| 1 おちこぼれ ID:0wEaIn9k |
2008/10/20 23:16 |
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小さな証(7)
今まで、あまりに幼稚な「おちこぼれ」の話ばっかり!だったので、小さな証(7)では趣向を変えて、クリスチャンの方々の証を書いていこうと思っています。クリスチャンの方々は、「右手にしていることを、左手に知らせません」から、かなり隠れています。
天使の方々は、「見えないくらい謙遜」と言われています。それらが、「よく見える」を持っていたいといつも願っています。もちろん、クリスチャンは「善においてのみ競争者」ですので、見ているだけだと何の意味もないのですが。
病院で、看護師さんが患者さんに唾を吐きかけられました。すると、その看護師さんはニコッと笑って、「わたしますますきれいになっちゃうわ」と話しました。
ある方は、患者さんにこう言われました。「わたしが死ぬときは、あなたに賛美歌を歌って欲しい」と。数々のCDや賛美歌や歌を聞いてきましたが、こういう賛美歌を歌える人はほとんどいません。「おちこぼれ」もその方にはそう思います。
ある看護師さんは、生体情報モニターと呼ばれる機械の送信機を、患者さんからなげられます。「大丈夫でしたか?」と聞くと、その方はとってもきれいな笑顔で答えていました。新聞で「優しい人」とかで載られた方ですけど。
ある教会に説教者が来ました。「この教会には、ちり一つない。皆さんがどれほど教会を愛しておられるかが、よくわかります」。1日でも掃除を抜くとちりはすぐたまります。確かに批評するは易し、行うには「愛が必要です」。しかも、この教会はそれが20年間ずっときれいなのです。「ときたまの努力は何の意味もない」とその通りです。
あるクリスチャンの奥さんは御自身、日本経済の最先端の仕事をしていらっしゃいますが、ご主人はまたお仕事で毎晩午前さまです。しかし、ご主人が帰るのをいつでもまっていて、作り立ての「とってもおいしい」食事を用意されます。睡眠時間は1時間くらい?職場では、人の誕生日には手作りのケーキ、手作りの誕生日カードを作られます。そして、教会の方々のためケーキやクッキーを作り、そしてすずしい表情で安息日にはピアニストをされています。
クリスチャンって教会で祈っているだけ?とんでもない、「彼らはできる限りを尽くして、この世を少しでも住み良い世の中にする」する人々です。 |
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| 13 おちこぼれ ID:HfE.oZa2 |
2008/11/17 11:32 |
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「わたしの思いのままではなく」
アメリカで敬虔なクリスチャンの方がいらっしゃいました。とっても身体が弱く、貧しい中でも、福音を伝えられ、また孤児を育てたり、教会でも指導的な働きをなさいました。一生涯をかけて、聖書を高く掲げ、またクリスチャンの標準を高く掲げられ、イエス様を証されてこられた方です。
それでいて、ユーモアいっぱいの方でした。また、買い物も上手でその方が買い物に行かれると近所の奥さん方が一緒に行かれたそうです。
それこそ数え切れないほどの証があるのですが、女性でその証の翻訳された言語の数は世界一だそうです。もちろん聖書の中にある方々の証は別として。
記憶によると、その方は病気の方がいらっしゃると、イエス様にお祈りされたそうです。しかし初め「私の思いのままではなく、御心のままになさってください」と祈ることは何か信仰的ではないと思われ、そのようにはお祈りされなかったそうです。
しかし、そのようにお祈りされて、患者さんたちが元気になったのですが、その後の人生が主イエス様を悲しませるような?生き方をして行くのご覧になられました。
そして、「わたしの思いのままではなく、御心のままになさってください」と祈られるようになられたそうです。
その方が亡くなられる時、教会のクリスチャンが集まってきました。悲しい顔をしている彼らに、「さあ、賛美歌を歌いましょう」とおっしゃり、皆で賛美歌を歌われたそうです。そして、最後にこうおっしゃったそうです。「わたしは、自分の信じてきた方を知っている」と。
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| 14 おちこぼれ ID:HfE.oZa2 |
2008/11/17 11:36 |
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「伸べられたしゃく」
(僕の記憶によれば)さて、この方は洗礼を受ける前、とっても「怖かった」そうです。
ある時、説教を聞かれます。エステルさんの話でした。エステルさんは、ユダヤ人がハマンの謀略によって皆殺しにされそうになった時、モルデカイさんにこう告げられます。「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなくては、ならないという1つの法律があることを知っています。ただし王がおの者に金の『しゃく』を伸べれば生きることができるのです。しかし、わたしはこの30日の間、王の下へ行くべき召しをこうむらないのです」
