると、「それは・・・」とたたかれるかもしれないのですが、クリスチャンの皆さんは、もっと優れた?証をたくさん持っていると思います。
しかし、犯罪、事故など悪魔の業は、好まれて?あちこちで宣べ伝えられている現代、そんな中でも、主イエス様の業は、もっと多く、もっと力強く、複雑な現代社会をも貫いて、また個人に起こっている小さな現実をも貫き、人の幸せのため、また永遠の幸せのために働いておられることもまた事実なのです。
ローマ兵を打ち倒すメシアを求めていたイスラエル人は、イエス様を認めませんでした。イスラエルを圧迫するローマ兵を倒したり、当時行われていた奴隷制度と戦うことは、パウロさんや使徒の方々の働きでありませんでした。
しかし、罪の奴隷、憎しみの奴隷から人々を自由にしていったのです。「真理はあなたたちを自由にする」。ちなみに日本の国立国会図書館には「真理はわれらを自由にする」と掲げられています。 |
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| 9 おちこぼれ ID:DykPVGbs |
2009/01/05 16:55 |
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「神様が守れない場所」
「わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、
手を伸べたが、顧みる者はなく、
かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
わたしもまた、あなたがたが災いにあう時に、笑い、
あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、
災いが、つむじ風のように臨み、
悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
その時、彼らはわたしを呼ぶであろう。
しかし、わたしは答えない。
ひたすら、わたしを求めるであろう。
しかし、わたしに会えない。
彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
わたしの勧めに従わす、
すべての戒めを軽んじたゆえ、
自分の行いの実を食らい、
自分の計りごとに飽きる。
思慮のない者の不従順はおのれを殺し、
愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい
災いに会う恐れもなく、安全である。」
これは、聖書の御言葉ですから・・・、減らしても、付け加えてもいけません。「おちこぼれ」も自らを欺くことのないように、教会でよく教えられました。
「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈りでさえも憎まれる」
本当に「今は恵みの時」ですね。
では、なぜあの「おちこぼれ」が!こんなにも守られるのか?そう、陰で祈っていらっしゃるクリスチャンの方々がいるのです。
サムエルさんのおかげで国全体が平安を得ていたとか・・・。義人の祈りは、昔も今も大いに力があり、効果のあるものです。 |
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| 10 おちこぼれ ID:DykPVGbs |
2009/01/05 17:10 |
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「失敗から立ち上がる」
「しかし、神様が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエス様に血が、すべての罪からわたしたちを清めるのである」
罪というものは、人間にとって最大の敵ですから、「ゆるされました」「はい、そうですか」なんてものではないです。
ある薬剤師の方が薬剤師になりたてのころ、インシュリンの医療事故を起こしたことがあります。インシュリンの医療事故は、下手すると、植物人間?あるいは死をもたらす可能性をもつ恐い事故です(違っていたらごめんなさい)。
その方はその後、薬局長になり、とても良い仕事をされていきます。しかし、それから何十年後「退職されるまで」スタッフの人に、若い人々に「インシュリンに気をつけるように」と「インシュリン、インシュリン」と言い続けたそうです。
「どんな誘惑にも屈しなかった、忠実な政治家ダニエルのようにわたしたちも立たなければならない。わたしたちを愛し、わたしたちの罪をあがなうため、その命を捨ててくださった主を失望させてはならない。『わたしから離れては、あなたがたは何1つできないからである』と主はおおせになる。これを忘れないでほしい。もしあやまちを犯した場合は、そのあやまちを認めて、それを再びくり返さないように戒めとするならば、勝利を収めたことになる。こうして敗北を勝利にかえ、敵に乗ぜられることなく、あがない主にほまれを帰すことになるのである」
聖書の偉大な信仰者の方々、その方々の失敗の記録・・・。いったい誰が?それらを話し、伝えたのかな?「おちこぼれ」は本人だと思っています。四つの福音書すべてに載っているペテロさんの失敗・・・。ペテロさんは死ぬまで、話し続けたのでしょう・・・。
主イエス様の愛を証するため、罪を犯した、絶望にくれた、自暴自棄になった各時代の失敗者に望みの灯をともすため。
多くの言葉が、新聞に、テレビに、雑誌に現れ、消えていきました。神様の御言葉は何千年たっても・・・、希望を与え続けます。
但し、回り道をする必要はありません。「失敗は見ないで、聖書の成功した人たちだけ見るのよ」とは本当のことです。聖書の中には、もっともっと素晴らしい経験を得るように・・・、びっくりするような宝物に満ちています。
ただし、仕事上の失敗など、あ~と思うとき、「あ、(聖書に書いてある)肉だから失敗したんだ、もうやらない」と切り替えることは、悪魔の攻撃を避けるとっても強い力になります。 |
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| 11 おちこぼれ ID:EocLRc7M |
2009/01/10 18:50 |
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「宝の価値」
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
わ、大変、何にも持っていないよ!
「しかし、イエス様は弟子たちに、『あなたがたの光を輝かすために努力せよ』とお命じになりませんでした。イエス様は「それを輝かせよ」と言われたのです。キリスト様が心に宿られるならば、その臨在の光をかくすことは不可能です。もしキリスト様の弟子であると自称する者が世の光でないなら、それは生きた力が彼らから去ったためです。またもし彼らが与えるべき光をもっていないなら、それは光の源であるおかたと結合していないからです。」
ある方の証でこんな話がありました。
「その方は、どんな理由があったかはわかりませんが、安息日、教会に行くのがとっても嫌になりました。そして、教会に行かなくなったそうです。その時、実際に見たか、夢かは忘れましたが、安息日、教会から出てくる人々を見たそうです。教会から、出てくる人々、その顔が全員輝いているのを見たのでした。彼はその時から、もう一度教会に行くようになったそうです。」
比較しては、大変申し訳ないのですが、モーセさんが神様と交わられてシナイ山から降りてこられる時、顔が輝いていた、とあります。そして、不思議なことに、当のモーセさんはそのことがわからなかったようです。
光が輝いている人は、当人はわからないんだ・・・。
多分、信仰の先輩方はもうよくご存知でいらっしゃると思いますが、安息日、教会の礼拝で祝福をいただいて外に行くと、見る人々の反応は全然違います。
専門学校に行っていた時です。学生の6割のお昼ご飯が、コンビ二・・・しかもカップラーメンだったことにかなり、愕然としました。あれを3年間ずっと?しかも、彼らはそれが、「身体に悪い」ということすらしりませんでした。とすると・・・、教会で受けている光って、すごい価値を持っている・・・と気がつきます。
人が神様から受けた光の量ではなく、「神様は人がその祝福をどう用いるかを見ておられる」。
もちろん、「光」と言われている中には、「これらの者たちは、みずから賜物と呼び、主がそれらを教会に与えられたと言う。彼らは自ら異言と呼ぶ意味不明なことをしゃべっているが、それは人によっても、主と全天によっても理解できないものである。そのような賜物は、人間が大いなる欺瞞者の助けによって作り出したものである。狂信、偽りの興奮、偽りの預言、騒々しい礼拝が神によって教会に与えられた賜物であると考えられている。ある者たちはこの点で欺かれている」
というもの事実ですが・・・。
しかし、天国で一番イエス様のそばに立つのは、かつてサタンの業に熱心であったが、火の燃えさしのように取り出されて、その後イエス様に熱心に従ってきた人々と聞いたこともありますし、教会で悪ばかりやってきた「おちこぼれ」も気を取り直して前進です。
レプタ二枚を捧げたやもめさん、人から「そんなのとっておきなさい」といわれるかもしれません。周りでは、もっとたくさんのお金を捧げる多くの人々・・・。しかし、それは、彼女のすべてでした。持っている物全部・・・。
人間に与えられたもの・・・それはイエス様の持っておられるもの全てでした。「何も持っていないよ!」と思っていた「おちこぼれ」・・・。
「どうせ、馬鹿にされるな・・・」「反対を受けて当然」「無視されても当然」「たった一人でも聞いてくれただけでも感謝」「なにせおちこぼれだから・・・しかし、僕の持っている物の中で一番大切なもの」と証を始めます。
「あなたの努力が、99人の人から、反対と嘲笑しか受けなかったとしても、もし1人が救われたら、あなたは神様のために立派なことをしたことになるのです」との証に励まされながら・・・。
「あなたは自分の子どもが道に行き倒れて倒れている時、助けられるはずの人々がその子を誰も助けなかったら、その親は炎のようになって、その殺人者たちを怒らないだろうか。これが神様の子羊の怒りである。」
間違っているところ、たくさんあると思いますが・・・、でもこれは「おちこぼれ」の持っている全てですのでと、証しはじめます。
「与えよ、そうすれは与えられるであろう」「光を分け与えると光は倍加します」。すると・・・あれ、こんなにたくさん持っていたっけ?
「わ、大変何も持っていないよ???」と思った時、あれはいったいどういうこと? |
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| 12 おちこぼれ ID:EocLRc7M |
2009/01/10 18:59 |
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「何人の死をも喜ばない」
「心をかたくなにして、救いに遠い者よ
わたしに聞け
わたしはわが救いを近づかせるゆえ、
その来ることは遠くない。」
「主なる神様は言われる、わたしは悪人の死を好むだろうか。むしろ彼がその行いを
離れて生きることを好んでいるではないか」
「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神様は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さまないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対して行ったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神様は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。」
神様は悪人の死を喜ばれない・・・との御言葉です。悪をやっつける正義の味方、悪人は成敗、桜のように散る、忠臣蔵?・・・と育ってきた「おちこぼれ」。悪人は滅んでさぞかし、大きな喜び?思いきや、「わたしは何人の死をも喜ばない」・・・。
「自分がいなければ、それだけ悪が減る。すこしは世の中良くなるかな。それこそ世のため、人のため、僕がいなければ周りの人はどれほど幸せになるだろう・・・みんなあいつさえいなければ、と思っているだろうな」と自分の存在が重荷となっていた「おちこぼれ」。
ところがここに不思議なことが書いてあります。「わたしは悪人の死を喜ばない」「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神様は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。しかも、この聖句が書いてあるのは、ユダ王国が悪ばっかりやって、国家として消滅して、バビロンに捕虜となって連れ去られた最悪の時のエゼキエル書・・・。
「おちこぼれ」が今、はっきりわかっていること、人は、その状況、社会、争い、批判、真偽の討論、などで躍起になっているかもしれないけど・・・。イエス様は、いつでも、どんな時でも、その人の「この地上での幸せ」と「来るべき世界の幸せ」しか、思っていらっしゃらないんだな、ということです。
「人が神様から遠ざかっていれば、いるほど、神様は大きな犠牲を払われるのである。」
これは、本当だなと思います。教会のクリスチャンの方々を見ていて、「どうしてこんなに犠牲を払われるのだろう・・・。もっと富や、名誉や、たくさんあるのに・・・。少しぐらい楽してもいいのに・・・」と思います。
「こんなにも犠牲を払われるのですか」と涙したことがどれほどあるでしょう。「しかも、何十人をクリスチャンにしよう」とかそんな人々ではない、「たった一人を救うため・・・」。しかし、それでも彼らは、微笑みながら働きに出て行かれます。
しかも、救うのは罪深い人間・・・。あえて、自分で死を滅びを選んでいく罪人のために、今、全天あげて人を救おうと働いておられます。
「こんなちりのような地球、消し去ってしまえば、良いのに・・・」。しかし、主イエス様は、十字架で釘打たれた両手を広げて、全宇宙の前に、この罪人のためにとりなされる・・・」。
どうして!・・・その答えは? 天に行くと人類は天使の方々よりも高められるとか・・・どうして?
「天使の方々は、正しいことをするのに何の抵抗も無い、しかし、人類は罪という性質がある、だからこそよくぞ戦ってきた・・・。その戦い、その涙、は誰よりも天はよくわかっている」からかな・・・。
心の中の戦い・・・、人はわからないかもしれないけれど・・・、先を行くクリスチャンの方々は皆わかっています・・・。だからこそ、命を賭けてまでこの喜びのおとずれを伝えます。
さて、ある奥さんがご主人を導いておられた時に、こんなことを話しておられました。「わたしはお父さんに、(天国で)『あ、この道路、金で出来ているよ』と見て欲しい」と。
好きな賛美歌の中に、
「染みなき衣をみにまといつつ
涙なき町を歩み、
うれしき歌声、響かす前に
まず、愛する主にまみえん
わが主、わが主よ
われ、みそばに立ちて知らん
わが主、わが主よ
われ、御手の傷にて知らん」
とありますが、
その時、この地上の起きた全ての悩み、「どうして?」の答えがわかるのかも知れません 。 「おちこぼれ」が今生きているのは、聖書、自然、御摂理、そして、天使の方々や、人々を通して与えられた一方的なお恵みです。
もちろん、悪人がただ生きたら大変な事になります。翻って生きよ・・・ですけど。 |
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| 13 北海鱈 ID:A1ymkWII |
2009/01/11 04:57 |
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たいそうなカキコでんなぁ。
あんまり、こういったこと
カキコしていただくと、
何とも続いてカキコする気が
起こりまへんなぁ。
そんなたいそうにかまえんと
もっとリラックスして生なはれ。 |
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| 14 おちこぼれ ID:lGTYkqYg |
2009/01/11 16:55 |
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ある神学生が、労働実習のため、鎌を研いでいました。
そこへ、同じ学校の女子大生が2人?通りかかります
2人が話をしています「わたし信仰ってわからな~い」
そこで、彼は鎌を研ぎながら、「なにをごちゃごちゃ言っているんだ。
俺が教えてやろう」と思い・・・
立ち上がって「信仰とは!」と叫びます。
その瞬間、持っていた鎌で自分の指を切ってしまい、出血・・・
貧血を起こして、病院に担ぎ込まれます
いつでも、謙遜第一ですね・・・
イエス様からいただいた、生きた証なら、どんなに小さくても大歓迎です。
どれはイエス様からいただいたとっても大きなプレゼントですから。
できましたら、最も小さな証が嬉しいです。みんなが持っている証ならもっといいです。
「タラントは、どんなに小さくても、神様には、その使い場所がある。1つのタラントでも賢明に活用されるならば、それは、定められた働きを成し遂げるのである。小さい義務を忠実に果たしていくことによって、わたしたちは、加え算で仕事をしていくけれども、神様は掛け算で、わたしたちのために働いてくださるのである。このような小さいものが神様の働きの中で、何より貴重な感化となるのである。」
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| 15 おちこぼれ ID:NEz3oIGg |
2009/01/12 06:17 |
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「帰郷」
何年かぶりに、正月の実家に帰りました。母はクリスチャンでしたが、父は代々続く仏教徒・・・。小さいころは、一ヶ月に一度は家族で仏壇にお参り。田舎に帰ると町中、線香の臭いが立ちこめ、町のあちらこちらにお地蔵さんが並んで、花が飾られている・・・。
「家に来たら、キリストや教会の話はするな」と連絡が来ます。あまりの悲しさに、イエス様にお詫びをします。「証が悪いために申し訳ありません・・・」。
そんな中で、帰郷・・・。和やかな雰囲気が流れています。すると父の方から、教会の話が・・・。あまりの喜びに・・・。
夕方、サンセットに入ります。父の部屋に入ってみると、賛美歌が流れています。「これが、主よ、人の・・・なんとかだ」と。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」をかけてくれます。そして、「アメージンググレイス」「聖なる、聖なる、聖なるかな」。
「これはな」と言って1つのノートを開きます。賛美歌、賛美歌21、第二賛美歌、聖歌の対照表がびっしり書いています。そして、どの曲がどのMDに入っていて、その楽譜がどこに書いてあるかも・・・。ノートにはコピーした楽譜が貼ってある。
当然、僕より良く知っています。その賛美歌を用いて、ハーモニカも教えていると話してくれます。小さい頃、僕の家では敬遠されていた身体障害者の方々にも・・・。
感謝に歯を噛み締めながら・・・、流れている賛美歌を聴いている「落ちこぼれ」でした。
良い種を蒔いていない、「おちこぼれ」。しかし、イエス様は落ちこぼれの想像をはるかに超える大きな御方です。
「涙をもって種をまく者は、
喜びの声をもって刈り取る
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」 |
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| 16 おちこぼれ ID:IYqrnMec |
2009/01/17 07:47 |
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「空を打つ拳闘」
「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」
さて、教会での結婚式だったと思います。青年がビデオを撮っていました。すると、ファインダーを通してみる映像が暗いことに気付きました。「あ~ごめんなさい、僕が傲慢だからですね」と心の中でイエス様にお詫びします。しかし、映像はまったく元に戻りません。ひたすら撮影中、心の中で悔い改め続けます。とうとう最後まで、「傲慢さを悔い改めながら」撮影が終わります。
撮影した映像を見ると・・・、やはり、暗い映像でした。
その時、「これは、逆光だからだよ」と1人の人が気付きます。
本人は、「え?・・・」。原因は傲慢ではなくて、逆光???
