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CHRISTIANTODAY フォーラム
異言
1 ジュリア ID:z0YHKlYg 2008/11/16 15:33
 皆さんメリークリスマス!のシーズンですね。さて、以前、熊に出会った牧師さんが、熊に対して異言を思いっきり言い放ったところ、熊が逃げて行ったと言う話を聞いたことがあります。異言の賜物をいただいたクリスチャンのみなさん、異言についていろいろ恵みや威力をお聞かせ願えれば幸いです。きっとノンクリの皆さんが信仰に至るきっかけになるのではないのでしょうか。

 異言について(ご存じない方ご覧ください)→ http://jp.youtube.com/watch?v=tf49FaoCmiY

 クリスマスを通して、みなさまにあふれんばかりの聖霊の働きがありますようにお祈りいたします☆
2  ハレルヤ太郎 ID:YIpCWNRg  2008/11/16 21:51
異言は口真似です。
集団催眠の一種でキリスト教的にはあまり意味がありませんな。
威厳に威力なんてありませんよ。
奇異に見られるだけで、ちょっと勘弁という感じです。
パウロも書簡の中できつく戒めてますよね。
3  むにゅむにゅ ID:PeNdzdC6  2008/11/17 01:08
ジュリアさんの言ってる事信じられる。異言の賜物のほうがいいです。

Tarou の不信仰にも効くといいなあぁーーー。




4  とあるクリスチャン ID:cooTM8VM  2008/11/17 09:43

 ~割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」(使徒10章)

さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(第1コリント12章)~

アーメン。ハレルヤ太郎さん、異言は主が私たちがイエスキリストによって選ばれたクリスチャンであるという証として与えてくださる賜物のひとつです。クリスチャンにはいろいろいますが、それぞれにふさわしい賜物をその信仰や性格、素質に伴い与えてくださいます。そのようにしてまさに天は二物を与えず、といいますか、互いが互いを敬い、愛し合い、主の中にあって一つにある関係を築くようになるのです。異言の賜物がなければ、初期のキリスト教の広まりで、異邦人にバプテスマを受けるようにさせるのが難しかったのではないでしょうか。

 聖書で異言をいましめるのは、ただむやみやたらと異言だけ唱えていても、周りに恵みを与えない、世の人々になんかおかしな人たちがいると思われるだけだということで、その場にかなったやりかたでふさわしく主に頂いた賜物を用いるべきだということでしょう。信仰や祈りを深める上で、異言の賜物をいただいたクリスチャンがそれを用いるのは問題あることではありません。ただ主からいただいた恵みを神様と自分の間だけにとどめておくのではなく、皆に解き明かし、恵を共有することが必要だと思います。

 祈りの中で恵を多く受けたクリスチャンの方は、ぜひそれを明ししてくださると、他のクリスチャンの方の信仰の糧ともなりますし、ノンクリの方々が信仰に至るきっかけになるのではと私も思います。
5  とあるクリスチャン ID:cooTM8VM  2008/11/17 15:37
 ジュリアさんへ

 異言についてのビデオ、興味深いですね。確かに、私も言葉で祈るときは、理性でなにか感情が制御された状態になっているような、脳が動いているような感じがしていたし、異言で祈るときは、なんというかオートマチックに祈っているような気がしていましたが、そいう脳の働きの違いがあったのですね。

 異言は、自分の言葉では何と祈ったら良いか思いつかない状況や、とにかく神様への切ない愛を示したい時などに有効だと思います。とにかく長い時間祈りたいときなど、僧侶や修道女などのように言葉で祈ると忍耐が必要なような気がしますが、異言だと、オートマチックに祈ることができ、恵みを受けることができると思います。

 人によっては異言で祈っている間に、神様がいろいろ幻を見せてくださったり、直接語ってくださる方もいらっしゃいますが、私は残念ながらそこまでには至っていません(東京の早稲田などには「預言カフェ」という喫茶店があるそうですね)。