それに答えてモルデカイさんはこのような伝言をします。「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救いがユダヤ人のために起こるでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」
エステルはモルデカイさんの言葉に従い、命をかけて王のもとへ行きます。そして、金の「しゃく」が伸ばされたのです。
説教者は言います。エステルと同じようにイエス様の所へ行きなさい。そうすれば、イエス様より「金のしゃく」が伸ばされるでしょう。
この説教にも感動し、彼女はイエス様に「改心」CONVERSIONし、そしてバプテスマ(洗礼)を受けられます。
「おちこぼれ」は、それこそ書く値打ちもないですが、この証には、とっても助けられたのです。 |
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| 15 おちこぼれ ID:4Gcwa4hE |
2008/11/18 10:09 |
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「クリスマス」
ちまたではクリスマスの準備が行われているようです。
教会では「クリスマスは伝道の機会というよりも、クリスチャンが本当に、イエス様の御誕生を心から喜んでいるだろうか、それがまず一番大切だね」という話がありました。
さて、クリスマスの時期にも、様々な出来事が起こりました。
教会員の方で、会社に勤めている方がいらっしゃいました。その社長さんが、ある日会社に段ボールをいっぱいもってこられました。その社長さんの趣味は「買い物」。ご自宅の1つの部屋を買い集めた衣類、靴などでいっぱいにしていました。
ところが、クリスマスの近づいたある日、「部屋にプロジェクターをいれる」ため、買った品物を社員にプレゼントしようと会社に持ってこられたのです。しかも、段ボールに何箱も。その時、いつも教会員みんなの事をとても心にかけているそのクリスチャンの方は、普段はジャンケンで勝った事がない(?)のですが、ジャンケンで勝ち、それを教会に持ってこられました。1つの部屋に、ずらーっと並んだ服の山、すべて舶来、しかもサイズもSもあれば、M、L、LLとそろっており、値札までついている新品でした。靴も舶来、20年はもちそうな品物でした。教会員1人1人がそれぞれたくさんいただきました。
「おちこぼれ」もたしか、靴2足、背広2着、普段着は重ねた厚さ20cm、ネクタイ数本いただいた記憶があります。
教会では、クリスマスには、子供たちに1人1人手描きで絵を描いた手作りカードや一生使えるような裁縫箱、かわいいタオルセットなどなどをプレゼントします。子供たちが、父の日、母の日、誕生日などに、手作りのカードをみんなで作るのは、その辺からきているのかもしれません。
さて、あるクリスマスの頃、「おちこぼれ」が職場に帰ると机の上に机が全体埋まるくらいの段ボールが置いてありました。開けてみると、輸液ポンプなど、医療機器がいっぱい入っていました。
教会の証を聞いた方から、いつも献身的なクリスチャンの先生方が働いている看護学校の学生のために贈られたプレゼントでした。「クリスマスプレゼントだ!」と感動して証したことを覚えています。
教会には、毎日献身的に、教会の奉仕、食事が必要な方々への食事作りなどなど働いていらっしゃる方々がいらっしゃいました。
ある時、その1人の方のところへ教会の方々が行かれました。とても小さいアパートでした。しかし、とても綺麗に生活されていて、引き出しを開けるとすべてきれいにたたまれており、みなさん、感動されていました。しかし、人のためには惜しみなく食事など用意されていたその方の家はとてもとても小さい家だったのです。1人の方が「きれいにしているわね」と話されると、「いいえ、壁が落ちてきて・・・」。その時、初めてみなさんは壁がぼろぼろになっていたことに気づいたのです。
さて、次の休日、教会員の方が準備し、お弁当を作り、「みんなで壁貼り」に行きました。そして、壁の他、家のものをすっかりきれいにされたのです。家はすっかりきれいになりました。
すると、そこに大家さんがいらっしゃったのです。大家さんはきれいになった部屋を見て、とてもうれそうに言いました。「この費用はわたしにださせてください」。
さて、ある方の家は、いわゆる「ゴミ屋敷」でした。万年床と言いますが、布団は重くてあがりませんでした。壁もドアも穴だらけ、取っ手は壊れてぶら下がっており、窓にガラスはなく、黒いごみ用の袋がはってありました。服も畳んだ形跡はなく・・・想像を絶するので細かい描写はさけようと思います。そこへ、「教会の壁貼り隊」がお弁当をもって出かけました。
さて、冬休み、教会へいっているその家の子供が寮からもどってきました。入るなり、「家、間違えたかな」ととても大喜びでした。友達を初めて家に呼べたとか・・・
クリスマスの話には、自分のうぬぼれ、高慢さを責められます。イエス様が御自身の民の所へこられた時、神殿でも、エルサレムでも、だれも迎えるものはなく、「羊飼い」と「東方の博士」のところへ行かれました。
イエス様は見捨てられて?