「落ちこぼれ」はある朝、教会の方々と通勤で出会いました。「いや、寝坊して、朝5分で出てきたよ(しかも朝シャンして)」と普通の会話・・・。
これに、何と?びっくりした???当時の「落ちこぼれ」。心の中で「5分? 僕は毎朝3時間も祈っているのに・・・?」
彼らはクリスチャンとして成長している方々でした。
彼らは、「しなさい」といわれることを忠実に果たしていたのでした。
かなり恥ずかしい話ですね。
ごく、当たり前のことですが・・・。「絶えず祈りなさい」。
しかし、祈るだけではだめで、「祈りは実行しなければならない」。 |
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| 17 おちこぼれ ID:NDeQxcHE |
2009/01/20 08:40 |
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「見ているもの」
聖書の記録を読んでいると感動させられる場面にいくつも遭遇します。
十字架で、世の罪のため苦しんでいらっしゃる最中に、母マリヤさんの今後の将来を思われ、ヨハネさんに託されるお心。
普段はペテロ、「転がる石」と呼び続けられたのに、人生の岐路に立ったときには、「シモン」と本名をお呼びになられ、大切な時には、「マルタよ、マルタよ」「シモン、シモン」と二回お呼びになられる時のやさしさ。
旧約の出エジプト記には、熱い砂漠で、昼は照りつける暑さ、乾燥から御守りになられる雲の柱、夜は砂漠の寒さ、暗さから御守りになられる火の柱、と大人から子供まで、服のことから、食事のこと、病気の人のことまで、ご心配なさいます。
これは、今の時代でも本当です。クリスチャンの先輩の方々はよくご存知だと思いますが、目に見える雲の柱こそありませんが、イエス様は本当に生活の「ほんのささいな」ところまでご配慮してくださっています。
また、「レプタ2枚のお話」。誰も見ていないのに、思い切って生活費全部を捧げた瞬間までご覧になられていらっしゃること。
裏切ったペテロさんのことを、イエス様のお墓の前に現れた御使いの方が、「弟子たちとペテロ」と名前を呼ばれるところや、また、3回裏切ったペテロさんに、3回「悔い改め証拠」の機会をお与えになられるイエス様。
ちなみに、何か教会でみんなの前で大きな失敗をしてしまった時、主イエス様は必ず、挽回する機会を下さいます。「おちこぼれ」でさえ、必ず機会が来ることを知っています。
ご自身の系図の中にさえ、はっきりと現れています。
「主は罪の内に生まれた子どもを、あるいは姦淫によって生まれた者でさえ、神様の王子の列に加えることがおできになります。主は御自分の系図を隠されないことによって、それを明らかにされました。・・・我々は罪の傾向を受け継ぎ、罪の性質をもって生まれたことを嘆き、それに勝利できないことを思って失望しかけていました。・・・しかし、イエス・キリスト様は、「肉によればダビデの子孫」であり・・・、罪深い者たちを兄弟と呼ぶことを恥とされません。ですから我々の受け継いだ性質がどのようなものであれ、聖霊様の力は肉体の力をはるかに勝っているので、それまでの肉の支配を完全にくつがえし、我々を神様の性質にあずかる者として下さいます。福音には何と素晴らしい可能性が秘められているのでしょう。」
長血をいやされた女の方に、もちろんご存知でいらっしゃるのに、「さわったのは誰か?」と証の機会をお与えになられ、クリスチャンにとって最高の?言葉、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とのお言葉をくださる場面。付け加えるのも気がひけるくらいですが、かなりの偏見に囲まれていたであろう彼女、証したおかげで、その後の人生がどれほど開けたか、また、多くの人々を励まし、また永遠に彼女の思い出ともなる証になりました。
どんなに忙しくても、どんなにつらくても、回りに味方が一人もいないかのように、思われる時でさえ、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」といつでも変わらないメッセージをお与え続ける愛。髪の毛など数えたこともないですが・・・、「すべて数えてられている」。
「からすの子が神様に向かって呼ばわり、食物がなくて、さまようとき、からすにえさをお与えになる」。また、人間の「われらの日ごとの食物を今日もお与えください」との祈りに耳を傾けられ、植物に、大地に、雨に、太陽にお命じになられ、奇跡をおこなわれる現実。
イザベルに脅かされて逃げたエリヤさんに主のお使いは何もおっしゃらず、ただ「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」とか・・・。そして、「あなたは逃げてきたのか」ではなく、「あなたは、ここで何をしているのか」とお語りになられる愛。この辺になると涙なくして読めないところです・・・。
死人をよみがえらせ、らい病人をいやされ、あしなえをたたせ、盲人の目を開き、多くの苦しむ人々を救う御力をもっていらしたイエス様。
しかし、それら全てを捨てて、十字架しか待っていないエルサレムに向かわれるイエス様。
最後の晩餐ですべての弟子が裏切るのをご存知でいらっしゃりながら、「感謝して」パンを裂かれるイエス様。
神様の民がイエス様を拒み、弟子のユダが裏切り、ペテロは3回否定し、すべての弟子が見捨てるのをご存知でいらっしゃりながら、ゲッセマネで祈られるイエス様。
復活された後、天にのぼられ、罪のない天使、天の住民、平和な天国、病無く、危険なく、憎しみ無く、涙のない、宝石以上に輝く天国、それら全てを捨てて、この罪に汚れた地上に打ちひしがれた弟子たちを励ますために、戻ってこられるイエス様。
たとえ、どんな犠牲を払われても、多くの人々が拒んで、犠牲が無駄になり、滅んでいくのをご存知でいらっしゃりながら、なおも救いのご計画をおやめになられないイエス様。
「イエス様の死が無駄にならないように」と祈りましょう、との言葉をあるくらいです。
イエス様をあざけり、拒み、十字架につけてしまったエルサレム、ユダヤの国、なのになおも最初に、弟子たちに福音を宣べ伝えるようにお命じになられるイエス様。
99匹の羊をおいて、迷った羊を探しにいかれるイエス様。
まるでイエス様のお心には、この暗い、罪に染まった、絶望的な、小さいこの地球のことしか思っていらっしゃれないかのようです。「よく、聞きなさい。それと同じように罪人が一人でも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない99人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」「ひとりでも・・・」。
などなどいっぱいです。
「イエス様から目をそらすと闇がみえるであろう」。ふと、イエス様から目をそらすと・・・闇だらけ、ですが。
「自己のことを考えていると、心は力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致の交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。悪魔の策略に迷わされてはなりません。本当に良心的で、神様のために生きたいと望んでいる人々にさえ、悪魔は、自己の欠点や弱さのことばかり考えさえ、こうしてキリストから離して、ついには勝利を得ようと願っています。」
軌道修正、軌道修正とかけてみると・・・、今もなお、復活されたイエス様が昔と変わらず、昨日と同じように、今もなお、憐れみ深い御方でいらっしゃることがよくわかるのです。
この話のあとに証を入れようと思っていましたが、あまりに貧弱なので、やめました。義の太陽のまえに何を持ってきてもむなしいですね。 |
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| 18 おちこぼれ ID:Rd4ml78w |
2009/01/26 19:19 |
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「反省」
近頃、かなり反省しています。聖書の御言葉を入れ始めたら、御言葉には測り知れない御力が御言葉そのものの中にあるため、「おちこぼれ」とはまったく似つかわしくない話になってしまっていました。
先日、電気の端子の修理をしていた時です。1本の端子を結構苦労して外しました。続いて次の端子へ・・・。すると前の端子が「バチッと」火花が散って、「ついさっきまで触っていたコード」の先端が焼け飛びました。その端子を指でつかんで作業していた時は、何にも感じず、感電しなかったのですが・・・、もしそのまま感電していたら?
突然、スレッドが途絶えていたかも・・・? 今、書いていられるのも生きている証拠・・・。器の足りないことはご勘弁を。
今日、賛美歌で歌った通り、「命拾い」でした・・・・・・。「電源がはいっていたままでした・・・」、大反省でした。
あまりにドジで、間抜けな「おちこぼれ」は、まだ天国にいく準備ができていないので、電流が流れている端子を、触っている時には、体に電流が流れないように守ってくださり、しかも、その御守りさえ気付かない恩知らずな者に気付かせるため、次の端子に移った瞬間、コードが焼けきれるほど「バチッと」音を鳴らせと火花を散らして気付かされたのでしょうか。
しかも、その出来事は、その後、次に起こってくる様々な出来事に対し、主イエス様の万全な御守りの保証となり、どれほどこの証を思い出して助けられたか、計り知れません。
ここでも、「わたしにできないことがあろうか」とおっしゃられていらっしゃるようです。
「空の空、いっさいは空である」 じゃあ、人間って一体何のために・・・。
「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」 そうだな~と(^^)、納得してる場合ではないですね。本当に、「ちりに過ぎない」ことがわかると感謝が湧き上がります。
「暗やみから驚くべきみ光に招き入れてくださったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」
「子々孫々、主に仕え、
人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
主がなされたその救いを
後に生まれる民にのべ伝えるでしょう」
小さな証、「なあんだ、そんな事か・・・」と言われるかも・・・の「とっても小さな証」ですが、大きな証はもっと優れた方々にお任せし、背伸びしないで、「だれもが体験できる、いえ体験したことのある小さな証」を書いていこうかなと思っています。
好きな言葉です。「証とは新しい事を提示することではなく、人々が忘れていたことを思い出させるためである」
「地は主のいつくしみで満ちている」
もし、主イエス様が、あの時も、この時も、今に至るまでずっと・・・、絶えることなく、休むことなく、気付いても、気付かなくても、感謝されても、感謝されなくても、不平を言われても、裏切られても、そむかれても、ずっと・・・真実だけを尽くして来られたことを思い出してくだされば、とってもうれしいです。 |
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| 19 おちこぼれ ID:D/ykjP/Y |
2009/01/29 09:10 |
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「自然のプレゼント」
ひかりさんが、自然のいろいろな祝福について書いていたので、便乗します。
ヒゼキヤ王様が悪性の腫れ物が出来て、亡くなりかけた時、預言者ナタンさんを通じて、「干しいちじくの一塊」を腫れ物につけて癒されました。またイエス様はどろを目にお付けになられシロアムの池にいって洗うようにおっしゃり、盲人の目を癒されました。たった一言でもお癒しになられることのおできになられる御方が、自然の単純なものをお用いになられ、お癒しになられた記述です。
さて、キリスト教界で様々な「偽りのいやし」が横行し、神様の御業を汚すようなことが起こりました。
そこで、自然の単純な物を用いて、多くの方々を癒すためのキリスト教の病院が建てられました。「おちこぼれ」も前にその病院で働いていたため、ちょっとだけ「自然の中に神様がお備えになられた単純なもの・・・、すなわち食物の選択を賢くすること、水、空気、運動、衛生などなど」の知識も知ることもできました。今では、かなり「常識」になってしまいましたが・・・。
しかし、神様がこのように民のためにお導き下った当時、教会員の平均寿命は30代・・・。子供や若者達を含め大勢短命で亡くなられていたそうです・・・。
しかし、このお導きが与えられてから、100年以上の長い年月を通じて、たくさんの病気がちの、また過労で倒れていたクリスチャンの方々がより健康になり、元気になり、伝道や、教会活動、奉仕の働き、社会への貢献に、従事できるようになりました。それは、ある一部の幾人かではなく、教会全体を通して証になり、教会の外にまで、その素晴らしい祝福は広がっています。
今では統計的、医学的、科学的にも証明され、長寿とまたお年を召されてもお元気な姿が証となっています。
今やこの世の中、最も信頼が要求される食品業界でさえ、「偽り」「毒入り」が大流行?ですから、「賢く」選ばなければならないのは、「おちこぼれ」より主婦の方々の方が何十倍もご存知だと思います。
もしかしたら、医師によっては嫌う方もいらっしゃいますが、いわゆる西洋医学で治らない病気もたくさんあるのも事実。もし治っていたら、病院はもっと閑散としていることでしょう。
余談ながら、最近学んだことでは、結構周知のことですが、「緑茶」は皮膚炎に効く場合があります。緑茶に入っている有名なカテキン、インターネットで調べたら日本人の発見で「勝て菌」から命名されたとか・・・。かなりの種類の菌に対して抗菌、殺菌作用、また抗酸化作用もあるとか、訪問看護では水虫の治療などにもつかえるとか・・・。
いろいろ薬など試して、「あー、治らない。どうしよう」と困っている場合はいかがでしょうか。用法にはぜひ注意してくださいね。生兵法は怪我の下・・・。
今ではインターネットが整備されていますから、お調べくだされば病院での臨床報告も含めかなり出ています。
また、また臨床工学技士の学生時代、ルームメイトのいわゆるギャル?(怒られるかな?)たちは「にきび」で結構苦労していました。
「いじめられて」、「悪口言われて」、死んでしまいたいくらい悩んでいる子もいると思います。辛いですよね。本当に苦しいものです。
エステ、薬、ファウンデーション(?)などなど、ある学生がありとあらゆる物を莫大なお金を?かけて、やっとたどりついたのが、「納豆と水菜」でした。当然ながらこの方法は僕は試したことがないので、保証はできません。ちなみに口内炎には「納豆、ハブ茶、アロエ」などがいいかも・・・。研究につぐ研究の成果、「青い鳥は家の中に」とは医学でもあることのようです。
もちろん、体質によって違いますし、自然治療ですら「偽り」が多いのも事実。お気をつけください。
しかし、「祈りによる癒し」でも、「食事」でも、「自然治療」でも、「医療」でも、価値があるからこそ、「本物がある」からこそ、偽物がでているのも事実です。1円玉を偽造しても、そこまで苦労かけると遥かにコストオーバー。しかも通貨偽造罪の重罪に・・・になりそうです。
偽札を見抜く人たちは、いつも本物をよく見ているそうです。すると偽物が来た時すぐにわかるそうです。「偽物ばかり見ていると」結構危険。かえってわからないようですね。
「イエス様の事をいつも思っていなさい」
どこの世界も同じですね。
すると自分がいかに偽物であることがよくわかりますから・・・。サタンは自分のやった破壊の結果を何千年、山ほど見ても、何の改心もしませんから、本物を見ないといけないですね。
「本物って?」
バプテスマのヨハネさんは、何のしるしも奇跡も行われませんでした。
「あなたがたはしるしと奇跡を見ない限り、決して信じないだろう。」
「イエス様の神性についての証拠をたえず示しているそのみことばには、サマリヤ人の心を動かし、確信させる力があった。キリスト様は、神様のみことばを託されているご自分の民が、御子を通して彼らに語られる神様の声をきかないことを悲しまれた。」
「われわれは、神様がわれわれの願いをきかれるのを見たり感じたりするから、信じるのではない。我々は神様の約束に信頼するのである。信仰をもって神様のみもとに行く時、願いごとはすべて神様のみ心にとめられる。神様の祝福を求めたら、それを受けることを信じ、そしてそれを受けたことを感謝すべきである。それからわれわれは、最も必要な時にその祝福が実現されることを確信して、自分の義務をつくすのである。神様はわれわれのために、『その栄光の富にしたがい』『神様の力強い活動によって』『はるかに超えて』なしてくださるのである。」
イエス様は、人の思いを遥かに超えて、良い贈り物を用意されていらっしゃいます。 |
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| 20 おちこぼれ ID:/bGwMC6A |
2009/02/01 21:32 |
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「感謝で答えるのをじっと待っておられる」
さて、教会に来たばかりのことです。そこでは熱心な聖書研究が行われていました。「人の心ってアイヒマンのようだね」。アイヒマン・・・、ヒトラーの片腕として沢山の人々の大虐殺計画を指揮した冷酷な人です。人の心の中には、同じ心がある・・・。まぎれもない事実です。教会では、オブラートに包むことなく真実が語られていました。手を洗うか否か、どころの騒ぎではなく、人の心の中にパリサイ人を破滅させた心、ガデラの狂人の心、が罪として支配している。
心で思っただけでも罪です。はっきり言いまして絶望・・・。神様でも、救いようがない???
