| 1 無頼庵 ID:N1hBb93g |
2008/11/22 08:22 |
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ある日妻が驚いて言った。
「イエスが処女から生まれたことを伝説としている牧師がいるんだって!」
わたしは直接の知り合いにはいないが、そう思っているクリスチャンがいることは知っていたので笑って言った。
「彼らには創世記も神話らしいよ」
純福音的信仰を持つわたしたちにはそういう考え方は“準異端”という位置付けなのだが、まぁそれを直接相手に言った事は無い。人がどういう信仰を持とうがかまうことではないのだ。だが、彼らは聖書と言う一冊の本の中でどういう解釈で一部の言葉を伝説とし神話とし、また事実や史実と解釈しているのだろう。あるいは聖書全体が“壮大なたとえ話”なのだろうか。 |
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| 2 矢島 ID:W0LJy1co |
2008/11/22 10:14 |
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その牧師さんは、ホントウの事に気付いたのかも知れませんね。
創世記は寓意を含む神話ですが、処女懐胎云々以下の『イエスの言動とその家族の物語』は「伝説」ではなく、伝承に取材した創作と言うべきでしょう。
しかし、それを事実として書いているので『捏造記事』では・・・あります。
当事者たちが生きている間には書かれず、死んでしばらくしてから編纂されたので、当の『出演者たち』は文句も言えないワケですが、現在なら人権問題ですね。
本人、若しくは遺族が生きておれば、その内容が誹謗中傷とは性質が異なるにせよ、事実無根を並べ立て、自らの活動の根拠とし、また生活の糧としていたワケですから相応の賠償を求めて訴追されてもおかしくない。
「神」なる形而上の存在に対して、どういう信仰を持とうと自由と言えば自由だが、記述者は『生きて存在していた人間』の生涯に対する『捏造』であるから、これは非難に値する。
是正されるべきであり、パーソナルな意味においても尊厳回復されるべきである。
マグダラのマリアと「姦淫の女」が同一である根拠はないとして声明が出されだが、彼女もまた<教会の無知と不勉強による聖書の浅読み>と思い込みによって二千年の間、中傷されてきた。
『淫婦』に貶めることも、『神』に祭り上げることも、『女性』を剥奪することも、同様にあらためられれるべきである。 |
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| 3 マタポポヒ ID:f2m7Bj3U |
2008/11/24 10:10 |
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無頼庵さんと矢島さんの議論は、双極のバトルになりかねないですね。
私は、無頼庵さんの立場だと思いますが、聖書には無駄な議論は避けなさいと書いてあります。人間の浅はかな智恵で知ったかぶりが出来るほど、神様は、単純なお方ではありませんよ。矢島さんも、ひょっとしたら色々勉強なさってお詳しいようですし、その情報源を素直に正しいと信じていらっしゃるからこれもある意味で信仰に近いものがあるかもしれません。他の信仰をお持ちの方に、議論で決着をつけるのは、無理だと私は思います。むしろ、パウロ先生の回心のように矢島さんが変えられるのを、祈る方が良いと思います。矢島さんは、あなたのおっしゃることも仮説の一つであることを、認識した上で発言なさった方が良いと思います。『捏造』だとか『人権問題』などの煽るようなキーワードは、いかがなものかと思います。
どうぞ、お二人ともお互いの立場を尊重しあいながら、交わりを続けてください。
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| 4 矢島 ID:J4fi0A.k |
2008/11/24 14:18 |
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マタポポヒさん・・・(音読すると言い難いですね^^逆さにした方が言い易い)
充分、仮説であること承知していますよ。
ただ、現在のところでは最も事実に迫ると思われる仮説だと言うことです。
そしてこういう場合の「仮説」というのは、たとえば<イエスの父親は誰なのか?>という命題に対して・・・
1.ヨセフ
2.ローマ兵
3.親族の誰か
4.それ以外・・・etc
なんていうのが、取りざたされてきましたが、こういうのにそれぞれ論拠を挙げて真実へ向かう可能性を問うのを「仮説」という訳であって、ここでは既に<イエスの父親は人間の男のウチの誰かである>という前提があります。
そしてこの前提は、普通の感覚では「仮説」とは呼ばないのです。
マタポポヒさんは無頼庵さんと近い立場だということですので、それで『捏造』だとか『人権問題』などが煽ってるようにお感じになるだけではないかな?