イエス様は、クリスチャンと言われる人々、神様の民のうちにいらっしゃるのではなく、戸の外に立ってたたいておいでになられます。 |
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| 16 おちこぼれ ID:zJloYh4k |
2008/11/29 08:30 |
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クリスマス その2
さて、クリスマスが近づくと、僕のお世話になったクリスチャンの方々は、毎年、乳児園にクリスマスケーキを届けに行かれます。
乳児園とは、3歳までの子供たちで、親がいなかったり、あるいは捨てられたり・・・した子供たちが保母さんの方々と一緒に生活している施設です。あんまり書くと、ちょっと悲しいのでやめときます。
話によると、保母さんの方々も休みを取れないことが多く、またこの時期の子供たちは、インフルエンザを初め、風邪をひいたり、保母さん方もかなり心を使う季節のようです。
さて、そこに贈るケーキは当然1個や2個ではありません。10数個?の大きなデコレーションケーキです。デパートで売っている最高級のイチゴをいっぱいにサンドし、また上にもいっぱいのせて、最上級のクリームいっぱいに飾った愛情あふれるケーキです。
それに加えて、手作りのクッキーをいっぱいに焼いて、それを手作りのかわいい袋に1人分ずつ詰めて、そして子供たち一人ひとりにクリスマスプレゼントをいっぱいに買って、乳児園の子供たちのところ行かれます。
ケーキは教会で作ることも多いのですが、あまりに多いので教会で生地だけ作り、各教会員のご家庭のオーブンで焼かれたりしました。
それに加えて、教会のクリスマスのために、同じようにケーキを作られたりしますので、日ごとの食事、また、集会、お祈りなどなどに加えて大忙しです。
乳児園には、クリスマスのほか、餅つき、木の葉の落ちる季節には清掃、枝の伸びる季節には剪定、バーべキュー大会などなどされていました。もちろんすべて無償のご奉仕でした。餅は、もちろんつきたてのお餅にすべて手作りのごまだれ、大根おろし、きなこ・・・・など5~7種類のたれがついてとってもおいしく、子供たちも大喜びです。
教会員の行かれる日は、とっても寒い、北風がビュービュー吹く日でも、「その時間だけ」小春日和のような陽射しが与えられ、主の祝福を思いながら、過ごします。
その乳児園の働きに、そのクリスチャンのお勤めになっている企業もまた企業として参加されるようになり、金融の最先端での、僕とは「ケタが5~7ケタぐらい」違う仕事の会社ですが、社員の方々も大勢協力されるようになっています。社長さん自ら、アイスクリームを乳児園で作られて、子供たちに渡されます。
しかし、そのクリスチャンの方はこう話していました。
「でもね、わたしたちがいくら一生懸命やったとしても・・・子供たちが欲しいものは、お母さんなのよ・・・」
ある他の乳児園で子供たちに何が欲しいか聞いたそうです。一番は、「お母さん」でした。
ある子は、こう言ったそうです。「どんなに、悪いお母さんでもいいから、お母さんに会いたいの」
クリスマスの季節ですが、
「世の友 われらを捨て去る時も、祈りに応えていたわりたもう」
「この人もう無理だよ」「あの人は変わらないよ」「正直いって、絶望だと思ったよ」――そんなことを言われてきた「おちこぼれ」。
世の中のすべての人が、見捨てて当然の人間、罪のない他世界の人々、あるいは天使の方々でさえ、あきれ返る人間だけど・・・。
宇宙でたった1人、手と足に釘打たれてとりなし、愛したもう主イエス様の、その御顔を仰ぎ見、賛美歌をもってその驚くべき愛を褒め称えたいと願っています。 |
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| 17 おちこぼれ ID:clhtCnFw |
2008/12/08 00:44 |
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「信仰の戦いを通ってこられた方々」
『サタンは「われらの兄弟らを訴える者」である。人々に神様の民の誤りや欠点を見つけさせ、それを注目の的にする一方、彼らの善行は何も言わずに見過ごしてしまわせることが、サタンの精神である。』
ということで、小さな証(7)は神様の民の善行について書いていこうと思っています。
信仰の大先輩の方々に、「おちこぼれ」が小さな証をすると、とっても勉強になることがあります。「それ、毎日料理つくるの」「それは大変なことだよ」「自分たちで費用だしたの?」「10年間もずっと?」
アメリカに行った時も、ある長老さんが立ち上がって叫んだことがあります。「この人たちは、全員自費で日本から来たんだよ」。
他の方々が「あはは、あはは」と笑う証の時も、真剣に聞かれます。「これはすごいことだよ」と。