また、だんだん「思っていること」と、「やっていること」とは全く別世界であることも気付きます・・・。口癖一つ直すのも自分の口だから簡単・・・と思いきや、まるっきり別世界というくらい直らない。20年ぶりの運動会、イメージではさっそうと走っている、しかし、「あれ?足がついていかない・・・」。何と言うみじめな人間なんだろう・・・?
他にもましてや、もっと絶望的な「おちこぼれ」・・・。罪の心をもって永遠に生きる??? とんでもない、死んだ方がまし・・・と思ったのは僕だけでしょうか・・・。
「狭い門から入れ」「この世は罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それを来たらせる人は、わざわいである。もし、あなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい・・・」などなど、聖書の中には間違った道を行かないため、標識が沢山あって導いてくださっています。
心はカスカス・・・、いくらイエス様の話を聞いても、御言葉を読んでも心に入ってこない。もう絶望かな・・・。しかも、「おちこぼれ」の場合は、素晴らしいイエス様の祝福をいただき、人生に喜びをいただき、溢れるばかりの感動や経験、奇跡、を受けて、なおそうなったから性質(たち)が非常に悪いのです。
普通の人からは、馬鹿にされるかも・・・。しかし、ここからも救ってくださる道はあります。
感謝のなくなった心・・・。そのICUでの処方箋は、ともかく「しなさい」という事をすることでした。
食事をする時は、目の前にある食物がここまで来た過程を考える。アフリカや餓えのため苦しんでいる人を思い浮かべる。物を捨てるときは、きちんと洗って、感謝して捨てる。すべて誰かが作り、またそのゴミを持っていってくださる方々がいらっしゃいます。
イエス様や礼拝説教の話も、「自分だったら、どうだろう。自分だったどうだろうか」と聞く。はっきり言って霊的に死んでしまうか、生きるかの瀬戸際。「批評批判している暇はありません」。イエス様が、むち打たれている御姿、十字架に上げられるお姿、涙を流される御姿を思いながら、頭でなく、全身で聞けば、賛美歌、礼拝、あふれる感動の中に礼拝できるようになり、あの忌まわしい「人を裁く心」、「感謝のない心」、「白けた心」から救っていただけます。
「罪人である私をお許しください」とお詫びする。それさえできなければ、「イエス様お助けください」と祈る。「こんな者です」と悔いる。
クリスチャンの先輩の方も、どのようにしたら、お祈りに一番心が入るか研究し、やはり、胸の前で手を組むのが一番心が入る、と思われたそうです。お祈りの最中、いらない思いがよぎったらイエス様にお詫びし、最初からお祈りされたり・・・。その御、経験の中から多くの信仰の生き方を学びました。
病院ではご入院される患者さんに親しいご家族、友人がお見舞いによく花を持って来られます。中には、ベッドが花で埋まってしまいそうになる方も・・・。
しかし、わたしたちの天の父は、この地上を花でいっぱいにしてくださり・・・。どこを見ても、どんな時でも、美しい花に囲まれています。
「さえずる小鳥ややさしい花を神様がお与えになったのは、あなたの人生の歩みを明るく楽しいものにしようとする父の心からあふれ出る愛のゆえではなかったでしょうか。花や小鳥はなくても生存に必要なものはすべて与えられていました。だが神様は、単に生存に十分なだけを備えることで満足なさりませんでした。神様がいかにあなたを愛しておられるかを知らせるために、地にも大空にも美しいものを満たされたのです。すべて造られたものの美しさは、神様の栄光の輝きのかすかなあらわれにすぎません。神様があなたの幸福と喜びのために、自然の事物にこうした無限の技巧をこらされたとすれば、まして必要な祝福をすべて与えてくださるのを疑うことができるでしょうか。」
人に何かして、一向に感謝しなかったり、あるいは文句まで言われたり、あるいは人生を、また命を、自分の存在をかけて、人のために何かして、何の感謝もなかったり、文句までいわれたり・・・すると、「もういいや、勝手にしろ」なんて・・・。
しかし、我々の救い主は、十字架の死をもって愛して、それでも背ける人に、変わることなく、あきらめることなく、尽くされます・・・。この御方こそ、我々の主。生きておられる救い主イエス様です。
「落ちこぼれ」はこんな話が好きなのですが、中には神学的な話が好きな方もいらっしゃると思いますので、次に「滅びるのは難しい」を書きます。 |
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| 21 おちこぼれ ID:/bGwMC6A |
2009/02/01 22:48 |
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「滅びるのは難しい」
この証は落ちこぼれの証ではない(ほんの一部です)ので、小さな証(7)に書くべきですが・・・。
失われる為には、既に与えられた賜物と今も強く迫ってくる神様の愛を拒まなければならない。
「なぜならキリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」(2コリント5:14、15)
① ひとりの御方が我々のために死ななかったら、現在全人類は生きていない。
② 我々がクリスチャンであろうとなかろうと、この生命はキリストの犠牲によって無償で与えられている。
「この世の生命でさえキリストのおかげである。我々の食べるパンはキリストの裂かれたからだをもって買われたものである。我々の飲む水はキリストの流された血によって買われたのである。聖徒であろうと、罪人であろうと、日毎の食物を食べる者は誰でもキリストの体と血によって養われているのである。どのパンにもカルバリーの十字架の印がおされている。どの泉にもカルバリーの十字架が反映している。」
③ これを心から信じる者にとって利己的に生きる事は不可能になる。
「何故ならキリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」(2コリント5:14)
「神様の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2:4)
「我々は『神様の慈愛が人間を悔い改めに導く場合もある』と言い換える必要はありません。聖書はそれが必ずや人を悔い改めに導くと断言しているのであり、我々はその確かさを確信してよいのです。神様の慈愛が続く限り、全人類は必ず悔い改めに導かれるのです。」
「もちろん人は自分がキリストの導かれていることを意識する前に、罪深い行為を恥じて悪い習慣をやめる事があります。けれども人が正しい事をしたいと切望して改めようと努力する時はいつでも、キリストの力が働いて彼らをひきつけているのです。自分たちは意識していないけれども、その力が心のうちに働いて良心を呼びさまし、行為が改められるのであります。・・・罪人はこの愛を拒み、キリストに引かれることを拒むこともできますが、逆らいさえしなければ、自然にイエス様に引き寄せられるのであります。」
「(福音が示されても)すべての人は悔い改めません。何故でしょう?彼らは神様の慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじ、主の憐れみの導きから離れるからです。しかし、どんな人でも主に抵抗しなければ、悔い改めと救いに導かれてしまうのです。」
「はかり知れない愛は、主に贖われた者たちが世から天へわたる為の通路を設けられた、その通路というのは神様の御子である。天使の道案内人たちは我々の迷いやすい足を導くためにつかわされた。天からの輝くはしごは全ての人の行く手をさえぎり、人が不道徳と愚行に堕ちていかないように立ちはだかる。人が敢えて罪の生活を続けるには十字架につけられた贖い主を踏みにじっていかなければならないのである。」
人類は既に神様の子で、永遠の命を譲りうける資格を与えられている。
「しかし、信仰が現れる前にはわたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストへ連れていく養育係となったのである。・・・あなたがたはみなキリスト・イエスにある信仰によって神様の子なのである。・・・相続人が子供である間は全財産の持ち主でありながら僕となんの差別もなく、父親の定めた時期までは管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。それと同じく、わたしたちも子供であった時にはいわゆるこの世のもろもろの霊力の下に縛られていた者であった。しかし時の満ちるに及んで神様は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせておつかわしになった。それは律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」(ガラテヤ3:23‐26、4:1‐5)
「神様は人類を見捨てられてはいないので、最初に創造された人間が神様の子と呼ばれて以来、全人類は神様の子孫であり、後継ぎなのです。・・・『信仰が現れる前には』すべての人間が神様からさまよい出ていたにもかかわらず、いつかその約束を受け入れるようになるまで律法の下で監視され、養育係に閉じ込められて、守られていたのです。不信心な者、罪の奴隷になっている者でさえ神様は御自分の子供だと認められるとは、何という特権でしょう。さまよえる放蕩息子ではありますが、それでも子供なのです。神様は全人類を『御子にあって受け入れられた』のです。この恩恵期間は神様が父である事を我々が知り、実際に神様の子となるためのチャンスとして与えられているのです。」
「信仰を持つという事は主御自身を持つという事ですから、キリストにある信仰は必ず神様の義をもたらします。この信仰はキリストが御自分をすべての人に与えられたように全人類に与えられています。では何が総ての人が救われるのをはばむのかと皆さんは聞かれるでしょう。実は何もないのです。ただ、総ての人はその与えられた信仰を保たないというだけで、もしすべての人が神様から与えられた信仰を捨てないなら、1人残らず救われるでしょう。」
神様は御自分から罪人を滅ぼされるのではない。罪人が壁を作って救いを拒み続ける時にのみ、滅びという実を刈り取る。
「悪人の子供が信じるのは、善人の子供が信じるのと同じくらい自然なことです。人間が信じることに困難を感じるのは、自己に対する誇りという壁を築き上げた場合だけです。」
聖霊に支配される時に善を行うのがたやすくなる。
「聖霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことはない。何故なら肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして二つのものは互いに相逆らい、その結果あなたがたは自分でしようと思うことをすることができないようになる。」(ガラテヤ5:16、17)
「人間が悔い改めて神様の御霊の下にある時、それは肉とその傾向や欲望から分離できるという事ではありません。・・・否、以前と同じく堕落した罪深い肉を持ってはいますが、もはやその人はこれらの奴隷ではないという事なのです。彼は傾向や欲望といった肉の支配から解かれ、聖霊の支配に服するのです。今やその人は肉に勝利し、肉を十字架につけ、肉を抑え続ける力に支配されるのです。・・・肉自体が聖霊による神様の力の支配下につながれるのですべての悪は根元から断たれ、生活の内に表されなくなります。」
「恵みが支配する時、悪を行うよりも善を行う方がたやすい・・・というのがその比較です。お気づきになりましたか?罪が支配するに至ったように、恵みをまた支配するのです。罪が支配している時には恵みを締め出し、神様がお与えになる力を全く寄せつけないようにするのですが、一旦、罪の力が破られて恵みが支配するとそれは罪を追い出し、罪の力を残らず撃退するわけです。ですから罪の支配のもとに善より悪を行うのがたやすいのと全く同じように、恵みの支配下においては悪を行うより、善を行うほうがたやすいのです。」
「もし恵みに罪以上の力がなければ、罪から救われるのは不可能ですから、罪からの救いは恵みに罪以上の力があるか否かにかかっているのです。・・・昔から人間にとって善を行うのは非常な努力を要してきました。これは人間が生まれつき罪の力の絶対的な支配に服している為です。そしてその支配が続く限り、人間が知っている、そして欲している善は行う事が困難どころか、全く不可能なのです。しかしそれ以上の力が支配するなら、先の力に服していた以上にその力に服することがたやすいのは、自明の理ではありませんか。」
「新生すると古い性質に対しはるかに優勢な立場になります。・・・神様の相続にあずかる者は地上の両親よりも天の父が偉大であるように、遺伝によって受けた悪への傾向よりも義を行わせる力の方が、彼の内に強く働きかけるのです。」 |
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| 22 おちこぼれ ID:/bGwMC6A |
2009/02/01 23:00 |
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「報い」
憐れみ深い主イエス様は、どうして福音宣伝の使命を人類にお与えになられたのだろう・・・。教会の奏楽、賛美歌、掃除、花を飾る事、マイクの準備、陰のお祈り、献金、受付、食事の準備・・・。聖餐式の準備などなど・・・。
僕のそばについていてくださる天使の方、また、瞬時にどんな不思議な業をなすことのできる天使の方々なら、どんなに失敗なく、誤りなく、この純粋な福音が伝えられるだろう・・・。もっと優れた方々、才能のある方々はいっぱいいるのに・・・。