 この状況について、とある牧師さんに、「それはあなたがまだ真面目に祈ることを知らないからだ」と言われました。まあ、賛否両論あるかと思いますが、いかに「真面目に祈る」ことができるか、取り組んでみたいとは思っていますが、どうしても雑念にかられてしまうのが現状です。理性的で分析的であれこれ考え込んでしまう人ほど雑念にかられて祈りに集中できない傾向があるという話も聞いたことがあります。。異言での祈りに関しては、私もいろいろ聞きたいことがあるのですが、なかなか聞けてないことが多く、問題が多いです。せっかく頂いた異言なので、尊く用いたいとは思っています。私にとっては、時に疲れているときは、かえって自分の言葉で祈るほうが異言より祈りやすかったりする時もあります。私自身まだ頂いた異言というものがどんなに恵み深いものなのか、理解できていない状況にあるのではないかと思ってはいます。。

 どうやったら「真面目に祈る」ことができるのか、だれかにもっと詳しく時間があれば手取り足取り教えていただきたいですね。ただ異言を受けたことで、各段に信仰が強くなったのは間違いのない事実ではあります。クマにも異言が効くとは知りませんでした。私も今度危ない目に遭ったら異言で叫んでみようと思いますが、そうならないことを願います。
6  矢島 ID:4aBadFFo  2008/11/18 08:56
こういった(異言のような)パフォーマンスにどれほどの意味があるんだろう?
出鱈目な言語(のようなもの)を、ワザとやっているとは思わないけれど、一種のトランスであることは確かだと思う。
このような「宗教的恍惚感」を利用して、如何にも神仏と一体感を得られたような感覚に浸り、尚いっそうの信心に向かわせる・・・という手法は様々な場所で行われてきたけれど、それは文字通り「宗教的恍惚」以外の何物でもない。
仏教では「声明」というのがあるけれど、恐るべき倍音効果で、これもなかなか感動的ではある。

キリストに倣って生きようとし、それを他者にも証ししようとするならば・・・つまり自分が如何に素晴らしい生き方を得、それを踏襲しようとしているかを伝えようとするならば、それはこういったパフォーマンスでもなければ、祈りでもない。
まして百万の言説でもない。
それは、そのように「生きてみせる」こと以外には無い。

その姿に接することによってのみ、人は彼が、何かただならぬ得がたいものを得て輝いていることを知り、自らもそのように倣おうとするのである。
これ以外に伝道の手立ては無い。
7  ひじり ID:LyEkCsrk  2008/11/19 11:59
>>6
異言=パフォーマンスではないでしょう。
パフォーマンスとしては意味ないと思いますよというよりか、パフォーマンスとして捉えるならかえってマイナスになってしまうんじゃないでしょうか。

私は異言だけを表面的にその行為だけ見れば、正直に言いますと最初は引け目を感じてしまいました。ただ、今は違いますけどね。

静かに祈る祈り、言葉で語りながら祈る祈り、異言で祈る祈り、いずれもあってもよいものと思います。
8  北海鱈 ID:f1ajYeaQ  2008/11/20 11:30
日本でもペンテコステ・カリスマ派の方々は、異言はその教会・教団・教派の核心部分でしょうから、どんなに周りが異言はアカン・オカシイと言っても仕方ない。
 でも使徒2章に出てくる異言と、今の時代に多くがシテイル異言とは異なるでしょう。パウロが異言を戒めているのは、トランス状態の異言カナ?僕の知り合いで異言する兄弟は「エクレシア」を連続して発音しているのもいるし、どう判断しても、何か怪しげな雰囲気で異言しているのもいる。
 要は、聖霊に導かれて祈っているか、何か、別物か・・・でも、異言ヤッテルの結構、おかしいのも多いけど、異言ヤッテナイ人も同じほどオカシナのがいるから、ドーかな?
 お互い、ヤル人もそうでない人もお互いの分をわきまえルっこっちゃね
。僕は異言はやらないけれどもね。