皆さん、ご自身でも財産をかけられたり、ご自身で集会をされたり、家庭を解放されたり、食事を作られたり、伝道をされたり、信仰のため、迫害を受けたりされたりしておられるので、
「わかるのです」
「おちこぼれ」も表面は笑顔で(多分)、証をしていて、ふと、じーんと心で泣いている瞬間です。
その方たちは、決して冷やかすような態度をとられません。ましてや、ふんぞり返っている様子はまったくありませんし、裁いているような空気もまったくありません。白髪で、お体は弱っておられると思いますが、身を乗り出してじっときいてくださいます。人生の様々な苦労や、悲しみ、戦い、などなどと通ってこられたんだろうなあ、と思います。
そのような方々は、心に強く残っています。ほとんどが白髪の方々ですが、信仰はその人から輝いているのが、「聞く姿勢」、握手する手にも現れています。
その方々のすごいところは、証を聞くとすぐに他の人に分け与えられます。「この証すごいよ」と。僕自身もいわゆる「聖書による裁きあい」「批評」「中傷」「冷笑」などなどを通ってきたので、ある程度「当然」と思って話しています。しかし、彼らは証を聞くとそれをすぐに他の人にも分け与えるのです。
ほとんどの方々は、教会の長老さんをしておられます。
「白髪の人の前では、あなたがたは起立しなければならない」とは本当だな、と思います。教会が、栄えていても、揺れていても、試練の時も、もしかしたら失敗のたくさんあったかも知れないけれど、通り抜けてきた貴重な生き証人の方々です。 |
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| 18 おちこぼれ ID:clhtCnFw |
2008/12/08 00:57 |
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「反対している人々」
「おちこぼれ」の記憶が正しければですが、アメリカで奴隷解放をした、リンカーン大統領の側近に陸軍の司令官がいたそうです。その陸軍司令官はリンカーンの悪口ばかりいったそうです。たしか、大統領を「猿」とまで呼んでいたそうです。
そんな彼を、リンカーンはいつも自分のそばにおいていたそうです。
そしてあの日、リンカーンが暗殺されます。その時、撃たれた大統領にすぐに駆け寄ったのは、この司令官でした。リンカーンの悪口ばかり言ってきた彼は、大統領のそばに立ち、言ったそうです。
「ここに偉大な大統領が横たわっている」
ある教会で2人の青年牧師たちが、「信仰による義」を説いて、一大リバイバルを起こした時がありました。その時、大反対をしたのが、教会の長年のベテランの方々でした。
「協力していたら、今頃みんなで、天国に入っていた」と言われたぐらいの素晴らしいリバイバルでした。しかし、協力すべき人々の多くが大反対をしたのです。
ある敬虔なクリスチャンの方が、「信仰による義」を受け入れるように何度も何度も嘆願しましたが、ベテランの方々は聞きいれませんでした。返ってそのクリスチャンの方もまた、遠い外国に、飛ばされてしまいます。
結局、リバイバルは未完成のままで終わってしまいました。
何年か過ぎてベテランの長老さんたちが、「わたしたちは間違っていた」と悔い改めます。
この記録を読んだ時、「えー、今頃!もう遅いよ、悪魔に用いられただけじゃない」なんて僕は思っていました。
ところが、先ほどの外国に飛ばされたクリスチャンの方は、「彼らを優遇しよう」「もう以前の彼ではない」と文章を書かれます。その中で最も反対した1人の方が、教会から離れて、そして再び教会に戻り、教会の機関紙の編集長の筆頭に名前があがった時、涙を流して喜ばれたと記録されています。
生きているうちに、喜びを与える人になりたいものです。
先ほどの敬虔なクリスチャンの方にさえ、大反対してまわりに悪口ばかり言っていた方がいました。
長年の主の御奉仕を終えられ、このクリスチャンの方が亡くなられたとき、彼女を批判し、悪口ばかり言っていたこの方が、泣き叫んだと記録されています。
「ああ、1人の敬虔なクリスチャンの方が亡くなられた」と。
「おちこぼれ」もまた・・・キリスト教に反対してきた1人なのです。 |
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| 19 おちこぼれ ID:clhtCnFw |
2008/12/08 13:16 |
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「クリスマス その3」
さて、教会でのクリスマスはとっても楽しい思い出です。一年に一度だけ出てくる、綺麗に整理整頓された聖誕劇の衣装、かわいい子羊の人形、飼い葉桶、1人分としてはとっても大きい最高級の材料をもって作られたクリスマスケーキ、一年に一度だけ出されるクリスタル?グラスにつがれた溢れるほどのぶどうシュース。クリスマスの特別の証、劇、聖歌、ちまたのけばけばしさのない清楚なクリスマスツリー、教会を囲む品のよいライトアップ。また、主イエス様のご誕生を歌う、涙溢れる賛美歌・・・。