答えは? 「あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり」でしょうか。まるでイエス様は、子供たちが喜ぶ顔を待っておられるかのようです。
僕の最も好きな文章の1つです。
「贖われた人々は、自分達があげられた救い主に心を向けさせてきた魂に会って、それと知るであろう。彼らはこうした人々とどんなにか祝福に満ちた会話を取りかわすことであろう。『神もなく、この世に希望もなく、わたしは罪人であった。しかし、あなたがわたしのところに来られて、わたしの唯一の希望としてわたしの心を尊い救い主に向けさせてくださった。わたしは自分の罪を悔いた。そして、イエス・キリストにあって、天国における主の聖徒と共に座らせてくださったのだ』とその魂は言うであろう。他の人々はこう言うであろう。『わたしは異教国の異教徒だった。あなたはあなたの友を去り、心地よい家庭を去って、わたしのもとに来られ、イエス様を見いだし、唯一の真の神様として主を信じる方法を教えてくださった。わたしは偶像を壊し、神様を拝んだ。そして今こそわたしは神様に対面しているのだ。わたしは救われた。永遠に救われて、わたしの愛する神様を常に見上げている。あのころ、わたしは信仰の目だけで神様を見ていたのだが、今、わたしは現実におられる神様を見ている。わたしを愛し、御自分の血潮でわたしの罪を洗い流してくださったおかたに、今こそ私はそのあがないの恵みに対する感謝の気持ちを表わすことができるのだ』と言うであろう。」
人が、「人生、絶望だ」と思ったとき、小さい時に聞いていた賛美歌を思い出し、生きる力をいただいたというのはとってもよくある話です。
「おちこぼれ」もまた、たった一つの言葉、あるいはだまって隣に座ってくれる行為、聖歌隊の賛美歌、挨拶の一つ、小さな心使いに救われてきたものです。しかも、多分ご本人たちはほとんど無意識・・・。もしかしたら、とっても深い悩みや、試練に会われていたかも・・・。
しかし、どんなに小さな業でも・・・、「業は残る」ものですね。 |
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| 23 おちこぼれ ID:6EYveOTc |
2009/02/05 21:48 |
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「沈んだり、潜ったり」
「私の信仰は、ローラーコースター信仰なのよ」と、教会を訪問された方がおっしゃっていました。意味はこうです。「あがったり、さがったり・・・」。
それを、聞いていた当時の「おちこぼれ」、心の中で「すごい、『あがる』ことがあるんだ...。僕は一年に一度喜ぶ瞬間があればいいかな?・・・」
ある「正直な?」クリスチャンの方がおっしゃいました。「わたしは、沈んだり、潜ったり・・・」。浮かばれない???ですね。その場で結構、とても共感している方もいらしたりして・・・。
「おちこぼれ」が入院している時、病院に働いていらした家政婦さんは、文句ばかり言っていました。窓から外を見て、
「ああ、からすがたくさんいるよ、今日はいつもより多いよ」「ああ、また雨だ、1日中雨だってよ・・・」。
ある時、とっても良い天気になります。すると・・・、「明日、雨だってよ」。
この闇のサイクルから、素晴らしいサイクルに切り替わるのは本当に奇跡、主イエス様のお恵みとしか言いようがありません。様々な出来事の中に、主の慈しみの御摂理が見えるようになります。
リュウマチ?が走って、それでも集会のご奉仕をされていらっしゃるクリスチャンの方がいらっしゃいました。鉛筆の先で目の近くをつつきながら、痛みを押さえて証されていたその方は、集会の中の途中でこうおっしゃいました。
「イエス様、この痛みを感謝します・・・」。その時、「あ、痛みがとれた・・・」とおっしゃいました。その耐えられないほどの痛みが取られたこのです。
こういう証はとっても有難いです。ある時、「おちこぼれ」が仕事でどうしても各課を回って、読み合わせをしなければならなかった時、口の中にとっても大きい口内炎ができていました。痛くて話せたものではありません。倉庫で準備をしながら、アルバイトの子に口を歪めながら、「いやあ、話せるって有難いね」と話します。すると、今まで痛んでいた口内炎が嘘のように痛みがなくなりました。その日、各課で証しながら、「話せるってありがたい」と痛みのない口で読み合わせをしていました。
そのような尊い経験を数々いただき、主イエス様の溢れるばかりの愛、そして兄弟姉妹の陰のお祈り、忍耐の交わりの数々を経験し、イエス様の教えが、人の幸せのため、あることを体験します。
「神様に目を開かれた人は、神様が恵み深いお方であることがわかる」。あるいは、「御言葉の主題が喜びであることを知る」。
さてある本で、「リバイバルの後、多くの場合、光は闇にかわる」と読んだことがあります。確かに歴史上、あるいは教会史を紐解いてみると、そのようです。
また、ご主人が未信者で迫害されていた時は、熱く信仰に燃えていた奥様方が、ご主人が教会に導かれ、優しくなると急に信仰の熱が冷めてしう・・・。そのようなケースもたくさん見てきました。
空のコップを運ぶより、水がいっぱいになったコップを運ぶ方が難しい・・・とあり、人間ってやっぱり祝福をもらうと、そうなっちゃうのかな?と思っていた時、素晴らしい証を読みます。
「神様は祝福を与えようと待っておられる」「神様は人々に祝福を与えて、人がそれをどう用いるかを見ておられる」「いただいた祝福・・・、それはいつも心の中で大切にしています」・・・と、「おちこぼれ」は自分を欺いていました。ところが、大切にするとは心の中で「ありがたい」と思っていることではなくて、それをどのように用いたか・・・。その祝福を分け与えたか、に掛っていることを見つけました。「人に分け与えていたら、その光は倍加したことでしょう」。
ある奥さんはご主人も家族もイエス様に導かれても、こうおっしゃいました。「わたしはますますイエス様に行かなければならない」と。
そうか、祝福を全然大切にしていなかったんだ・・・と気付きます。そして、祝福をいただいたら直ちに・・・、分け与え始めます。すると・・・。その祝福は自分だけのためではなかった事に気付きます。そして、「主イエス様は祝福を与えようと待っておられる」ことが本当であることを知るようになります。もちろん、「その人にだけ」はありません。みんなの人に・・・。
「感謝する」「大切にする」言葉の意味を間違っていることのいかに多いことか・・・。永遠に向かって、朝を迎えることのない夜へむかって歩んでいるのでした。「沈んだり、潜ったり・・・」。
信仰の先輩からはこのような話を伺いました。糖尿病の患者さんが、甘い物を目の前にして、「神様、もしこれを食べることが御心でないのであれば、これを取り去ってください」とお祈りします。さて、目を開けると・・・、やはりそのおいしそうな甘い物は目の前に・・・。「御心だ、食べちゃおう」 じゃ、おかしいでしょ?
「祈りは実行しなければならない」ことを知ります。
それでも、落ち込んでいる「おちこぼれ」に、信仰の強い方々をお用いになられ、自分には到底乗越えられそうもない所を通り、なおかつ感謝しているクリスチャンの姿をみせてくださいました。そして、気付きます。「沈んだり、潜ったり・・・僕の悩みって、大したことないや」と。
十字架の前夜、全員裏切っていく弟子達を前に、感謝してパンを裂かれたイエス様。そのお姿を見上げれば・・・。自分の悩みなんて言ったのも、恥じ入るばかりです。
「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」
「沈んだり、潜ったり」 今は、そのようなことの全くない世界に生きていて・・・。「これはすべてイエス様の栄光でございます」と身を小さくして、深く頭を深く下げる「おちこぼれ」です。
しかしそれでも、こう思うのです。「こんなことありっこない、誰かが僕のために祈っている・・・」 |
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| 24 おちこぼれ ID:0QrB8juE |
2009/02/09 15:47 |
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「挨拶」
「兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか」
さて、「落ちこぼれ」が学生だった時、本番の試験の合格ラインは6割、60点でした。そこで、「学校の全ての試験、目標は高く70点!」と思っていました。その時、教会の姉妹から「100点よ、100点!」とのお言葉・・・。
「え~。僕の目標7は70点・・・」と思いつつ、100点を目指します。100点取るには120点ぐらい(ひょっとしてもっと?)の勉強をしないととれません。しかも、ミスは許されない。99点と100点では大きな差があります。山掛け・・・もできないし、勉強できるすべての部分を勉強しなければなりません。過去問見るだけでもだめ。ましてや好きな所だけ勉強するのでは通用しません。
しかし、この言葉のおかげで、成績はかなり良く、本番試験でも9割ぐらいとれたり・・・。ありがたいばかりでした。その姉妹はその様子を静かに微笑んでいました。
さて、「それだから、あなたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
・・・・・・・・・・・・・。
「・・・」をいくつつけても足りないくらいです。しかし、信仰の先輩はこうおっしゃいました。「高い山を見て、これはとっても登れない!と、いうのではなく、まず、一歩足をあげるところから始めるのよ。」
この一つ前に書いてあるのが、「兄弟だけにあいさつをしたから・・・」の聖句。「全ての人に挨拶するのよ、もしかしたらその人今日、自殺しようとしているかもしれないから・・・。」
あいさつなら・・・、「おちこぼれ」でも・・・。
「時たまの努力は何の役にも立たない」「中途半端な奉仕はしないほうが良い」「芽は芽で完全、葉は葉で完全、花は花で完全、完成はない」などなどの言葉に励まされながら、続けていくと、するのが楽になり、楽しくなり、つづいて会話ができるようになり、証まで聞いてくださるようになり、だんだん行動範囲も広くなり、教会で次にこれをやってみたら?すると、思いもよらない結果が・・・。そこでも「とどまるな、前進!」
「100点!ですので、目標は高く!?」賞を得るように、先のもの求めつつ・・・。
「わたしは、子供がテストで100点取ってきても誉めないの・・・でも、その子が誰かのために犠牲になって帰ってきたときは誉めてあげるの。」「勉強が苦手でできない子が、頑張って60点取ってきたときは誉めてあげるの。」
落ちこぼれたら・・・それでも不思議なお導きが与えられています。
不自由なお体になられてすら・・・、「ありがとう」この一言で、人生の重荷を背負った医療スタッフに感動と笑顔を与え、励まし続けている患者方もいらっしゃいます。 |
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| 25 おちこぼれ ID:mPuTrFiQ |
2009/02/11 16:38 |
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「光の中にいる?」
「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分でどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。」
さて、「おちこぼれ」がそれこそわき目もふらず、信仰?を求めていた時です。断食したり?、一晩中祈ったり?、一晩中聖書を読んだり?・・・。難行苦行???。しかも、薄々気付いています。「兄弟なんか、髪の毛一筋とも愛していない・・・。ちょっと違うぞ・・・。」
ある集会の時でした。「それは、自我と闘っていないだろう。イエス様に逆らっているだろう?」というクリスチャンの言葉がすっと心に入ってきました。体中から力がすっと抜けるのを感じ・・・、「あ、このガチガチに固まっているのが『自我』なんだ」と気付いたのです。
今まで、「これもやらないと、あれもやらないと、これもできていない、あれもできていない・・」とあせっていた。その心が、「御言葉をやっていきたい!」という心に変えられます。すると、「あ、イエス様がしなさいとおっしゃることはみな、人の幸せになることばかりじゃないか」と気付きます。
「つっぱって人の上に立とう???」としていた「おちこぼれ」・・・。「人に仕えるって何て幸せなことなんだろう!」と気付きます。人間は人に仕えることが一番幸せになるように造られているんだ・・・ということも知ります。「人の話を聞く」ということ、「心を低くする」「心を折る」ことを学んだのでした。
「信仰の兄弟の話を聞き、その通りに行うこと・・・」、それが何と幸せなことかを次々に体験します。
「神様の言うことは聞くけど、人の言うことはきかない」???、おいおい、それは違うよ、と苦い経験をいっぱいに証できるようになります。多分、受け入れてくれないかも・・・。少なくとも、かつて「必死で?」闘っている?「おちこぼれ」に同じように言われても・・・、「はい」と言いながら、聞かなかっただろうな・・・。
しかし、その経験をすぐに話していくと・・・、「わたし、今ちょうど、同じ状態だったの」と、「喜んで聞いてくださる方」にお会いしたりして・・・。
「あなたの心が低いと、聖霊様は『相手の人に』お働きになられるのよ・・・。主は心のへりくだった所にいらっしゃるのよ。」
え?何か聖句を話し出したり?・・・、奇跡が起せたり?、僕に聖霊様が来られるのでなく、相手の方にいらっしゃるの?
「クリスチャンは他の人のためにだけ、生きるのよ。」 ひょっとして、「自我だらけ・・?」の信仰って全然わかっていないんだなぁ・・・・!