9  匿名さん ID:SR2A8zOc  2008/11/21 11:59
異言が自己満足のためのものやパフォーマンスになってはいけないし、それによって他人をつまずかせるような事があってはならない。パウロが言いたかったのはそういう事じゃないですかね。
10  マタポポヒ ID:f2m7Bj3U  2008/11/24 10:27
異言は、聖書の中では、聖霊降臨の日より、与えられた御霊の賜物の一つです。聖書をよく読むと、否定してはならないことと、取り扱いに注意しなくてはならないことと、さらに優れた信仰の実を求めるようにということも書いてあります。異言やその他の御霊の賜物をを一種の超能力のような自己能力と勘違いして不思議なことを行いたいと、求めた人たちは、古今東西跡を絶ちません。私も、異言の賜物に触れた一人です。授かった瞬間は、浸礼で受洗を授かった時のように、心から喜びが湧き上がったことを覚えています。しかし、今は、異言やカリスマに批判的な牧師の教会に所属しているので、沈黙を守っています。異言ならすたれますという聖書の言葉もありますが、あまり固執しないほうが良いとは思いますが、神様が下さる賜物を、邪険に扱ったり否定するのも間違っていると思います。
問題は、何故その賜物をいただいたかです。それを用いて自分の信仰の成長に役立っていればよいですが、その人自身の信仰や行動が神の御名を汚すようなら、沈黙を守る方が良いと思います。

いくら、賜物があっても、なくてもそんなの関係ありません。
その人の信仰が神の御心にかなっているかだと思います。

異言ってすごい!という捉え方は、そういう意味では、神様も苦笑いをされることだと思います。

私は、今は異言で祈ることはないですが、異言で祈らずにはおられない時がきたら、導かれるままに祈りたいと思います。

11  北海鱈 ID:PHRAMro6  2008/11/24 17:50
 僕は異言は実際、いろいろタイプはあるが、存在しているので認めます。否定することはできないと思います。但し、中にはインチキ異言もあるだろし、異言をする一部の人の、異言をしない人への逆偏見や高ぶりも結構見られる。でも、異言する人で立派な人、バランス摂れた人もたくさんいることも事実。
 なーんか、だいぶ前の日本の異言派では、異言の呼び水として、新来会者にいきなりバケツかぶせて祈ってみたり極端なの結構あって、日本では異言派が伸びてるようで、いまいちなのかなとは思うけど・・・。
 僕は異言は出ないけど、別にどうこうってことは無い。でも、パウロは
異言に結構気を遣って書いてるね。その時代から、結構、パウロから見たら、やっかいな人たちという側面も幾らかあったかもね。
 そうでなきゃ、あんなに異言に言及せんでしょ。自分は誰よりも異言すると啖呵切ってるのは、多分、今の時代の、トランス状態の異言というよりも、パウロはヘブライ語・ギリシャ語・古代ラテン語その他を話せたので、その言語で祈ってたりのことかもね・・・わかんないけどね。
 
 
12  東方博士 ID:/dqQIKQA  2008/11/24 19:03
ジャズ歌手のサラボーンが枯葉をスキャットで歌ったがこれが実在の言葉より
ソウルを感じる。かように異言も論理的な言語を越えた賜物として大切にしたいですね。でも実際は「キモイ」のも目立つ。昔とある教会で静かな男性が祈りになるとトランス状態で異言で祈り始めたんですがさらに驚いたのは祈りが終わったらピッタと元に戻った。正直怪しい気になりましたね。余韻がないんです。異言を重視する教会またその逆もありますが、11でご指摘の通り異言を奨励される方のそうでない人への一方的ジャッジだけはやめて欲しいですね。異言で祈れる人は謙虚にそれを感謝していただければそれでいい。
13  Nat ID:FUti6VSk  2008/12/05 01:12
しょっちゅう異言で祈ってるよ。
ウツ病なんだけど症状が苦しいときに異言で祈ると効くんだわ。
異言で祈ると熱いものが体の中心から出てきて、胸の苦しい塊がすーと溶けるんです。
薬も飲んでるけどね、1日の回数が限られてるから薬でまかなえないところは異言の祈りで直してる。
14  北海鱈 ID:3kjgKbFY  2008/12/05 06:15
 異言をなさっている方々は人それぞれです。
NATさん。どうぞ、どんどんなさっていただきたいと
思います。他にご迷惑かけなければ全くノープロブレム。
トランス状態デアルファー波、等の心地よさを堪能
して頂きたいと思います。
 でも、でもですよ。1コリント14章パウロの異言
に関するコメントも、時には熟読し熟慮することも、
必要かと思います。
 異言結構、でもバランスもってするともっといいかも。
14:5、6-23節。26-33節は異言についての
パウロの考えが良く現れていますね。
僕は、異言で祈ったことはないけど、パウロは異言はある
こと認めている。
NATさんが異言で祈ること、いいじゃないですか。
 