さて、おちこぼれを育てて下さった教会では、聖誕劇の衣装もすべて手作りでした。それらが作られる時にもまた証がたくさんありました。毎年、丁寧にしまわれていて20年たった今でも新品そのものだと思います。「心」をとっても大切にする教会でした。
さて、そこにもう1つ手作りの品物があります。「馬ぶね」です。これは、一番最初に書いてある「小さな証」の中の「感化院」に投げこまられて「同性愛」を覚え、そこで1人のクリスチャンに出会い、挨拶から始まり、新聞配達をし、夜学に通い、一度教会から離れ、飲み屋のバーデンさんになり、暴力抗争で、釘のついている角材で頭を殴られて、また戻って生きて、また教会を飛び出して・・・・・・そして、今はクリスチャン女性と結婚し家庭を築いている「彼」の作ったものです。彼が教会を飛び出して15年以上、今でも決して忘れられない存在です。
また、聖誕劇のナレーションは信仰の先を行かれる方が、肺癌から声が出なくなり、ある一時期だけ声が出た時に吹き込まれたものです。
聖誕劇の中にも生きた証がいっぱいにちりばめられています。
さて、このような様々な「証になる」話もたくさんありますが、ある人にとってはごく普通の事でも、本人にとっては重大事な「小さな証」が多々あります。たとえば「お酒」。
「おちこぼれ」は教会に来る前からお酒もタバコもしませんでしたから、「お酒飲む」なんて聞くと初期の頃は拒絶反応、また少し経つと「劣等視」、もう少し経つと「許しの心?」などと「人を見下した」とんでもない歩みをしてきました。
しかし、「おちこぼれ」がたった1つ「話し方」すら自由に変えられない姿を見、ここでも罪しかできない罪人であることを知りました。
今は一見小さなことの思えることでも、一生懸命罪と戦おうとしている人々に「がんばろう!」と応援できる心になっています。
それは大争闘ですから・・「お酒」どころか、「ねたみ」「憎しみ」「許せない心」それは決してきれいごとではありません。その激しさは聖書に書いてあるとおりです。
さて、ガダラの狂人がイエス様のところへ来た時、彼らは彼らを支配している悪霊から解放されたい、とどれだけ願ったことでしょう。しかし、彼らが口を開くと「神の子よ、あなたはわたしどもとなんのかかわりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもをくるしめるのですか」という悪霊の言葉しか話せませんでした。
しかし、主イエス様は「心の叫び」をお聞きになり、悪霊を追い出されます。
すべてではないですが、心の声は結構短い場合が多いようです。「助けて!」とか「ありがとう!」とか・・・。
「祈りは罪を贖うものではありません。祈りそれ自体には、何の取りえも功績もありません。どのような美辞麗句を並べることができても、それは1つのきよい願いに比べることはできないのです。この上なく流暢な祈りも、心の本当の思いを表すものでなければ、むだな言葉に過ぎません。しかし信仰の祈りとは、真剣な心をもって捧げる祈りのことです。それはちょうど、かなえてもらえるものと信じてこの世の友人に好意を求めるのと同様に、心のささやかな願いを申し上げることなのです。神様は儀礼的な賛辞はもとめておられません。だが自分が罪人であることと、まったく無力であることを悟って、砕かれ和らげられた心の叫びは、言葉には表わされなくてもあふれる父なる神様の御元とに達するのです。」
主イエス様は言葉にならない「心の声を」お聞きになられる御方です。
その中には小さな証が輝いています。
クリスマスに初めて参加していたころの「おちこぼれ」、自分の罪との大争闘を演じていた時、それは見るに耐えない惨めな者でした。大きな集会で、他の方々が涼しい顔で座っている中、「自分だけ異常なんだ、自分だけ罪人なんだ」と一人で心の中で葛藤し、戦い、悩んでいた者です。
今、静かに神様の驚くべき恵みの大きさ、多さ、広さ、強さ、深さを思いながら、誰にも顔向けできない罪人ですが、主の憐れみの大きな御力を感じながら、証を書いています。
クリスマス、それは形のきらびやかさにあるのではなく、心の罪の嵐に悩む魂が、主イエス様の御言葉に接し、あの「罪との絶望的な戦い」に勝利が与えられるように天使の方々が遣わされて行く所に、本当のクリスマスがあるのだと信じています。
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| 20 おちこぼれ ID:hFlzX2zE |
2008/12/10 06:39 |
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「一番大切なもの」
ある教会の牧師さんはこういう方でした。「ヨブ記?あれは昔々の桃太郎、金太郎と同じだよ。僕は安息日も変えようとしている。しかし、十一献金だけはもってきなさい」