「ふたり、または3人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」
ここまでよく読めば・・・、なあ~だ、結局、自閉症、閉じこもりから、一歩社会に出られたわけね。良かった、良かった・・・ぐらい?ですけど、見える世界の色までも違う・・・とってもありがたいことなのです。 |
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| 26 おちこぼれ ID:WMBpslPg |
2009/02/12 17:32 |
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「事実」
毎日の様々な出来事の中で、時には、「あ、お金が全然ない」とか、「リストラ?」「君がいると費用ばかりかかる」とか、「今日、どこに泊まろうか・・・」とか、あちこち、病気と痛みで動けない、などなどいろいろなことがあると思います。もちろん、素直な人は「人生行路、平ら・・・」ですけど。
ところが、「おちこぼれ」はそんなわけにもいかない・・・。自分の蒔いた種を刈り取っていきます。じゃあ、絶望?ではないです。
「わたしは、ひとりの男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、かれは、寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいというけんそんな気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人のからだをさすり続け、かなりたって後その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分ひとりでは行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人をだきかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう1人を救いたいといる彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。」
雪の中で倒れている旅人ではないですけど、いくら待っても、レスキュー隊はきません。奇跡的な援助も見えない。この一大危機、「イエス様、お助けください!」との叫びに、天からの目に見えない救助隊が次々に送られます。
以前、いただいた御言葉を次々と思い出したり、不思議な摂理の御業が現れます。霊的に絶望!と思われるときでさえも、ふと上のような文章を思い出し・・・。
「ここに書いていることは本当ですね・・・」とあふれる涙と共に、感謝します。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
様々な所や、場面を通るかもしれませんけど、こんなクリスチャンとはとても呼べない「おちこぼれ」でさえも、このことだけは事実でしたと証することができます。
「主イエス様のおっしゃった御言葉、聖書のお約束は、本当でした。」 |
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| 27 おちこぼれ ID:0srZB45Y |
2009/02/16 00:44 |
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「貴重なこと」
それゆえ主はこう仰せられる。
「もしあなたが帰ってくるならば、
もとのようにして、わたしの前に立たせよう。」
もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、
貴重なことを言うならば、
わたしの口のようになる。
彼らはあなたの所に帰ってくる。
しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。」
「落ちこぼれ」が忘れられない光景があります。
それは、ある看護師が食堂に来た時のことでした。
彼はしばらく病院から離れていて、また戻ってきたのでした。
「ひさしぶり!」と一緒に食事をしました。
その時は、イエス様の数々の証・・・ではなく、いわゆる普通のたわいのない話で終わりました。
その一ヶ月後、彼が病院をやめ、そしてしばらくして自殺したことを知ります。
そして、それから2~3年たって、彼が、数年前、彼の勤めていた現場で起こった事故のことでひとりで悩んでいたことを
初めて聞きます。
あの食堂での彼の姿・・・それは、僕の見た最後の彼の姿でした・・・
彼の悩みをわかってあがられなかったどころか、わかろうともしなかった・・・
「全ての人に挨拶をするのよ、もしかしたら、その人は今日、自殺しようとしているかもしれないでしょ?」
この言葉は、かなり大きいです。
「落ちこぼれ」は溢れるばかりの主イエス様の憐れみ、御摂理、御言葉、愛、
クリスチャンの方々の、見守り、証、祈り、とりなしなどによって
「死んでしまいたい」と思っていた人生から、今の驚くべき光の中に生きています。
しかし、彼が自分の前に来た時・・・「たわいのない話」しかしませんでした・・・
「おちこぼれ」は今まで書いてきた証を、話したり、書いたりする時、その証がどれほど多くの感動や涙、試練、苦難を通りながら、与えられてきたかを、知っています。「それは、魂の叫びよ」と話した方もいらっしゃいますが・・・
僕の持っている物の中で、一番の宝物、全部です。
しかし、あの時は、何も・・・しませんでした。
今は、下手くそですけど、証につなげようと・・・と思っています。
償い切れないですけど・・・
「 巨大な火の玉が美しい住居の間に落ち、一瞬の間に破壊されたのをわたしは見た。わたしは誰かが「われわれは神様のさばきが地上にやってくることを知っていた。だがこれほど早くやってくるとはおもわなかった。」といっているのを聞いた。他の人々は苦しい声で、「お前は知っていたのか。それなら、なぜわれわれに話してくれなかったのだ。我々は知らなかった。」と言った。あちこちから、同じような非難の言葉を叫んでいるのが聞こえた。」
神様の裁きの話は、「正直ではあるかせっかちで衝動的な人々は、痛切な説教が与えられると、われわれと共にいない人々にぶっきらぼうに話しかけて、われわれがそういう人々に受け入れてもらいたいと望んでいる真理をその人々にとっていとわしいものにさせてしまう。」とあるので
こんな「おちこぼれ」のような者は、この「最後の日」のテーマは「小さな証(1~9)」まで書かないと・・・
とっても書けません。それでも足りないかも・・・
説教でも牧師さんはちゃんと救いの道も一緒に言っていたとしても、「滅び」だけ心に残ってしまい、
「え~、この世で苦しんで、死で苦しんで、その上、火で焼かれるの?」となってしまう場合も・・・
しかし、死と同様、必ず来ることも事実・・・
ルターさんが「過酷な修道苦行の結果、彼は衰弱し、失神し、けいれん状態に陥った。そしてこの病は後になっても十分に回復すくことはなかった。このように、ありとあらゆる難行苦行を行ったが、心に平安をえることができず、ついに絶望に陥ろうとしていた時」です。
「ルターにとって万事休すと思われたとき、神様は、彼の支援者として1人の友人を起された。敬虔なシュタウピッツが、
ルターに御言葉を示し、自分を見ることなく、また神様の律法を犯したことによる永遠の刑罰を思うことなく、彼の罪をゆるす
救い主イエス様を眺めることを命じた。「罪のために自分を苦しめることをせず、贖い主の腕の中に自分自身を投げ入れよ。彼を
信頼せよ。彼の生涯の義と彼の死による贖罪に信頼し、・・・神様の御子に耳を傾けよ。彼はあなたに神様の恵みの確証を与える
ために、人となられた」「ますあなたを愛された彼を愛せよ」と。」
などなど総動員して話さないと・・・
しかも、「聖書に教えていることについては、人のあかしに頼ったりせずに、自分で神様の御言葉を研究しなければなりません。もし、私たちが当然自分で考えるべきことを他人に任せるようでは、せっかくの精力はそがれ、才能は衰えてしまいます。」とあるくらいとっても重要です。
小さな証・・・それはとっても小さいけれど・・・でも、この罪に染まった、真っ暗な絶望的な世の中で、
いろいろな人達がその貴重な人生でいただいた、一番大切な光です。
しかし、「100の証を聞くよりも、自分にいただいた、たった1つの証の方が、力になります。」
聖書に中には、御言葉そのものの中に、とっても素晴らしい力が溢れるほどにつまっています。 |
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| 28 おちこぼれ ID:ULPhFazg |
2009/02/21 23:12 |
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「謙遜の競争」
ある人が、教会でカンカンに怒っていました。「その人は、わたしに低能!って言ったのよ」。すると、クリスチャンの先輩はすかさず、静かに、「そうなの、わたしは無能よ・・・」。
何をやっても完璧、スピードは速いし、食事など味は天下一品、しかも蓋を開けると思わず歓声が・・・、「見てよし」、「食べてよし」、器も調和してきれいに整っている。また季節感があり、食べる方の、好み、健康状態まですべて把握している。しかも、毎回少しずつ工夫されていて、味が変わっている・・・。そして、その食事の中にあたたかさ、愛情がいっぱい詰まっているのが「わかる」・・・。その方が「無能よ」と言われると・・・・・・。
クリスチャンの心の低さ、また心の清さ、心の純粋さ、清潔さは、水戸黄門の印籠より?はるかに効果があります。「謙遜の限りを尽くして?」、1日終えて、教会に帰っても・・・、心の低さ、心の純潔さに会うと、自分の高慢さが浮き彫りに・・・。それこそ、ハハーッ。
教会では、それこそ学歴の競争や、地位、名誉の話は皆無・・・。これなら、地位があって虚栄に飽きている方々でも心休まるな・・・。
好きな言葉は・・・、「謙遜は栄誉に先立つ」。そうだなあ・・・。
「へりくだる者には知恵がある。」 ほんと、その通りだ。
しかし、同時に「まちがってはいけない。神様は侮られるようなかたではない。人は自分の蒔いたものを、刈り取ることになる」という事もまた現実です。
長年見てきました・・・。また、山ほど?味わってもきました。3倍くらい刈り取るかな?いえいえ、嫌と言うほど・・・、「馬鹿にした人は、馬鹿にされ・・・」。必ず来ます・・・。
謙遜な心が一番幸せです。感謝があふれ出てくるし・・・。
「許せない心」はとっても苦しかった・・・。必死で、「許せない心よ、出て行け!」なんて真剣にやっていました。
ところが、「人の負債の100デナリばっかり」考えていた心が、イエス様に犯した1万タラントに心をむけていただき、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」との十字架上のイエス様のお姿を思い・・・、心はとっても楽になったのです。
「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神様の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」
聖書はすべて愛で書かれているんですね・・・。 |
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| 29 おちこぼれ ID:kVdShoAI |
2009/02/25 20:59 |
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「会話」
ある時、クリスチャンの方が反抗してきた子に話していました。「お前も、『子供』を初めて、やっているだろう? 親も、初めての人生なんだよ。」 親と言えば、神様の次に偉いくらいに思っていた・・・。しかし、親もみな初めての人生を、そして初めての親を一生懸命やっているといる当然のことを初めて知ります。
「お前は、先生一人を批判しているだろう? しかし、先生は40人見なくちゃいけないんだよ。」 先生が、約束?を破ったといってふてくされて、登校拒否したこともある「おちこぼれ」にとって身につまされる話です。
「親を養うようになったら、親に文句言え・・・」、よくよく思ってみたら、親に養っていただきながら、文句言っているのも変な話・・・。じゃあ、「ようし、独立したら・・・」、じゃなくて、「親を養うようになったら文句を言え・・・?」と言われると一言も言えません。
しかし、これらの言葉は、当時の親や学校、世の中に不満ばかりだった若者?だった「おちこぼれ」の心から、重荷が取られ、肩の力が抜けたとっても有難い言葉でした。
ある時、子供が、「どうして、神様は人を悪く造ったんだよ!」と毒づきます。すぐさま、「お母さんも、お前が良い子になるようにと願って育てたんだけど・・・」。
また、「お父さんが、仕事から帰って横になっていたら・・・、奥さんは子供に、『お父さんは、お前のために一生懸命働いて疲れているんだよ』と言ってあげるといいよ。また、お母さんが子供を厳しく叱っていたら、お父さんは子供に、『お母さんはお前の幸せを願って叱っているんだよ』と言ってあげるといいのだけど、悪いのは、『お母さん、恐いな、チョコレートあげるよ』と子供を甘やかすこと・・・。」
人には皆その人しかできない証があると、「おちこぼれ」は信じています。病気の人なら、病気の人しかできない証がある。若い人には、若い人にしか・・・。すべての人に、「その人に与えられた使命」があると信じています。「役割」があると・・・。
「もし、神様がわたしたちに使命をニネベに伝えるように望まれるならば、ヨッパやカペナウムに行くことを喜ばれない。わたしたちが導かれて行くところは理由があって、そこへ神様がお遣わしになったのである。ちょうどそこにわたしたちが与えることができる助けを必要としている人がいるかもしれない。ピリポをエチオピヤの役人に遣わされ、ペテロをローマの百卒長に、また幼いイスラエルの娘をシリヤの大将ナアマンを助けるために送られた神様は、今日、青年男女を自分の代表者として神様の助けや指導を必要とする人々へ遣わされるのである。」
教会で話されるクリスチャンの会話は文字通り、「値千金」・・・。 何せ、「人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になる」会話ですから・・・。
「あるところで、コンビ二の期限の切れた弁当を養豚場で豚に食べさせたら、奇形が5倍?に増えて、すぐ中止になったんだよ。」
「もし、年齢制限があって働けない時は、『給料はいりませんから、使ってみてください。もし、使ってみて良ければ雇ってください』と頼んでみるんだよ。」
「うちの主人は、お風呂を出るとき、いつでもきれいに洗ってくれる」「うちの主人は何度言っても、トイレで手を洗ってくれない・・・」などなど。結構信仰以前?な会話でも心ひそかに、「やばい・・・」と思って直せば、その人のもの・・・。
「言葉や服装に注意しなさい。サタンは神様が用いようとする人に、強く働く・・・。」 語っている言葉と、行いがずれると信仰?はかなり惨め・・・。日常の小さいことに気をつけることによって、「頭だけの信仰」になってしまうことから避けられます。また必然的に謙遜に・・・? |
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| 30 おちこぼれ ID:kVdShoAI |
2009/02/25 21:22 |
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「OPEN MIND」
ある老牧師が、安息日、聖餐式の司式に頼まれました。ところが、前の日になってその老牧師から聖餐式の行われる教会に電話がかかってきました。振り絞る声で、「声が出なくなってしまって・・・」。
「わたしはこうなると何ヶ月も声が出なくなるんです。」 それで明日の聖餐式には行けないので、教会の人か誰か代わりの人を頼んでください、とのことでした。
その時、教会で電話を受けたクリスチャンの方はこう聞かれます。「先生、お体はいかがですか?声だけなんですね。」「ええ、からだの方はなんともないんですが、声が・・・。」「わかりました。先生、是非いらしてください。先生がお指図されれば、皆動きますから・・・。」「いや、しかし、声がでないので。」 ひとしきり、押し問答が続きましたが、老牧師はいらしてくださることになりました。
さて、翌日安息日、老牧師が講壇に立つと・・・、いつもよりはっきりしたお声で説教をされました。そして牧師さんは語られます。「いや、わたしも信じていました。証にも、声が出なかったのに、講壇に立つと声が与えられたのを読んだことがあります。」
昨日のやり取りを知っていた「おちこぼれ」・・・。「あれ、昨日とずいぶん言うことが違う?」
さて、後になって、“OPEN MIND” という言葉を知ります。日本語で訳すと「素直」? 「切り替え」の大切さです。「あの時、こう言ったから・・・」、「こうだったから・・・」と自我が強く、切り替えが遅いとかなりの遠回りです。
「(聖書に書いてある)肉だったから、失敗したんだ、もうやめる!」とすぱっと切って前進できる心はとっても大切です。悪魔も馬鹿ではありませんから、いつまでも自分の欠点、失敗ばかり思わせて、「暗~い クリスチャン?」の姿を世に宣伝するのは得意中の得意・・・。
「過去の生涯の不愉快な思い出、罪や失望ばかりをかき集め、そのことを語り、悲しんでついには失望してしまうことは決して賢明なことではありません。失望した魂は暗闇に覆われ、心から神様の光を閉ざしてしまい、他の人々の行く手にも影を投げかけます。」
「誰でも、試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っています。自分の悩みを友に語るのではなく、何事も祈りによって神様に訴えなければなりません。疑いや失望の言葉はひと言も言わないようにしましょう。希望と清い喜びに満ちた言葉を語ることによって、他の人をさらに明るく強く生きるように導くことができます。世の中には、試みによって激しくうちひしがれ、自我や悪の権力との戦いに気を失うほどになっている勇敢な人が多いのです。戦いはいかにはげしくても、失望させず、勇気と希望に満ちた言葉で励まし、前進させなければなりません。こうしてキリスト様の光があなたから輝き出るのです。」
初めは、心の戦いなしに切り替えはできませんでした。しかし、これはかなり重要です。落ち込んでいる内に、多くの良いことをできる機会を失ってしまうのです。
「今日、み声を聞いたなら、神様にそむいた時のようにあなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」
なんて書いていますけど、超かたくなな、“CLOSED MIND” の「おちこぼれ」。どれほどの方々に・・・、お世話になったことか・・・。 |
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| 31 おちこぼれ ID:oYw/OjRE |
2009/03/01 22:05 |
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「信仰は今」
「どれだけ良いことしてきたか、どれほど人を導いてきたか、は関係がないのよ。」 たくさんの方々をイエス様に導いてこられ、それこそ全財産捧げて?、24時間捧げてこられた方がおっしゃると意味が深いです。
たしかに、ぶどう園のたとえでは、賃金はみな同じ、放蕩息子のお兄さんなどなど、聖書にはしっかりと書いてあるし、中にはこんな証もありました。
「わたしは、『天国どろぼう』をしようとしていました。死ぬ直前で、「イエス様、ごめんなさい」と謝って天国行き・・・??? しかし、ある時、友達数人と一緒にドライブに出ていて、自分がハンドルを握っていました。車のブレーキが利かなくなり、目の前に岩?が迫ってきました。 『今だ、イエス様に謝らなきゃ・・・』 しかし、その時はイエス様に謝ることなんてできませんでした。聞かないハンドルを握り締めなら、心の中で一緒に乗っている友達に叫んでいました。 『みんな、ごめんね!ごめんね!』・・・
今、こうして話しているのは、その時、全員生き残ったからです。みなさん、その時になっても、『天国どろぼう』はできませんので今のうち・・・」
何かが根本的におかしい・・・。そう、いやいやイエス様に従っているからです。まるでイエス様に従うことが、楽しみを失ってしまうかのような錯覚、重苦しい苦役?・・・。
「おちこぼれ」の知っているクリスチャン達は笑顔で、「たとい天国に行かないとしてもイエス様に従う」方々でした。 「イエス様が好きだからね」と自然に話されます。「天国には行けないかもしれないけれど、イエス様には一目お会いしたい・・・」。
もちろん、蒔いた者は刈り取るのですが、今までどんな悪いことをしてきたか、今までどんな心の状態だったか、あるいはどんなに素晴らしい経験をしてきたか、どんな大きな祝福を受けてきたか・・・、はあまり関係ないようです。
「人間は信仰によって、つまり神様の御言葉に頼ることによって義とつくり変えられるだけでなく、つくり変えられたのと同じ方法で生き続けるのであり、・・・同じ経験を重ねるのです。」
「神様の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”“この場で”与えられています。あなたは、今、義につくり変えられることを望みますか? 今、その御言葉によって生きようとなさいますか? ・・・これこそ信仰による義認です・・・。世界で最も単純なことです。」
え~、今までこんな悪いことやってしまったとか、これから罪を犯したらどうしよう、信仰から離れたら・・・、試練が来たら・・・、取り越し苦労?