一般(教界外)では、普通に流通している見解のひとつです。
もっとも、2千年前には現在のような「人権意識」は無かったでしょうから、深く傷ついたまま泣き寝入りでしょうけれど。
更に、ボクらのような立場からの発言を<それは仮説>として退けようとされるのは、クリスチャンの(とりわけ保守派)の常套句でもありますが、健全なる学問現場においても、良識的な一般社会においても、創造神話やキリスト誕生物語などの記述を全て<歴史的事実>と捉えることは皆無です。
また・・・
≪その情報源を素直に正しいと信じていらっしゃるからこれもある意味で信仰に近いものがあるかもしれません≫
これは、全く違っています。
可能な限りのあらゆる情報、見識、研鑽、学究に触れ、これに対し取捨選択したいと考えてはいますが、あるひとつの見解に対して信仰はしません。
いつでも<信憑性のより高い新事実>に正対する用意はあります。
ただし、キリスト教徒の在り方として・・・
事実ではなくとも、その伝承、記述から何らかの寓意を読み取り、人の暮らしに役立てようとする信仰だけなら、我々が介入する必要も云々する必要も無いワケですがね。
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| 5 マタポポヒ ID:f2m7Bj3U |
2008/11/24 23:35 |
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矢島さん
御丁寧なお返事恐縮いたします。
あなたの言うとおりのことが一般的であるとするなら、クリスチャンがその真逆の、見解を持っていて当然だと思います。聖書にもそう書いてありましたから。クリスチャンとは、通常考えられないことを、信仰によって信じることが出来る人だと思います。これは、聖書の記述とも一致しています。
矢島さんは、失礼ですがキリストの十字架の贖いについては、どういう見解をお持ちでしょうか?差し支えなかったらお教え願えないでしょうか?
わたしは、聖書の記述は、もとよりキリストの処女降誕、十字架の贖い、復活、昇天、再臨を信じているものです。 |
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| 6 東方博士 ID:RoC1oKXw |
2008/11/25 22:20 |
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>2
以下を否定されるなら結局キリスト教に反対される立場を明確にされるべき
です。高尚な語彙は不要ですね。本音、主旨をストレートに言うべきだと思います。
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、 死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、 天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。 かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。 我は聖霊を信ず。 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、 からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン。 |
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| 7 北海鱈 ID:2o9YsXBw |
2008/11/26 21:02 |
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イエスの母マリアの処女懐胎を信じられない人がいても僕はかまへんけど
、クリスチャンがそれを信じ受け入れないことはどうかとは思うね。
僕は単純に聖書の記述信じてまっせ。神学者じゃないんで難しいことは
知りませんけど、僕の出席しているメインラインの教会でも、使徒信条告白唱和してるし、僕も毎週礼拝で唱和して告白してるよ。 |
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| 8 無頼庵 ID:KM9Rhqo2 |
2008/11/26 22:36 |
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| “イエスの母マリアの処女懐胎”この事件の真偽について、これをキリスト教・非キリスト教のリトマス試験紙として良いかどうか。もちろん信じていない方々にそれを押し付けようとは思いません。ただキリスト教徒を自称する(かく言うわたしもここでは自称クリスチャン以外の何者でもないですが)方がイエスの母マリアの処女懐胎を否定するとなると、キリスト教・非キリスト教の分岐点について考えなければならないわけです。いったいキリスト教とは何なのか。何をして我々の仲間として認めるのか。 |
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| 9 東方博士 ID:DvyCcuSc |
2008/11/26 22:43 |
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| 例えば、処女受胎は信じないけど、復活は信じますとかそんな自分勝手な信仰ってあるんでしょうか?神様がイエス様を通して示された奇跡を人間的視点で論じるのは自由ですがそれはキリストを知らない人か反対者のやることと私は考えます。 |
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| 10 矢島 ID:V6j2jvHY |
2008/11/27 15:08 |