いわゆる洗礼前の勉強では、「三位一体、こんなこと信じられる?」
ある方が自然食品店のお店を開放して牧師さんを呼んで集会をされていたのですが、その牧師はそのお店に集まっている方々に、「ここのお店のものも疑ってかからないと」と言い、ある時先生が遅刻されたので賛美歌を歌いながら待っていると「誰の許可を得て、賛美歌を歌っているんだ!」とかんかんに怒られる。
「僕は按手礼を受けた牧師だ、僕がいないと救われない。バブテスマも受けられない。僕の許可がないと教会の学校にも入れない」
またあるとき手を振りながら「バビロンからきましたよ」と入ってくる、といった状態でした。
牧師さんが特別賛美歌をされて、信者さんがそのお礼に一万円わたされるとおっしゃいます。「これっぽっちか」
ある牧師さんは「教会は会社です。霊的とか、信仰とはなくなるんです」「信徒との関わりは一切もちません」「波風立てないで、停年を迎えたい」。
その牧師がたに信仰の先輩の方はいつでも心低くされました。「お金が好きな先生だから」と何かされるときにも多額のお礼をされました。
そしてその牧師さんが少しずつ変化していかれるのをご覧になり、おっしゃいます。「最近説教が良くなった」と。その牧師さんが別の教会に移られるとき、牧師さんが「ようやくわかりました」と気づかれて移っていかれました。
聖書の訳の是非の論議がされていた時、ある牧師さんが反対の訳を使っている教会に対し、「教会をぶっ潰してやる」とおっしゃいました。しかし、その先生がその後失脚された時、その教会の信仰の先輩の方はすぐに「先生を礼拝説教によびましょう」とおっしゃいました。
クリスチャンは一人一人の救いを心から願っていらっしゃいます。 |
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| 21 おちこぼれ ID:.OI/Ff8o |
2008/12/16 04:20 |
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「最後に勝利する人々」
「わが、僕ダビデのために」。旧約聖書にたくさん出てくる言葉です。イエス様を別にして世界で最も知恵のあった、また栄耀栄華の絶頂であった「わが僕ソロモンのために」でもなく・・・、どうしてだろう・・・。
「もし、神様の子らが始めから終わりを見通すことができ、神様の共労者として自分の果たしている栄光ある目的を認めることが出来たら、彼らは神様が導かれる以外の道を決して選ばないであろう。天に移されたエノクも、火の車で天へのぼったエリヤも、ただひとり牢獄の中で殺されたバプテスマのヨハネより偉大であったのでもなければ、彼より尊ばれたのではない。『あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている』。天が人に与えることのできるすべての賜物の中で、キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、最高の栄誉である」
僕がほんのちょっぴりですが、大勢のクリスチャンが次々集まる教会にいたため、多くの方々にお会いし、その人生を見てきました。聖書の御言葉を霊的にすらすら話す青年、いわゆる異言を話す人々、人の欠点を見つける天才的な人、いわゆる霊感の強い人、超歌のうまい人などなど・・・。
また、病弱で一生独身のまま伝道師として働かれた女性、同じくお年を召されてもなお文書伝道をされてこられた方、イエス様を信じて主婦としてご主人を支え、若くしてお子さんを残し癌で亡くなられた方、軍部にも屈せずその後の平和な時代に至り、90歳を超えてなおイエス様を証し続けられた先生、病気の痛みに耐えながら、迫害をうけながら、全財産はたきながら、給料ももらわず証してこられた方・・・。
今ではは、マルティン・ルターさん、カルバンさん、ウェスレー兄弟、ヨハンフスさん、こういう方々のことでさえ、上げ足とる人々までいるのを見てびっくりです。
しかし、ふと彼らの通った「苦しみ」を思うと、何故か涙が溢れてきます。
天国ではこの地上で何の栄誉も、賞賛も、冠も、勲章ももらわなかった人々が、主イエス様から栄光の冠をいただいているのを見ると思っています。
もしかすると?地上で報いを受けてしまった人は・・・。
「主のご承認は大きな事を成し遂げたとか、多くのものを得たということで与えられるのではなく、わずかなことに忠実であったということで与えられる。神様が重要視されることは、我々が立派な結果に達することではなく、我々の行動する動機である。神様は成し遂げた働きの量よりも、善意と忠実さを賞賛される」
老牧師さんがこんな話をされていました。「マルティンルターさんは地動説に反対しました。それは、科学的根拠ではなく・・・、神様の御子が宇宙の中心である地球にではなく、宇宙の片隅である地球に来られるなんて冒涜だと考えたのです」
ルターさんは、本当にイエス様を愛していらっしゃったんだなと思いました。