15  Nat ID:f4Y9to1Y  2008/12/06 00:16
北海鱈さま
ご理解ありがとさんです。
16  Tad ID:.hiAa8IE  2009/02/10 13:17
少し間が空いてしまいましたが、ここで発言なさっておられない方々にも異言について興味を持たれている方々がおられるかと思いますので、私も一言申し上げたいと思います。

私も異言を話します。けれども,それが特別な事だとは思いません。

異言は、聖霊のバプテスマを受けたことの現れの一つとして聖書の中で述べられていますが、私にとっては、聖霊によるバプテスマを受ける恵みを頂いた事の方が遥かに意味のある事で、異言はその結果として与えられた一つの賜物にすぎません。

私自身よく異言で祈りますが、異言で祈る時には、主が私に何を祈っているのかについて語ってくださらない時がほとんどです。,けれども、異言で祈るときには、自分の意志で言葉を語るのではなく、私の唇を主に明け渡すことによって、主が必要とされる祈りを私の口に置いててくださっているのだ、と言う感覚で祈っています。(1コリント14:2)すなわち、知性の言葉では語り尽くせない事柄を言葉として口から出して祈らせるために,主との霊のつながりの中で、主ご自身が働いてくださり、私が祈るべき事柄を私の唇を用いて語らせてくださっている,という感覚です。ですから、異言は主と私との個人的な関係の中での祈りの時に用いられるのが主たるものだと思います。

そのような意味合いでパウロは、自分が誰よりも多くの異言を語る事を告白することを通じて、パウロがどれほど多くの時間を主と個人的に過ごしているかを表しているのだと思います。

但し、どなたか必要をもたれた方に対して個人的に祈らせていただく場合には、異言を静かに語る事で主との霊的な関係を深めることから始めますけれども、実際に祈る際には、主が私に、其の方に語るべき事柄を、減らす事も,付け加える事も無く、正確に、其の方が理解出来る言葉で語ることが出来るようにいつも主にお願いしています。主は私が口を開くべき時期を示してくださいますから、その時に主が心においてくださった事柄を語り始めると,其の後はそれ迄自分では思いもかけなかった言葉を主が語ってくださる体験を何度もさせていただきました。

この経験から、やはりパウロが自分が誰よりも多く異言で語る事を告白しながらも、

私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、
教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。(1コリント14: 18-19)

と告白している事から判るように、知性で語るべき事柄は知性を用いて語ることが出来るように、主に常に祈り,主との個人的な関係を深めることが出来るように、主にお願いすべきだと思います。

主が私たちに最も望んでおられるのは、「心を尽くし、知恵を尽くし,力を尽くして主を愛する」(マルコ12:28-31) 事であるのは,良くご存知だと思います。

主は私たちが主を知る前から私たちを愛してくださっています。そして主は,こんなにも私があなたを愛しているのだから、あなたも私を愛してほしい。そうどうしようもないほど強く、私たちに訴えかけておられます。

もし、あなたに誰か好きな人が出来たらどうですか、其の方にも私を愛してほしいと願うでしょうし、また、其の方と時間を作り、二人きりで語り合いたいと思われるでしょう。主も同じなのです。ですから、このみ言葉が最も大切だとイエスキリストは語られたのです。

主は,あなたと個人的な関係を持ちたいと切に願っておられます。
主を悲しませないために、是非あなたから主にお願いしてください。
「主よ,私はあなたと個人的な関係が持ちたいのです」と。
主は,あなたの願いを聞き入れてくださると信じます。


Tad
17  あんしん ID:G/EkOl9g  2009/02/11 00:31
異言の賜物について、一言、申し上げてもよろしいでしょうか。

正直なところ、異言は賜物ですし、聖書が示す限り、Tadもおっしゃっていますが、
このようなところで「異言自慢」的なことをなさること自体がいかがなものか?と思います。
示されているとおり、異言は人の徳を高めないとありますので、
それこそ密室の祈りであるべきではないかと思います。