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マタポポヒさん・・・
十字架の贖いについては、後日お答えします。
いや、月末と年末とで、なかなかまとまった時間が取れませんでね。
それにココはメンテに入るとか・・・
その後になりそうです。
東方博士さん・・・
ボクは、本音、主旨を(かなり)ストレートに言ってるつもりですがね。
使徒信条についても、ボクは(ご承知かと思いますが)カトリック棄教者ですので、否定もクソもないです。
使徒信条の文言中、まぁ~とりあえず事実の写しと思われるのは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ」という部分のみですから。
無論ですが・・・「ルター大・小教理問答」 「ジュネーブ信仰問答」「ハイデルベルク信仰問答」「ウエストミンスター大・小教理問答」なんかについても、似たり寄ったりです。
この続きも、後日にしましょう。 |
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| 11 むにゅむにゅ ID:1CU0z0VI |
2008/11/28 03:04 |
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キリスト教がこんにちの学術的な知識からかけ離れて宗教として成立した、という『一面』は拭い去れないと思います。問題点は気になる人達が個人的に勉強をして解決すれば充分だと思います。
アジア人としては「今更」キリスト教を弄くりまわすよりは理解をするように勤めた方が、何はともあれ、み旨のうちに下されようとしている『恵み』に対して素直だと思います、そっちの方が切実・・・。
仏教だって他のアジア諸地域でかなり変容しているはずですが?
他の宗教でもごく当たり前にあることですが一番大切なことは口承されたという事実です。奥義などは特にそうです。心理学的に効果的ですし。臨床心理の話題にも矢島さまはきっと精通しておいでかと存じますが、カウンセリングでも手法として取り入れられているようです。幾例か真摯なものを思い出します。たしかカルトにもそういうのがありました。
それが欧州でも政治的な変化から社会的な変化が生じおそらくは徐々にそうした、もともとの精神が変化したのでしょうね。つまり口承にかんする。細かい年号とか社会的変化はまあご自分で調べてみてください。
矢島さま、だから新約聖書Greek Bibleに記載されている事がキリスト教の「全て」であるとするのは学問的・学術的にに間違っていると思います。
そうでなくてよいのです。
私は『使徒信条』は思ってもいない欧州アジアの『 土 の 香 り 』と信じ、幸いを得ています。
もっとその当時の人間ドラマも研究して自然な成り行き、共同体の発展、社会的必要性も考察してみるとなんとなく受け入れられるようになるのでは。
逆に、これ使徒信条は『宗教の一部(根幹ですがこの場合)として信じるに値する』、むしろこれ無しには・・・と、どこかで気が付くのではないかと思っています。でないと論理的な展開が意味をなさなくなるといえばいいのか。でないと行き詰まるといえばいいのか。キリスト教で(最初はユダヤ教との区別が果てしなく曖昧だった)そのキリスト教で、奥義が口承されたかどうかの問題ですね。最近の研究によって明らかにされてきた事もかなり正確になってきたとは言え所詮は定かでないことがよくありますし、何が・・・どんな「意味」意義、sence, essence, が、キリスト教の信仰を方向付けてきたかを考えれば。まさに使徒信条は。すみません。感無量になってしまいました。言葉に詰まってしまいました。まさに信じるに足る、まさに『私達の』『口承された、奥義としての出来事』がまとめられ書きとめられたのだと思います。
所詮このような文章によっては全てを表しきれないので霊によって「意味合いが伝わる方法によって」直に会ってお話をできたら良かったのですが。
どうもさっぱり。
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| 12 むにゅむにゅ ID:1CU0z0VI |
2008/11/28 08:39 |
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O
出来事があって。気が付く世界があって。
心がふるえて信じるにいたった・・・、
人達がいたのでは。それが、あまり口に
出してはいけない事として、語り継がれる
事はあると思います。
気が付く世界があったら、信じられますよね。
あまり真偽を見分ける事に終始して、つまり
現代人の目をもって眺めてばかりいたら、
うん。そういう疑うばかりの心になっちゃう
のでは。
それより自分に必要な救いとは何かそれは
何を信じる事によって頂くものなのか、
を考えた方が宗教との出会いに戻れるのでは。
自分に必要な救いなんて無いっていうなら
まあ、それはそれで。
「宗教に何を求めてんの?」神を求めているのか、
救いを神に求めているのか、どうかよね。
でもそれも何か功利的で、困ったときに神様って
呼んでみた、悔い改めてみた、みんなが祈っている
ように祈ってみた、一緒に信じるものを信じてみた
・・・ら、聖書をよく理解できた・・・。の方が
人間として人間らしくて・・・いいですね。
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| 13 東方博士 ID:XU.zzgIg |
2008/11/28 21:32 |
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矢島さん
なるほど。「信仰告白は否定もクソもないです。」よくお気持ちを
表現していただいたと思います。
で、カソリックであれプロテスタントでありキリスト教を捨てた貴殿がここで書き込みされる意図は何ですか?棄教を奨めてるんですか?