「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」
「神様の御前に価値があるのは、成し遂げた働きの量や目に見える結果などではなくて、働きをなした精神である」
子供でもそうらしいのです。ヤラベアム王の子供が病気になり、亡くなられます。その時の聖句は、「あなたの足が町にはいる時に、子どもは死にます。そしてイスラエルは皆、彼のために悲しんで彼を葬るでしょう。ヤラベアムに属する者は、ただ彼だけ墓に葬られるでしょう。ヤラベアムの家のうちで、彼はイスラエルの神様、主にむかって良い思いをいただいていたからです」。 |
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| 22 おちこぼれ ID:pVj9.qeY |
2008/12/28 03:53 |
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「弱い人」
「僕は強いから、神様は必要じゃない、君は弱いから神様が必要だ」?とか、「弱い人は神様の所へいく」といった言葉を聞くと???、「おちこぼれ」の出会ったクリスチャンの方々は、決して「弱い」方々ではありませんでした。その代わり、強いていうならば、「心の砕かれた人々」「人の痛みを思いやられる人々」「悲しみを良く知っている人々」でした。
挫折や、涙を知らない人々と、一緒に仕事をするのはかなり薄っぺらな時間になってしまします。「貧しい人々がパンが食べられないなら、ケーキを食べればいいじゃないの」といったお姫様ではないですが、実際に痛まないとわからない事ってたくさんあると思います。
「わたし、罪がわからない」と言われると・・・、「髪の毛ほども罪だらけのおちこぼれ」はもう言葉がないのですが、実際、清く生きてきた方々はいらっしゃいます。無理もありません。
「清くない食べ物は一度も食べたことのない」また、3回しかイエス様を拒んだことのないのに一生死ぬまで悔い続けたペテロさん。「律法には落ち度のない」パウロさん。モーセさんが泣くなられた時30日も泣き明かした心のあたたかいイスラエルの民。ダビデさんが「ベツレヘムの水がのみたい」といっただけで、たった1杯の水のため、強力な敵の軍隊がいる町をたった3人で突き破り、ダビデさんに水を持ってきた勇士達。やもめさんなのに、自分の生活費?全部をささげてしまった方。エルサレム中に教えを氾濫させた使徒の方々。ゲラサの町中の人々をイエス様に導いた方々。友達のために、人の屋根をはいでしまった人々。病気になっても主を証続けた方。王様の命令にそむいて、イスラエルの赤ちゃんを助けた人々。
などなど、すごい方々です。この心のあたたかさはどこから来るのか・・・と思えるほど、「熱く燃えている方々です」。
聖書の時代なら、ともかく今の時代には・・・なんて事はありません。
少し前には、火あぶりになりながら、賛美歌を歌った方々。たった一人で、王様でさえ恐れていた当時強大な権力を持っていたローマ・カトリックと戦った人々(実際には戦ったのではなくて、聖書を説いていたら、迫害されただけなのですが)。財産をはたいて、聖書配布、福音の宣教された方々は数知れず、大日本帝国が救われるようにと、あの時代に日本に宣教し、神社を礼拝しないため、牢獄にいれられ、目がみえなくなったり、拷問を受けたり、迫害を受けたのにもかかわらず、終戦後、また日本に宣教に来られた方々。食人部族からキリスト教に救われた人々。貧しい家庭で、ほんのわずかなお金を集めて、宣教師たちに援助した少女たち。迫害されても、相手の救いを願っていく人々。1人のクリスチャンが病気で死に掛けた時、その方の国中の教会員が祈った話。借金しても?癌になっても、身体中痛んでも、歩けなくなっても、目が見えなくなっても福音を伝えた人。自分の救命具を人に与えて死んでいった方々。自分は死ぬのに最後まで笑顔で人を励ました少女。睡眠時間1~2,3~4時間で働き、教会を支えた方々。これで「弱いひと」なんてうそです。
ようし、「おちこぼれ」も才能を生かして、あの人を救おう???何て思っていると、惨めな敗北に・・・。倒れ伏した時、粉々に砕かれた時、「神様の業が始まる」そうなのです。すべての良き業が「イエス様にあってなされた」ことが全ての人にわかるようになっているようです。 |
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| 23 おちこぼれ ID:pVj9.qeY |
2008/12/28 03:59 |
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「自信過剰」
さて、ある所に超優秀な方がいらっしゃいました。ハンサムで、試験もみんなが必死で勉強する中、遊びながら?一番で通れる・・・。人から教わらなくても盗んで覚える。きれい好きで清潔、仕事は正確で速い・・・。魚のさばき方から編み物まで女性顔負け・・・。