「今よ、今!今!信仰は今!」
いつでも「今」を生きられなかった「おちこぼれ」・・・。だんだんイエス様の驚くべき愛の深さ、憐れみ深さ、数々の御業を知り・・・、もしかしたら、「あんたなんて、全く知らない、不法を働くものどもよ、の部類よ!」なんて言われるかも・・・。
こんなクリスチャンとは言えない者ですら・・・。それでも・・・、この主イエス様にはお会いしたい・・・。こんなくずのような人間を、かくも豊かに愛したもう贖い主・・・に。太陽よりも明るく輝くその御顔・・・。手と足に、僕の罪のための傷をお持ちのイエス様に・・・。こんな罪人、「おちこぼれ」でさえも・・・、お目にかかりたいほどの主イエス様なのです。
イエス様に従うことは、苦役??全くそんなことはありません。
「わたしたちの働きは、どんなに短く、またどんなに卑しいものであっても、単純な信仰をもって、キリスト様に従っていくならば必ず報酬を受けることができる。いかに偉大で賢明な人びとでさえも、得ることができなかったものを、最も弱く卑しい者が受けることができるのである。天の黄金の門は、自己を高める者のためには開けられない。また、高慢な心の者にも開けられない。しかし、永遠の門は、小さな子供の震える手が触れたときに広く開かれるのである。単純な信仰と愛とをもって神様のために働いた者の受ける恵みの報酬は、実に祝福されたものである。」
「人々を良いことに、また神様へと導く聖霊様のお働きは、ことごとく天の書にしるされ、神様の日に、聖霊様の働く器としておのれをささげてきた者はもれなく、自分の一生涯働いてきた成果を見上げることを許される。」
「あがなわれた者が神様のみ前に立つ時、彼らに成した忠実で忍耐強い努力、要塞であられるお方の元に身を避けるようにという懇願や熱心な説得のおかげで、そこにいる尊い魂は、自分たちの名を呼ばれるとそれに答えるであろう。そしてこの世で神様と共に働く共労者であった人々はその報いを受けるのである。」
「救い主の来臨をあまりにも長く待っていると思うようなとき、すなわち、悩みに負け、骨折りに疲れ果てて、もう我々に委ねられた仕事を終え、名誉ある免除を受けるために戦いから身を引くことに待ちきれないと思うならば、次のことを思い出そう・・・。また不平がでるごとにそれを思い出そう・・・。神様は我々が嵐や闘争に会い、クリスチャン品性を完成し、み父であられる神様と兄であられるキリストをよりよく知り合うように、また、主のために多くの魂をキリストに導く仕事をするように、そうして、「良い忠実な僕を、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」というみ言葉を喜びの心で聞くことができるように、我々をこの地上に残しておられるのだということを。」
「天において我々は、助けてあげた若い者たち、家に招いたり、誘惑から救ってあげた人々に出会うであろう。我々は彼らの顔が神様の栄光の輝きを反映しているのを見るであろう。」
「神様のための働き人ひとりびとりにこの思想が刺激となり、励ましとならねばならない。この世では神様のための我々の働きは、ほとんど成果がないように見えることがよくある。我々は熱心に根気よくよいことをしようと努力するが、それでもなお、その結果をまのあたり見ることを許されないこともある。我々にとってその努力は無駄になったように見えるかもしれない。しかし救い主は、我々の働きが天に知られていて、その報いが必ず与えられると我々に確証しておられる。」
「主はその偉大なご計画の中に一人ひとりのための場所を持っておられる。必要のないタラントは授けられない。そのタラントは小さいと仮定しても、神様はそれのための場所を持っておられて、その一タラントを忠実に用いるならば、それは神様がそうあるようにと計画される通りの働きをするのである。」
「最後の大きな報いは、キリスト再臨の時に与えられるのであるか、神様に対する真心からの奉仕は、現在の生活においても報いが与えられる。働き人は障害、反対、苦い胸の張り裂ける思いのする失望に会わねばならないであろう。彼は自分の骨折りに対する実を見ないかもしれない。しかし、こうしたことに直面しているときに、彼は自分の労働に祝福ある報いのあることを見いだす。人類のための無我の奉仕をするにあたって神様に自分のすべてを任せる者はみな、栄光の主と協力しているのである。この思いがすべての骨折りを快いものにし、意志を強め、どんなことが起ころうともそれに対して勇気をかきたててくれるのである。」
「おちこぼれ」は思っています。イエス様って、今思っているより、もっと、もっと素晴らしい御方なのだということを。 |
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| 32 おちこぼれ ID:9CgQWRJg |
2009/03/10 10:52 |
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稲妻の速度
ある村(たしかアフリカかインド?)での出来事です。アメリカの教会の本部の方が、ゲストスピーカーとして迎えられます。通路も、窓も、廊下も隣の部屋もありとあらゆる所、人でいっぱいでした。
「どうして、こうなったのですか?」と本部の方がその教会の責任者に聞かれます。たしか村長でもあるその方は、とっても喜ばれ、話されます。
その方の息子さんは病気でした。病院でも、薬で治りませんでした。専門家で治りません。ヒンズー教の所へ行きます。それでも治りませんでした。
その時、少し離れた村にキリスト教の伝道団が来たことを知ります。
しかし、息子さんはもはやその村まで、行くことができませんでした。しかし、この偉大な神様の話を聞き、お父さん達でその村にいきます。彼らが宣教者たちに会い、事情を話しました。そこで、宣教師達はその場で膝まずき、天の神様にお祈りを捧げられます。
10分 20分 30分・・・。その時、宣教師はお祈りを終えられ、神様から応答があったのでお父さんに家に帰るようにおっしゃいます。
お父さん達は家に帰ります。そして、カーブを曲がると・・・、そこから家の玄関が見えます。すると・・・病気だった息子さんが、玄関にまで出てきて出迎えていました。
その証により、教会が設立され、大勢の人が教会に集まるようになったそうです。
そして、そのゲストスピーカーの方は、先々週、日本に来た時、その証をされました。その証は各国を駆け巡り、遠い東の国、日本にまで伝えられました。
19世紀から、20世紀初頭に働かれたクリスチャンで、「最後の働きは稲妻の速度にたとえられている」と書いた方がいらっしゃいました。今は、もはやその時代、インターネット、E-MAILなどであっと言う間に電光のスピードで世界中に伝えられています。 |
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夏休み、冬休み、春休み・・・と学校が休みになると教会学校が開かれます。
しかも、休みの初日から、最後の日まで開かれるまさしく教会学校。しかも、朝の朝礼?? から始まって、夜まで・・・。かなり楽しい学校でした。
大人の教会員も会社に休みをとって出席、子供達、若者達の学校の勉強を手伝ったり、子供達を連れて、車で遊びに行ったり・・・かなり楽しいです。子供達の純粋さ、素直さに元気をいただいているのでしょう。青年達のため、簿記や英会話、実務パソコンなどを教えられた方もいらっしゃいます。
もちろん、陰で子供達のために祈り、心を配られ、配慮されていらっしゃる方のご苦労があってのことだとは思いますが・・・。
子供達は、自然に、料理、掃除、挨拶、手伝い、また友達への配慮などを覚えているようです。彼らにとっては、奉仕は、「一番好きなこと」。「おちこぼれ」の子供時代とは「大違い」の2乗、3条・・・。
教える方々は、ご家庭の主婦の方々ですが、「おちこぼれ」に言わせるとまさしく「プロフェッショナル」。生活の知恵が隅々に行き届いており、話を聞いているだけで相当な知恵に恵まれます。
そこで教えられる聖書の話は、子供でも理解できること・・・。もちろん信仰って子供でも簡単に理解できることですけど。あるいは子供のほうが理解できる??
その中で、育まれる心のつながりは、お互いの思いやりはまさしく「兄弟、姉妹」。切っても切れない強さがあります。一生の宝物ですね。
さて、その中でのメインイベントは、教会員みんなと家族で行く、伝道旅行・・・。信仰の先輩のクリスチャンは、この旅行のために1ヶ月?前からお祈りされるとか・・・。
そこでの祝福は本当に大きいものです。出発予定の日、天気予報をみると・・・、大きな台風がまっすぐ近づいています。しかも、ちょうど時刻も、場所も旅行を直撃・・・。しかし、当日になると・・・空は晴れわたり、きれいな青空がその日を祝福しているかのようです。台風が急にスピードを上げ、教会員を乗せたバスは、その台風を追いかける形になったのです。
台風一過・・・。そしてフェーン現象が起こり、季節的に入れないはずの時期でしたが、みんなで海水浴も楽しみました。地元の方はびっくり、「あんたら運がいいよ、今年の夏は2、3日しか海が開かれなかったよ」。
それに続き、モーターボートの分乗しての岩めぐり・・・。地元の船主さんは言います。「あんたら運がいいよ。台風の後は海が荒れるのにねえ・・・」とびっくりされます。そして、次の川くだり・・・岩々を船頭さんのお話と、小唄が反響します。「皆さんも一曲・・・」と船頭さんがおっしゃるので、全員で「神の御子にますイエスのために」の賛美歌を歌い、主を褒め称える声が、主が御創りになられた大自然に響き渡ります。この船頭さんは、毎年の顔なじみになりました。
海の家でも、旅館でもイエス様の証・・・。みなさん、とってもあたたかい方々でした。
いよいよ、おいしい夕食を終えて帰路につきます。その時、信者さんのご家族で未信者の方々は、つぶやき始めます。「こりゃ、夜遅くなるよ。帰れないよ」 何せ、連休の最後の日、ごもっとも・・・。高速道路に出ると、あちこちに表示が出ます。「渋滞40km」「渋滞15km」。しかし、バスは渋滞にかかることなく、すいすいと進んでいきます。これには、子供達も、ご家族の方々も、主を畏れます。
すると、夕方の雲の間から、美しい太陽の光がつらぬいて「ヤコブのはしご」を描き出します。バスの中より、王をたたえる賛美歌が響きわります。「ハレルヤ、全能の主、統べおさめたまえり」。
この伝道旅行に参加された方々の数々の証は計り知られず・・・。様々な方々がキリスト・イエス様を信じるようになっています。 |
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| 34 おちこぼれ ID:CAL0m3B. |
2009/03/17 00:03 |
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教会学校 その2
教会学校にはとっても感慨深い思い出がいっぱいあります。生まれつき姿勢の曲がった中学生が教会に来ます。背骨はガクっと曲がっています。その時、クリスチャンの方がその子に言います。「姿勢正しなさい」「また、曲がったよ」「あ、また曲がった」。集会中4時間・・・。その子は、家に帰ります。夕食時、その子の姿勢はきれいに伸びています。お母さんに喜んで言います。「お母さん、僕こうしていた方が楽だよ」。
その子は自分の名前も危ない・・・くらいでしたが、教会の方々が会社を休んで、夏休みずっとその子の勉強を見られます。数学、図画・・・。学校にずっと行けなかった彼は、二学期学校に戻りました。その初めての中間テスト、数学で100点をとります。その話を聞いた教会員、一斉に「奇跡だ」・・・。彼は人生に希望と未来を見出しました。
教会学校には、時々愕然とする子も来ました。家庭内暴力、学校でも問題児・・・。クリスチャンの方の愛情あふれる姿に心を開きます。勉強する意欲も、習慣もない子が勉強をするようになります。しかし、その子の勉強を見るとびっくり・・・、基本的な簡単な事が全然わかっていないことを発見します。「これじゃ、いくら授業聞いてもわからないよ・・・」。どうして放っておいたのか・・・。手がつけられなかったのか・・・。当時は怒りさえ?覚えるようでした。
ここからがすごい。学校で何ヶ月かけて勉強することを3日で吸収します。感動でした。
「おちこぼれ」でも知っています。教会ではいわゆる信仰心だけではなく、知、徳、体、すべてを整えてくださる場所でした。
「まず第一に心がけなければならないことは、立った時と座った時の正しい姿勢である。神様は人間をまっすくにおつくりになった。神様はわれわれが肉体的な恵みばかりでなく、また知的霊的な恵み、すなわち美徳、気品、落ち着き、勇気、独立心を持つように望まれるが、そうした美徳を養うには、まっすぐな姿勢が大いに役立つのである。」
最後に聖句を入れようと思ったのですが・・・、「おちこぼれ」にはあまりに畏れ多いのでやめました。
思わず背筋をのばす「おちこぼれ」・・・。後でとっても感謝することですね。 |
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| 35 おちこぼれ ID:O64wB5Js |
2009/03/19 08:14 |
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先日、証会での出来事です。
「神様は遠くに離れておいでになられるのではない。あの時も、この時も、と助けてくださっています」と証していたときです。信仰に入って間もない方が、不思議そうでした。
そのとき、はっと思い出しました。そうだ、信仰に導かれたころは、見えない神様を見上げて、「神様の御姿をほんのわずかでも見させて欲しい、と涙を流していたっけ・・・」。
科学の様々な進歩でも、今でこそ、聖書の記述の正しさ、また、素晴らしさ、真実さをそれによって増し加えていただいていますが、「かつて」は同じものを見ていても、そうではありませんでした。何せ生まれ持った罪の性質、「疑いの心が」「自分でも嫌なのに」、次々と湧いて出てきていたのですから。そんな苦しい時もありました。
ある博士が同僚にこう尋ねます。「君の学生は、科学の研究をしてからも神様を信じているのかね」。するとその同僚の博士はこう答えます。「わたしの学生は、研究室に入る前よりも、研究室を出た後の方が、深く神様を信じるようになります」。
恩師の物理学の先生が学生にこう教えました。「太陽の周りを地球が回っている。万有引力ですが、君達、太陽と地球は紐がついていないのに、その間は全くの真の真空なのに、引き合っている・・・不思議と思わないか・・・」。ここで中間子理論を出してくると・・・はっきり言ってもはや謎・・・。
科学の世界に謎はいっぱい! 一つの真理を見つけると100の謎が現れると言われているくらいです。
しかし、今の「おちこぼれ」にはあまり興味がありません。何せしょっちゅう変わりますから・・・。しかし・・・、変わらないものがあります。主イエス様の愛・・・。「イエス様、どうして、こんなにも人間を愛されたのですか・・・」。しかもこの愛は時が経つにつれ、遥かに深く、大きく、また確かなものになっていきます。それでも今は、「おぼろげに」見ていますが・・・そのまことのお姿を見上げる時は・・・。
「人間の父親の心は自分の子供の上にそそがれる。彼は幼い子供の顔を見入り、人生の危険を思って振るえる。彼は自分のかわいい子をサタンの力から守り、誘惑と戦いに会わせたくないと熱望する。神様は、我々の幼な子たちのために、人生の道を安全にするため、ご自分のひとり子を、もっと激しい戦いと、もっと恐ろしい危険に会わせるためにお与えになった。ここにこそ愛がある。ああ、もろもろの天よ、驚嘆せよ。ああ、地よ、おどろけ。」
「神様を愛さなかった世界を、神様はどんなに愛されたことだろう」 |
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| 36 おちこぼれ ID:WwldmnMY |
2009/03/23 13:41 |
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昨日、小児科病棟へ行って、思いっきり風邪をいただいちゃいました。「病気になった時は、今まで健康であったことを感謝しなさい」ですが、風邪を引くと思い出すのは、神様の数々の御業・・・。
兄弟、姉妹が果物やら、お金がない中用意してくれた薬、食事、そして祈り・・・。そして、そのたびにその風邪は何ヶ月たっても治らない、現代医学ではどうしても治らない所まで追い込まれ、そしてお祈りによって癒されました。
もちろん、現代医学では風邪を治す薬は無いのが通説。対症療法しかありません。風邪は万病の元、くれぐれもご注意を。さて、病気の時は、病気の時しかできない証があると思いますので、書いてみました。
ある安息日、その日は、前の夜から大嵐でした。天気予報通り、雨と風とすごいものでした。朝になってもおさまらず、教会に行く「かばん」に、替えのズボンと靴下とを入れます。
嵐に立ち向かっていくのは、かなり好きな?「おちこぼれ」、ましてや教会に行く時は、その心が強い力でひきつけられます。それがもうごく自然になってしまっていますが、もちろん、忘れてはいけない・・・、「こういう心って、生まれ持った性質にはないんだよなあ」とイエス様に心より感謝します。人って、雨や天気でとっても左右されてしまう弱い存在です。
さて、家を出ます。すると雨がやんでいる・・・。風は同じように強いですが、雨がやんでいますので、傘をささずにバス停へ行きました。
驚きの中、駅につきます。駅には長い払い戻しのお客さんの列ができていました。最後尾の方に聞くと、電車が嵐のため止まっているとの話でした。
そこで思い出したのが、前に「小さな証」で書いた、一つの証でした。
ある雪の日の安息日、同じように電車がストップします。改札口には「不通」の看板が立てられました。しかし、その姉妹は「神様が必ず電車を動かしてくださる」と、かまわず中に入り、プラットフォームに下ります。そして、お祈りすると・・・、電車が来ます。
その証を思い出した「おちこぼれ」、お祈りして、プラットフォームに上って行きます。すると・・・。「電車が再開しました」のアナウンスが流れます。
とっても感謝して、その姉妹にメールで証を書きます。すると・・・、なかなか電車が来ない。「厳粛に受け止め、イエス様に感謝しなければならないのに、まだ実現していないのに、証を書いて・・・」、あまりに軽々しかったこと、高慢であったことを心でお詫びします。