異言が良いとか悪いとか、ないとかあるとかいう議論もむなしいと思います。
聖書は異言についてそれがあることを前提に記していますし、
確かに「賜物」としての異言はあると信じます。

しかし、最も大切なことは、
使徒行伝・使途言行録・使徒の働きに記させている通り、
「賜物として聖霊を受ける」ということでしょう。

私が教会学校の奉仕をしていて、子供に「聖霊はどこに降るの?」と聞かれたとき、
困った経験があります。

先に紹介されていたムービーにも「神を感じる」とか「聖霊を感じる」といった表現がありましたが、
わたしはそれこそ、これを不思議に思います。

やはり「霊」ということを誤解してるように思います。

霊という物質がある訳ではありません。
私たちは聖霊によって与えられる信仰によって、これらのことを知り確認するだけで、私たちの五感でわかるものではないのではないでしょうか?

もし私たちの五感で知りうる何かが「霊」であったら、
それこそ、この五感の衰えがあったり、そうすることができない人は、
主の救いの対象ではないことになりはしないでしょうか。

私はこういうことがむしろ「聖霊に対する罪」であり冒涜ではないか、
とさえ思います。

聖霊なる神は、むかしから伝えられる通り、
私たちと主イエスとをつなぐ「神の手」です。
ですから、「血は水よりも濃い。しかし水(バプテスマの水)は血よりも強い」といわれるのです。

ご聖霊は「不思議な力」がご本業ではありません。
ご聖霊は「イエスは主である」と告白させてくださる、
主ご自身で、わたしたちに父と子(主イエス)と共に礼拝される神なのですから。

異言を強調なさる方々は、ぜひ正教会の教理について学ばれることをお勧めします。
ここにははっきりと、父なる神・子なる神・聖霊なる神についてしっかりと三つにいまして一人の神であるとはどいうことか、学ぶことができます。
正教会が最も大切にする信仰告白「二ケア・コンスタンティノープル信条」についてもあわせてご覧になることをお勧めします。

18  ハレルヤ太郎 ID:ZgZ.7lUo  2009/02/12 11:57
どうやら、大分意見が出揃ったようなので、中間の総括とさせていただきます。
異言をやや否定的に捉える方々がやはり多いようです。
「異言は口真似です。集団催眠の一種でキリスト教的にはあまり意味がありませんな。」
「パフォーマンスとしては意味ないと思います」
「インチキ異言もある」
「異言は人の徳を高めない」など、かなり辛らつな意見が目立ちます。
一方、少ないながらも肯定的意見としては、
「ウツ病に効く」
という意見もありました。
そこの君、笑っちゃいけません。
笑いを堪えて、さ、引き続き論じ合いましょう。
19  dj ID:kp4R8bg.  2010/09/04 07:09
仏教の声明や真言(マントラ)はランダムの言葉でなく
古代サンスクリット語で現地の人には分かる言葉。
日本人は英語の機械翻訳みたいになっちゃうけど
結構美しい。まだ漢文で宗教改革されてないのが惜しい。
それに比べるとペンテコステ派の異言は神様のかたちを冒涜していて
健全な人格=イエス・キリストのようになることと正反対の状態。
それでペンテコステ派の人は先生から教えてもらったことに
批判することなく教理を受け取るのですか? そうだとしたら
とても危険なことです。
20  無頼庵 ID:omjPzzGc  2010/09/05 09:34
霊は物質では無いけれど、
聖霊は人格を持っているので
やはり感じると僕は思っています。

たとえば真っ暗な寝室に妻が入ってきたら
熟睡していれば気がつきませんが
話しかけられたら気がつくでしょう。

人格のあるものとの交流には感動も伴うのではありませんか。

聖霊はイエスのように肉体は持っていませんが
イエスと同じ人格を持っています。

肉体の手で按手はしてくれませんが
同じ力と権威を持っています。


僕が今行っている教会は
インチキ聖霊派です
かつては異言の賜物を受けた牧師は
今はいろいろあって異言に少々アレルギーがあるみたいです。

ペンテコステの日もすっかり忘れて礼拝に望むほどです。
受け入れない場所には現れも顕著には起きないようです。

これも聖霊が人格を持っているからでしょう。

たとえば
いるけど後ろの方に静かに座っているみたいな。
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