それとも入信を奨めて欲しいんですか?前者なら堂々と「棄教」スレでも立ち上げて主張したらどうですか?勝手ながら僕には、キリストを知りながら反対する人には、心の渇きが見えるような気がするんで
勝手にそういう方の為に導きを祈るばかりです。 |
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| 14 むにゅむにゅ ID:1CU0z0VI |
2008/11/28 23:28 |
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ヨーロッパの昔の、そういうの、いくら研究しても。
あたしは・・・どおぉーかと思うよ。CDみたいに
ぐるぐるぐるぐる・・・まわってるだけの筈ですが。
その当時の知識ではそうなります。現在の学者達の
レベルはなかったはずですが。
宗教なんてなあぁぁーんにも理解してない人達が書
き上げたみたいで、いや、宗教とは、ということを、
なんか、履き違えていたんじゃ。
なんて言ってしまった後は、個人的には肯定させて
もらうつもりです。ありがたがるつもりです。わっ
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
何を信じる事を救いというのか。信じるとは?
なんか、そんな気がしたら、信じられるんじゃ・・・。
信じられる、って、なにかな?どういうことかな?
ってね?視点が違うでしょ?矢島さんと。
あたしってば疑問を変えてみたの。ははは。
矢島さんの疑問には奇跡が起こらない限り最新の
発掘調査によっても決して完全な回答は得られ
ないんじゃ。厳密にいって。で、その、調査
研究結果というのも学者によってなんか、見解に
相違があったりする。絶対に答えなんか見つから
ない事にそんなに良い頭をひねられてしまっては。
キリスト教はイエス様による奇跡、miracle, や
Super Natural Phenomina・・・
が信じられないと、信じられなくなると思うよ。
『神が愛』である事も信じられなくなる筈ですが。
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| 15 矢島 ID:rnGT9rpU |
2009/03/02 11:51 |
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[10]で、マタポポヒさんに「後日」と言ったまま、日が過ぎてしまいました。
いろいろノッピキならないことも起こったとご理解ください。
お答えするに先立って、マタポポヒさんの[3]の発言に少しコメントしておきます。
≪人間の浅はかな智恵で知ったかぶりが出来るほど、神様は、単純なお方ではありませんよ≫
キリスト教徒やユダヤ教徒の神を含む、世に知られた多くの<神という形とその概念>は、その人間の浅はかな知恵が生み出したのです。
もし、真実、神が存在するとするならそれは、人間を含む全ての知能が認識できないところに在る。
したがって、それが<在るか無いか>ということすら知り得ない。
おっしゃるように、議論で決着を付けるのは無理でしょう。
このスレッドの主題にしても、あなたがたはマリアの処女懐胎を<信じる>というところに帰結させようとするが、ボクらはそれが<事実である可能性は在るか>というところに向かいます。
<信じる>という行為には、証拠は必要ない。
だが、事実を追うボクらには、物証か状況証拠、そうでなければ論拠が必要です。信じてハイおしまいではないのです。
ですから、もともと帰結点が違っているので、たとえ論破できても納得は得られない場合が多いということで、議論では決着できないというのは正しい。
しかし・・・
≪むしろ、パウロ先生の回心のように矢島さんが変えられるのを、祈る方が良いと思います≫
これは【 それ(議論で決着)と同様 】に有り得ない。
ここにも<自分たちの信仰が正しく、それと異なるものの方が回心すべき>という傲慢と排他性が顔を覗かせている。
かつて(今も?)異論を焼き滅ぼしてきた自称主流派を名乗る全ての教会と同根のスタンスと云うべきです。
≪あなたのおっしゃることも仮説の一つであることを、認識した上で≫
そもそも、確かな証拠、論拠が無い、あるいは薄いということで言えば、聖書の記述そのものが、また、それに対する教会の解釈そのものが仮説と同列のものであります。
そのこと、認識しておられるでしょうか。
あなたがたの(信じる、あるいは感得という認知形態しかとれぬ)信仰を(別に悪いものとして)否定はしませんが、客観に立てば、そういうことになりますでしょう?