すると、お祈りが終わったらすぐ、電車が来ます。「動いた、と喜ぶのではなく、1m行ったら感謝、1mいったら感謝なのよ」とのクリスチャンの話もあり、電車にのったままお祈りの時間になりました。
そして、教会に飛び込みます。玄関を開けてくださった教会員の方に思わず、朝の出来事を・・・。ちょうど、賛美歌礼拝の時に入りました。他にも証でいっぱいの安息日でした。
天候をご支配され、祈りの家に向かう道を守ってくださった主。もちろん、「主なる神様を試みてはならない」し、神様のお約束につけあがって、独断的に危険に飛び込んでいくことは禁じられています。これで失敗した人もいることも良く知っています。
「サタンは、不信の念をひき起こすことに失敗した時、我々を独断的な信仰におちいらせることに成功することがたびたびある。サタンは、我々が不必要に誘惑の道に身をおくようにさせることができれば、勝利は自分のものであることを知っている。神様は服従の道を歩む者はだれでも守ってくださるが、その道から離れることはあえてサタンの側にはいって行くことである。そこでは我々は必ずつまずいてしまうのである。救い主は『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい』とお命じになった。瞑想と祈りとは、我々が自分から危険の道にとびこまないようにする。こうして我々は多くの敗北から救われるのである。
しかし、試みに攻められても、勇気を失ってはならない。困難な立場におかれると、我々は神様の御霊が導いておられるのだろうかと疑うことがたびたびある。だがサタンの試みを受けるためにイエス様を荒野に導いたのは御霊であった。神様が我々を試みに会わせられるとき、神様は我々の益のために達成すべきある目的を持っておられる。
イエス様は神様の約束につけあがってご自分から試みの中にとびこんだり、あるいは試みがやってきたとき落胆して諦めたりされなかった。我々もそうでなければならない。『神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。』神様はこう言われる。『感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。悩みに日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう』」
これはまったく書いてあるとおりです。 |
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| 37 おちこぼれ ID:WwldmnMY |
2009/03/23 13:48 |
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「真理を見分ける人々」
ある沖縄での集会の時です。それは特別の集会でした。
第一回目の証会の時、眠っていた教会が目覚め、多くの洗礼を受ける方々が現れました。講演会も数々開かれました。ある時などは、その講演会の日、台風が直撃する時もありました。家にいても「恐くてたまらない」との信者さんの電話にクリスチャンの方は、「神様が守られるから」と励まされます。すると・・・、講演会が行われている間、その教会は「台風の目」の中にすっぽりと入り、講演会が終わり聴衆が帰るまで台風は一歩も動きませんでした。
そんな中で行われた第二回目の証会・・・。反対もあったとか・・・、その時・・・、普段は教会でとっても騒いでいる子供達・・・、その日は静かで、全く違っていました。かえって、となりに座っている父親に「お父さん、起きなよ、聞いていたほうがいいよ」とつついて起します。
神様の宮で、宮の庭の石段に立たれたキリストは、鋭い一べつで、目の前の光景を見抜かれる。預言の目をもって、イエス様は未来を、幾年後ばかりでなく幾世紀、幾時代後までご覧になる。彼は祭司たちや役人たちが貧しい人々の権利を奪い、彼らに福音が伝えられるのを禁じているのをご覧になる。彼は、神様の愛が罪人に隠され、人々が神様の恵みを商品にするのをご覧になる。その光景をご覧になると、怒りと権威と力とがその顔に現れる。人々の注意は彼に引きつけられる。けがれた取引をやっていた人たちの目が、イエス様の顔にくぎづけにされる。彼らは目をそらすことができない。彼らは、この人に自分たちの心の奥底が見抜かれ、かくれた動機がみつけ出されるのを感じる。中には、自分の悪い行為が顔に書かれているのをあの鋭い目にじっと見つめられるかのように、顔をかくそうとする者もある。
騒ぎはおさまった。商売とかけひきの声はやんだ。沈黙は苦痛となる。群集は畏怖の念に圧倒される。彼らは自分たちの行為を弁明するために神様のさばきの前に呼び出されたかのようである。キリストを見上げて、彼らは人性という衣から神性がひらめいているのを見る。天の君が、最後の日における裁き主のように、その時ご自分に伴う栄光に今はつつまれておられないが、同じように魂を見抜く力をもって立っておられるのである。彼の目は群衆を見渡して、一人ひとりを見抜かれる。彼の姿は堂々たる威厳をそなえて彼らの中にそびえているように見え、天来の光がそのみ顔を照らしている。イエス様が話されると、そのはっきりしたひびきわたる声は―いま祭司たちや役人たちが犯している律法をかつてシナイ山上で宣言されたのと同じ声は―宮の門に反響してきこえる。「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」
「ではなぜ祭司たちは宮から逃げ出したのだろうか。なぜ彼らはその場にふみとどまらなかったのだろうか。彼らに行ってしまえと命じたのは、この世の地位も権力もない大工の息子、貧しいガリラヤ人だった。何故彼らはイエス様に抵抗しなかったのか。何故彼らは不正にもうけた金を捨てて、外観はまったくみずぼらしいこの人の命令で逃げ出したのか
キリストは王の権威をもって語られたので、彼の様子や声の調子には、人々が抵抗する力をゆるさないものがあった。」
そんな中で帰ってきた祭司達は子供たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見ます。「祭司達と宮の役人たちがこの素晴らしいわざを目に見た時、彼らの耳にきこえた声は彼らにとって何と思いがけないことだったことだろう」。
激しい論争を交わしていたサドカイ人、パリサイ人、律法学者を通り過ぎて・・・、羊飼いや東方の博士、こどもたちにわかる真理・・・。
ルターさんがおっしゃった言葉。
「彼らにとって、聖書は死文に過ぎない。そして一同は『聖霊!聖霊!』と叫びだした。しかしわたしは、もちろん彼らの霊の導くところには従わない。願わくは、恵みの神様が、自称聖徒たちしかいない教会から、私を守ってくださるように。わたしは、自分たちの罪を自覚し、慰めと支えとを得るために、たえず心の奥底から嘆願する貧しい者、弱い者、病める者と共に住みたいと思う。」
しかも、この驚くべき奇跡を目の前にしながら、なお「天からのしるし」を求めた罪深い祭司たち・・・。
イエス様は、彼らとは比べものにならないくらいはるかに罪深い、こんな信仰のない「おちこぼれ」にすら・・・、「わたしたちが求めまた思うところの一切を、はるかに越えてかなえて下さることができる」御方をたえず示してくださっています。
「見よ、わたしは主である。すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」 |
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| 38 おちこぼれ ID:cov4U8uU |
2009/04/02 11:29 |
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「証がない・・・」
「多くの人にとって人生は苦しい戦いです。彼らは自分の無力を感じ、みじめで不信仰です。彼らは自分が感謝するほどのものは何も持っていないと考えています。これらの苦闘し、よるべのない多くの者にとって、親切な言葉や、同情のまなざし、感謝の表現はかわきにあえぐ魂への一杯の冷たい水のようになります。 一つの同情の言葉、一つの親切な行為は疲れた肩に重くのしかかっている重荷を持ち上げます。無我の親切から出るすべての言葉や行いは、失われた人類に対するキリスト様の愛の表現です。」
多くの人は・・・とありますが、まさしく「おちこぼれ」もその通り・・・でした。
「クリスチャンの友達を3人いつも持っていて、感動したことがあったら、話を聞いたら話すといいよ。」 この言葉は黄金ですね。やばい・・・と思っている時には、携帯のメールにちょうど必要なメッセージがとびこんでくるのは、クリスチャンの友・・・。また、感動した事、出来事、体験した事、結構、後から思ってかなり赤面する話を話していても、いつでも変わらず聞いてくれます。そして、いざという時は、特別な助けを与えてくださっています。クリスチャンの友は本当にありがたいです。主イエス様の御摂理を感じるからです。
感動した話、証があれば、友達に話したりメールしたりすると・・・「こんなに証があるじゃないか」と感動します。こわいのはもし、証していなかったら・・・。イエス様の素晴らしい、大きな、祝福がたくさんあったとしても、「自分は感謝するほどのものは何も持っていないと考えていること」です。
「神様の愛を疑い、神様の約束に信頼しないならば、神様を辱め、聖霊を悲しませるのです。例えば、母親が子供の幸福と慰めのためにあらゆる努力をつくしてきたにもかかわらず、子供たちがいっこうにそのようなことには気にもとめず不平ばかり言うならば、母親はどう感じることでしょう。
もし子供たちが母の愛を疑ったとしたならば、母親はどれほど悲しむでしょう。どんな親でも、子供からそのように扱われるならば、どういう気持ちがするでしょう。それと同様に天の父も私たちにいのちを与えるためにひとり子を賜ったその愛を私たちが信じなかったならば、私たちを顧みることができるでしょうか。使徒は『御自身の御子さえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか』と言っています。けれども、口では言わなくても、その行いで『神様は私にこう言っておられるのではない。神様は他の人々を愛したかもしれないが、私を愛しているのではない』と語っている人がたくさんいます。
こうしたことはすべて、あなたの魂に害を及ぼします。というのは、疑いの言葉を出せば、それはみな悪魔の誘惑を招くことになるからです。そしてますます疑惑を深め、奉仕の天使を悲しませているのです。ですから、悪魔に試みられる場合は、一言も疑いや暗い言葉を言ってはなりません。」
タラントのたとえ、増えたタラント、取り上げられたタラントのたとえは、裁きの日だけではなく、今も現実に起こっている事実です。
クリスチャンの友にばかりではなく、他の様々な状況にある方々にもイエス様からいただいた祝福をその状況に合わせて分け与えると・・・、主イエス様の下さっている測り知れない祝福の大きさをその方と一緒に・・・更に深く、大きく、またありがたく感じるものですね。
タラントを増やすため???ではありませんが・・・。
最後に一つだけ、先日、キリスト教の病院である患者さんが医師にお礼を言いに来られました。その方は20年前、産科でご入院中、呼吸困難で倒れられました。その若い患者さんは「わたしは死ぬのでしょうか」と叫び、恐怖におびえられます。長時間の必死の救急蘇生が行われましたが、心肺機能がついに停止します。そして、医師は死亡診断書を書こうと心の中で決意します。
「その時であった。」
「生気を失った彼女の端整な顔に突然鮮やかなピンク色が戻ってきたのである。それは神様のなさる業以外の何ものでもなかった。」
そして・・・、無事に助かったのでした。
そして20年ぶりに・・・、その方がお元気そうに来院され、今もなお様々な闘いの中にある医師に、その時の御礼をされたのでした。
患者さんが御存知でいらしたかは、わかりませんが、救急蘇生が行われ、心肺機能が停止して・・・、そして命が助かったその「長い」時間・・・。看護師の詰所ではその間中、看護師達が集まって、彼女のため熱心に祈りが捧げられていたと記録されています。 |
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| 39 おちこぼれ ID:cov4U8uU |
2009/04/02 11:40 |
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「渇いている者は?」
「わたしたちは、御言葉を通じてキリストを受け入れます。そして、わたしたちが神様の御言葉を理解し、その真理を心に悟ることができるように聖霊が与えられます。神様の御言葉を読む時には、その日の必要に対してわたしたちを力づける真理を、神様が聖霊をつかわしてあらわしてくださるように、日ごとに祈るべきです。
わたしたちの必要とするもの―物質的、霊的祝福―を日ごとに求めるように教えることによって、神様はわたしたちの益のために一つの目的を達成しようとしておられます。神様は、わたしたちが神様の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられるのです。それは、わたしたちをご自身との交わりに入れようと望まれるからです。キリストとのこの交わり、すなわち、祈りと御言葉のこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者はいのちの泉で潤されるのです。」
この言葉は本当です。聖書の体系、神学的な様々な論争・・・。それもまた意味をもちますが、心の渇きを癒すことの出来るものは聖書の御言葉です。しかも、「おちこぼれ」、みじめな罪人にとっては、なくてならない「命の泉」。それに加えて「おちこぼれ」にとっては本物の「日ごとの食物」も必要です。「私たちの日ごとの食物を今日もお与えください」との祈りに応えて、主イエス様は今でも、畑の食物や自然の事物に対して奇跡を行っておられる、との文章がとっても好きです。
誰かが「私たち」のために祈っている。そしてイエス様が祝福を「私たち」にくださいます。それは、御言葉も同じ・・・。いただいたものを独り占め?にしていると飢えや飢饉がおきます。今でも、もし穀物を肉などにせず、正しく分配すれば、世界中の人たちが食べていけることは良く知られていることですが・・・。
「ダビデは、『わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない』と言っています。ケレテ川のほとりでエリヤを養うためにカラスを遣わされた神様は、御自分の忠実で自己犠牲的な子供達を見過ごされることはありません。正しく歩む者について次のように書かれています。『そのパンは与えられ、その水は絶えることがない』『彼らは災いの時にも恥をこうむらず、飢饉の日にも飽き足りる』『ご自身の御子さえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか』」
普通に(?)生きている時は、何も感じないかもしれない文章・・・。「そんなの当たり前(?)」ですが、状況によってはそうではありません。
この言葉にどれだけ助けられたか・・・。「おちこぼれ」は「忠実で自己犠牲的」と書いてあるので、「こりゃ、だめだ」と思っていました。しかし、これだけははっきりと証できます。「そのパンは与えられ、その水はたえることがない」。
数々の危機的な(?)ところ、不思議な憐れみ深い方法で、与えられたことが次々と思い出され・・・。
「主よ、御約束を受けるに価値のないものですが、これはお言葉の通りです」と証することができます。物質的に、そして霊的に・・・。主イエス様に依存していることがはっきりとわかるようにしてくださっています。
霊的なことも・・・、「あなたがたのうちで、この世の与えるものよりもさらに良いものを心の中で求めておられる方は、その心の願いが魂に呼びかける神様の御声であることにお気づきになるでしょう。どうかそのときは、神様が悔い改めを与えてくださるように、そして限りない愛にあふれた全く純潔そのもの姿のキリスト様を、お示しくださるように祈っていただきたいのです。」
毎日、証が溢れています。
「地は主のいつくしみで満ちている」 |
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| 40 おちこぼれ ID:cov4U8uU |
2009/04/02 11:59 |
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「仕事」
職業に貴賎なし、とクリスチャンの方から模範を通し、証を通して教えてくださった「おちこぼれ」・・・。ましてや、王の王、主の主でいらっしゃる御方が、王でもなく、科学者でもなく、政治家でもなく、医者でもなく、貧しい大工さんとして、ナザレの田舎で人生のほとんどを費やされた・・・と知ると・・・。
「イエス様は、我々の模範である。イエス様の公生涯の期間については興味を持って論ずる人が多いが、イエス様の幼いころの教訓に注目する人は少ない。しかし、イエス様が子供や青年たちの模範であったのは、その家庭生活においてであった。救い主は、我々が卑しい身分であっても、神様とともに歩むことができることを教えるために、恐れ多くも自ら貧しい者となられた。イエス様は日常の平凡なことにおいて天父を喜ばせ、崇め、その御栄えを現すために生活された。イエス様の働きは、日々の食物のために骨折って働く職人の卑しい仕事を神聖にすることから始められた。彼は大工の仕事台で働いておられるときも、群衆のために奇跡を行っておられる時と同じに、神様への奉仕をしておられた。キリスト様がその卑しい家庭において示された忠実と従順の模範にならう青年は誰でも、天父がイエス様について聖霊を通してお語りになった次の言葉を自分のものとすることができる。『わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ』」
「人はみな自分自身にとって益となり、また他人に役立つ何かを見つけ出してしなければならない。神様は働くことを祝福としてお命じになったのであって、勤勉に働く者だけが人生の真の栄光と喜びを見出すのである。家庭の中で自分の義務を快活に果たし、父母の重荷を分担する子供や青年を、神様は優しい保証をもって受け入れてくださる。このような子供は、社会の役に立つ人間として家庭から出て行くのである。」
イエス様は大工さんでいらっしゃりながら、「傷が一つもなかった」。しょっちゅう手を切ったりの「おちこぼれ」はこそこそ隠れたい・・・?