さて・・・[5]の≪矢島さんは、失礼ですがキリストの十字架の贖いについては、どういう見解をお持ちでしょうか?≫に答えます。
<贖い=身代金>とストレートに書いたのはマルコだけです。
~人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである~(マルコ10:45、並行(コピー)マタイ20:28)
パウロはややボカした言い方に変えています。
ふつうに考えて、身代金は(とてもタダでは解放してくれそうもない)敵対者に対して捕われ人の代わりに支払われるものです。
ここでは、罪からの解放・・・ならばそれは、神の自由にならない、あるいは神の力の及ばぬ相手からの買い戻し。
そう考えないと、身代金の意味が成立しません。
しかしそうなると、これは二元論の影響を考えなければならなくなるが、ここではその言及はしません。(煩雑になるので)
【身代金】について・・・
現在、私の知る狭い範囲で言えば、(一般に出回っている)日本語訳では「新共同訳」のみが【身代金】と直訳しています。
他は皆、一様に「贖い(もしくは)あがない」と訳しています。
新改訳(福音派)や新世界訳(ものみ)なども「贖い」としています。
もっとも、この二つは英訳からの重訳の疑いがあるけれど・・・
田川氏の『 マルコ注解 』に、少し解説がありましたので、要約します。
[lytron]リトロン=身代金・・・としか訳せないのですが、パウロの方(ローマ書、ルカ、擬似パウロ諸書)では、接頭語[apo-]を付け、抽象名詞語尾を付けた[apolytrosis]アポリトローシスとなり、こちらの方は「身代金を払って贖い出す行為」を意味するようで、田川氏も『従ってこちらは単に「贖い」と訳しても間違いではない』と書かれています。
いずれにしてもマルコは「身代金」云々には冷ややかで、むしろ~仕えられるためではなく仕えるために来た~の方に力点が在ります。
既に福音書に先立つパウロ各書簡でパウロが用いた表現[アポリトローシス]をマルコは知っていたはずなのに、敢えて[リトロン]を用い、しかもたった一箇所だけにしか登場させていないと言うのは、この(産まれたての)ドグマに対してもマルコは冷淡だった(批判的)と思われます。
日本語訳に戻りますが・・・
[アポリトローシス]を用いたパウロやルカの記述に対して、口語訳その他では、「贖い(もしくは、あがない)」と訳していますが、新共同訳のみ「解放」と訳しています。
この敷衍訳は正しいのかも知れません。
なぜなら、(田川氏によれば)この「アポリトローシス」という唐突な単語はパウロ教団にあっては、「罪からの解放、救済」を意味する符牒としてドグマ化していったのではないか・・・と思われるからです。
どちらにしても、「リトロン」も「アポリトローシス」も、一様に「贖い」と訳している(田川訳と新共同訳以外の)日本語聖書は、原義を正確に伝えているとは云えない。
このように初代教会(リアルタイムでは\"集会\"というべきか)は、「贖罪論」を形成してゆくワケだけれど、この形成過程を大雑把にかいつまむと・・・
イエスの磔刑死の後、残された弟子たちは、彼らにイエスが「現れる」という体験をする。(1コリ15-5)
これが、記述どおりのものであったか、幻視、あるいは心理的体験であったのか・・・それは判らないし、ここでは問わない。
そもそもユダヤ教神話的世界観では「死」は「罪」の結果と考えられていて、この弟子たちの体験は「イエスの復活」という表象となる。
つまり、復活は「死の克服」であり、それは「罪の赦し」に置き換えられる。
これは・・・「弟子たちに起こった主体的体験」であるけれども、「神がイエスを死者たちの中から起こした」(ロマ10-9)というふうに、イエスに起こった客観的事象として語ってしまう。
神により、イエスが死を克服して蘇えったのなら、それは論理的に考えてイエス自身の罪の赦しであるはずだが、なぜだか弟子たちは<自分たちの罪の許し、または解放>と捉えた。
この<自分たちの罪>の中心には、師への裏切りという後ろめたさがあったであろうし、そこから解放されたい思いもあったであろうけれど、それだけで「復活と贖罪」を語るのはどうも合点がいかないのです。
しかし、それはともかくも、彼らはイエスの死に意味づけを始める。
すなわちイザヤ53章から、主の僕の贖罪死に重ねてゆく。
こうして、イエスの死に預言の成就という解釈が持ち込まれると、当然ながら復活も預言成就としての再解釈が施される。
果たして、「贖罪論」は形を成し、やがてドグマ化してゆく。
ざっと、こんなところですが、ここで弟子たちは新しい方向性を生み出してもいます。
元来、ユダヤ教世界には、人々から打ち捨てられて惨たらしく刑死したボロ雑巾のような男が、メシアとしての栄光を得ることなど在りはしなかった。
メシアは、仰ぎ見る偉大な姿で現れ、万丈のイスラエルを打ち起て人々を導くのであります。
だが、上記のように弟子たちはイエスを栄光化し、メシアからダビデの子、神の子、そして遂には神そのものにまで引き上げ、格上げしてしまった。
ついでなので、ニ、三・・・
[11]のむにゅむにゅさん・・・≪一番大切なことは口承されたという事実です。奥義などは特にそうです≫
むにゅむにゅさんはカトリックですかね・・・伝承を大切にされているようですので。
ボクはキリスト教には「奥義」なるものは無いと思っています。
高僧にだけ伝えられ生き続けるような奥義はね。
カトリックは聖書そのものも、司祭の説教を通してしか読み聞かせないという時代もありましたが、如何にも古い時代の話です。
≪もっとその当時の人間ドラマも研究して自然な成り行き、共同体の発展、社会的必要性も考察してみるとなんとなく受け入れられるようになるのでは≫
・・・と、おっしゃるように、キリスト教を受け入れるか否か、というところで話されていますが、まずそこが違っています。
ボクは棄教者ですが、それにはそれなりの理由もあります。
しかしそれはまた別の機会に。
[14]は、おっしゃっている意味がイマイチ掴めません。
ですが、現在の学問は、各方面でわりあい進んできているようですよ。
エルサレムばかりではなく、ナザレも二千年前の地表まで掘り進められていますし、数々の出土もあります。
無論、全面解明に至るとは思えませんが、だからといって事実ではないことを、事実と言い張るのが信仰などとは認められません。
前後しますが・・・[13]の東方博士さん。
少し、ピントがズレています。
棄教を勧めようとも、入信を勧めて頂こうとも思っていませんよ(笑
もっとも、本人が棄教したと表明してるだけで、ボクの名前はまだカトリックにあります。
いつでも戻ろうと思えば戻れるんですよ。
今でも用事があれば教会にも司教座にも中央協議会にも、あるいはプロテスタント各派にもモスクにも、王国会館やモルモンにだって出かけていますから。
ここでは、そのようなステージで語っているのではありません。
とは言え、心はいつでも渇いていますから、どうぞボクのために祈ってください。
そして出来れば、心も身体も飢え渇いている人のために働いてください。
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