「ご職業は?」と聞かれ「看護婦です」と応えると、「そうですか」と答えるのは神様に召されたナイチンゲールのおかげ・・・。その前だったら「えっ?」歯科医でも、似たようなことがあったそう。
「おちこぼれ」が工場の流れ作業でも、日雇いでも、あるいは人が「こんなつまらない仕事」という仕事も楽しく、また、尊い仕事としてできたのは、クリスチャンの先輩方の模範の証のおかげ。
ミケランジェロ(?)か誰かが天使の彫刻をしているところに、人が来て「何をされていらっしゃるんですか」と聞かれた時、彼は「わたしは今、石の中に閉じ込められた天使を救い出しているのだ」とおっしゃったとか。
ではないですが「人が雑にやるから、雑用になるのよ」と、掃除もだた「雑巾でなぞる」のではなく「本当にきれいにする」喜びをも教えていただきました。
などなど知っていても、「頭ではよくわかっても、心が言うことをきかない」・・・のは痛いほどわかります。「寝ているのが好き」「怠けるの好き」「家の手伝いなど大嫌い」「人に言いつけられるのは大嫌い」・・・の「おちこぼれ」・・・。
そんな人間が「働くことが好きになる・・・」。これは本当に有難いことです。
多くのクリスチャンの方々や兄弟姉妹のお支え・・・、忍耐など全部含めて・・・。人間を創ってくださった主イエス様は、心を新しく造り変えることがおできになります。
もちろん「給料のための仕事」もありますが、もう一つ、たった一回の人生に与えられた「人生の仕事」があります。
これは誰も替わってはできません。クリスチャンは「善をなすことには、互いに競争者」。信仰の先輩方は知らぬ間に・・・、びっくりするほど「天に宝を積んでいます」。何せ、「新生すると古い性質に対し遥かに優勢な立場になります。・・・神様の相続にあずかる者は地上の両親よりも天の父が偉大であるように、遺伝によって受けた悪への傾向よりも義を行わせる力のほうが、彼の内に強く働きかけるのです」。 |
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| 41 おちこぼれ ID:kKfUlMjs |
2009/04/07 10:22 |
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「条件」
「おちこぼれ」は牧師さんや宣教師ではないので、以下証です。
無条件の愛・・・。なんとも「それらしい?」言葉なのですが・・・。「いえ、イエス様の愛は条件があります」とクリスチャンの方がおっしゃいます。その条件とは・・・?
また、ある役人がイエス様に尋ねた。「よき師よ、何をしたら永遠の命が受けられましょうか。」イエス様は言われた。「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」すると彼は言った。「それらのことはみな、小さい時から守っております。」イエス様はこれを聞いて言われた。「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちだったからである。
もちろん、もうすぐエルサレムはローマの軍隊に滅ぼされることを預言のお目を通してご存知のイエス様。この青年の持っているお金は何の価値もなくなるわけですが・・・。
「持っているものをみな売り払って、貧しい人に分けてやりなさい」。これが条件・・・。
これじゃ伝道なんて不可能??? ところが「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて・・・」とお弟子さんが話します。
すると「よく聞いておくがよい。誰でも神様の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代では幾倍も受け、また、きたるべき世では永遠の命を受けるのである。」
「幾倍も受け」これは事実。「捨ててしまっておしまい」ではないことは多くの先輩のクリスチャンの方々がご経験されていること。
しかし、ふと思うことがあります。「イエス様って、本当に天のご家族を御捨てになられたんだ・・・。人は王の王、主の主、神様のために、何かを捨てるけど・・・。」
しかし、イエス様は罪人のために・・・。愛にあふれた、幸せに満ち溢れた天国を、天の家族をすてて、しかも僕のために・・・お捨てになられた。何の益があって?」
しかも、「私たちがすべてをささげると言っても、いったい何をささげるのでしょう。それは、イエス様に清められ、その血によって洗われ、彼の無比の愛によって救われるためにささげる罪に汚れた心だけです。それなのに人々は、それを捨てがたいと思っています。わたしはそういう話を聞き、また書くことさえ恥ずかしいのです。
神様は、私たちが持っていて益になるものは、何一つ捨てるようにとはお求めにはなりません。何をなさるにも、いつもその子らの幸福を考えておいでになります。自分が今求めているよりはるかに良いものを神様は備えておいでになるということを、キリスト様を選んでいないすべての人が悟るように望みます。」
ある信者さんがこう言いました。「わたしは、信仰のため、仕事も捨てました。家族も捨てました。全てを捨てました。」すると先輩のクリスチャンが静かにおっしゃいました。「あなたは自我を捨てていない・・・」
捨てなければ、「わたしの弟子となることはできない」・・・。捨ててみて、ほんのちょっぴり、かすかに、本質は全然違うけど、イエス様の測り知れない御心の深さがわかるのかも・・・
ある方が、お世話になった信仰の先輩に聞きます。「この愛に応えるにはどうしたらいいでしょうか」。すると・・・、「あなたが幸せになることよ」。
神様は・・・、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。」
思わずにっこり?
イエス様のお姿を見上げると、「主よ、罪人であるわたしをお許しください」。にっこりしながら、涙溢れる「おちこぼれ」です・・・。
「世にはキリスト様のゆるしの愛を知り、本当に神様の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活には過ちが多いために、果たして自分の心が聖霊様によって新たにされたかどうかと疑う人がいます。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは何度となく、欠点やあやまちを悔いてイエス様の足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。敵に敗れても、神様に捨てられ、拒まれたのではありません。キリスト様は神様の右に座し、わたしたちのために執り成しておられます。使徒ヨハネは『わたしの子たちよ、これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのための助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる』と言いました。また『父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである』という、キリストのみ言葉も忘れてはなりません。神様はあなたを自己に立ち返らせ、自らの純潔と聖潔とをあなたのうちに反映しようと臨んでおいでになります。ただ神様の従いさえすれば、すでにあなたのうちに良い事を始められた神様はイエス・キリストの日までその働きを続けてくださるのです。ですから、もっと熱心に祈り、もっと深く信じましょう。自分の力に信頼できなくなった時、あがない主の御力を信じ、私たちを助けてくださる主を賛美しましょう。」
「自分の無価値なことを認めている時、初めてイエス様の義を着せられる準備ができている」そうです。 |
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| 42 おちこぼれ ID:V7hCQ39Q |
2009/04/10 07:21 |
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「最も大切なものは・・・」
さて、以前一年前、友人が訳してくれた証を読み直し、ちょっと訳が間違っていたなあ、と思い訂正文を書きました。間違った証はよくないですし・・・。正直言って、英語は苦手の「おちこぼれ」。これを日本語に訳すのはもっと大変・・・。
A testimony
Gentle character and eagerness to help others are rare to see in these days.
One nurse forgot to put the plug for the respirator into outlet and went away from the patient’s home. The emergency battery was only for thirty minutes. It was eight hours later when the family came back to the home. This must be the trial case for the medical accident.
Can you believe that the respirator has been working for more than eight hours and the patient was all right?
I am a medical engineer. I am the expert of respirators and I checked the battery the other day. It worked just for thirty minutes and sounded an alarm and stopped.
This respirator with the battery saved many people - patient, family, doctor who was responsible for this case, concerned nurses, hospital office clerks, nurse herself and the director of the home-visiting nusery centre etc...
I hope you remember the girl who was the autistic and insomnia child... Yes, she was led to Jesus by Mrs. Mizukami and now working as a director of the home-visiting nursery centre of the hospital.
I thank Him for working on the respirator, the patient, family, the staffs of the home-visiting nursery centre and the director.
The life of the patiant, the happiness of the patiant's family, the future of the nurse, the home-visiting nursery centre, the life of the staffs are very important. But I think that the most important thing is the faith of Jesus the director was given.
Because a result of the eternity is accompanied with the faith. The faith in Jesus is one of the most precious gift from our living Lord. |
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| 43 おちこぼれ ID:q76au3uI |
2009/04/25 16:06 |
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クリスチャンのアイデンティティ
「おちこぼれ」がこんな言葉を使うと、「おちこぼれさん、きっと風邪ひいて熱でもあるんじゃないの」なんて・・・。
「君の元気は、僕の元気?」じゃないですが、喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣く、クリスチャンの方々の特性ですね。
もちろん、生まれ持った罪の性質にそんなものは全くありません。喜ぶものがいたら、ねたみに嫉妬。泣く者がいたら、優越感・・・。しかし、こんな心が造り変えられていくわけですから、驚くべきことです。
有名な「キリストにはかえられません」の聖歌。
世の宝もまた冨も
有名な人になることも
人の誉める言葉も
いかに美しいものも・・・
え~、みんな欲しいのに?でも、やっぱりイエス様には替えられないか。なんてものではないです。
正しい人のためや、神様のために捨てるならいざ知らず、こんな罪人のために・・・。天国だけでなく、この地上の幸せすらも捨てたもうイエス様を褒め称える歌。このような歌を笑顔で喜び溢れて、心の底から歌える姿は、もはや想像を超えています。
心の驚くべき改変のお力がないと、絶対にありえない姿ですね。
「父母を捨てて、全財産すてて、自分の十字架を背負って???」
「義務は喜びとなり、犠牲は楽しみとなります」
聖書のお言葉は、人に自由や幸せを制限する?
いえいえ、真理は人を自由にする。
聖書は、人生を葬式のように、この世の幸福をすべて捨てて?
いえいえ、「イエス様は私たちの友です。全天は私たちの幸福を願っています。」
「仕事の上でいろいろな困難が起こり、前途はますます暗くなり、損失が目前に迫ることもあるでしょう。しかし失望してはなりません。心配をみな神様に任せて、平静、快活にしていましょう。賢く物事処理できる知恵を神様に祈るとき、損失、失敗を免れることができるのです。良い結果をもたらすように、全力を尽くして自分の分を果たさなければなりません。イエス様は助けを約束しておられるからといって、何も努力しなくて良いというのではありません。私たちの助け主により頼んで最善を尽くしたならば、結果はなんでも喜んで受け入れましょう。
神様の民が心配事をいだいて心を重くしているのは神様の御心ではありません。主は私たちを欺かれません。主は私たちに、『何も恐れることはない。前途には何の危険もない』とは言われません。試練や危険があることをよく知っておられて、はっきりとそのように言ってくださいます。民を罪と悪の世から取り去ろうとはなさらず、間違いのない隠れ場を示しておられるのです。イエス様は、弟子たちのためにこのように祈られました。『わたしがお願いするのは、彼らが世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります』『あなたがたはこの世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている』」
「もし、忠実な魂が、サタンに連れ去られるくらいなら、全天の天使をもその人を救うためにお遣わしになられる」とも言われているイエス様。
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、
人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神様は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」
しかし、これだけは事実・・・。
「おちこぼれ」が測り知れない神様の愛を知ったのも、尊い聖書が読めるのも、このような証を書いているのも・・・。「過去の改革者たちのように、あらゆる地上の物質を犠牲にしても、神様の言葉と、イエス様の証のために立つ」人々によって・・・伝えられてきたということです。 |
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