そのため、「わたしがいないと会社は駄目になる」とどうしも教会には時々しかこられませんでした。奥さんも、娘さんも本当に素晴らしいクリスチャン、しかし、ご主人は正義感が強く、会社に打ち込んでいらっしゃいました。
さて、ある火曜日の集会でした。この集会は、その奥さんが「今まで、イエス様からたくさんのお恵みをいただいてきた。その感謝の心」で聖別した集会でした。そこへ、電話がかかってきます。「ご主人がトラックの荷台から落ちました」との電話・・・。集会にいた皆さんは「早く病院へ」と奥さんに話しましたが、奥さんは「病院にはお医者さんと看護婦さんがいる。もし、わたしがいってなんとかなるのであれば、すぐにでも行きます。しかし、この集会はイエス様にお捧げした集会ですから」と集会が終わるまで、そこにいらしたのです。
怪我は、医師の診断よりはるかに早く全治3ヶ月の腰の骨折が一ヶ月で退院されます。
さて、その1ヶ月の間、ギブスをつけベッドから離れられませんでした。
「あ、わたしがいなくても会社は回っていくんだ」と気付かれたご主人。「わたしが、ちゃんと面倒見るから」と1人娘さんの言葉もあり、退院後、会社を辞められ、洗礼を受けられ、教会に献身されます。そして、教会の長老さんとして、若い人々、身寄りのない方々の住まいや、生活のこと、畑仕事、聖書研究などなど人々に尽くされています。
ある時、教会で伝道旅行のため、大型バスの運転手が必要になりました。「よし、とってくる」教習所へ行かれます。最初の適正試験は「自信過剰」、いくらも練習しないうちから「簡単、とってくるから」と免許書センターへ実地試験に・・・、しかし落ちて帰ってこられます。
奥さんが「お祈りしたの?」と聞かれると「いや、しなかった」。そして、次の日???、今度はお祈りして免許証センターへ。合格して帰ってこられました。
みんなからお父さんのように慕われている、とっても柔和な長老さんになられました。 |
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| 24 おちこぼれ ID:AtP3WImQ |
2008/12/29 06:16 |
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自信過剰 その2
さて、小さな証(7)の続きです。
高校時代、「おちこぼれ」は野心満々でした。医者になろうか、あるいは科学者になろうか、発明家になろうか???・・・それこそ自信過剰症末期でした。
さて、理工学部の説明会に高校の級友とでかけた時です。友達が時間があるので「ちょっとゲームセンターよっていくよ」と言いました。多少、聖書かじりかけ?の時でしたので、「そうか、僕はやらないけれど、一緒に行くよ」と言います。
ゲームセンターの中に入って、「こういうところに悪魔はいるんだろうなあ」なんて思いながら、デカルトかなんかの哲学書?を読んでいました。(はっきり言って本の内容はまったく何を言っているのかわかりませんでした。)
さて、友達のゲームセンターが終わり、道路に出た途端、身体から力が抜けました。初めての経験でしたし、その抜け方がかなりはげしかったのでちょっと対応に苦慮しました。友達に「悪い、身体の調子が悪いので急行で先に行っててくれ、僕は鈍行でいくから」と先に行っていただきました。もう、はうようにして見学会を終えたのを覚えています。
さあ、それからもう座っているだけで息が苦しい、お腹が痛い、何年も学校を休んだことの無いことが自慢だったのに、休みました。(今思えばくだらないですね。)
そして、一時学校に行けるようになったのですが、ある帰りの電車で目の前が真っ白に・・・「あれ、目がつかれたのかな?」と思い目を閉じて、また開けると治りました。「目が疲れたんだ」と居眠りをしました。さて、駅について目を開けると、もう見えませんでした。視野の輪郭だけ見えるといった状態でした。
初めは、両目やられたと思っていましたが、診断の結果は左目眼底出血、当時の年齢からするととっても珍しい状況でした。それに加えて極度の貧血・・・座っていると非常に苦しい状況が続きました。病院に行って、「脳腫瘍か、奇病か」と診断がつきませんでした。
「こんな体力じゃ、理工学部は無理だ・・・」そして半分の心では、「理工学部だとスケジュールの関係で安息日は守れないな」と思っていました。
そして、スケジュールの関係で法学部へ・・・。そして、文字通り、手すりにつたいながら這うようにして、教会の講演会に通ったのでした。
そして、このまるっきり人生設計に入っていない所で、進化論で小さいころから染みこまされた心を、安息日問題や、様々な不思議な出来事で、「人間をはるかに超えた創造主の御力を」実体験で教わることになります。
今、病院で医療機器に携わる仕事についていますが、不思議な事に「あなたは、この病院に何か特別な役割があるためにきたのだと思う」と周りの人々に言われています。
この「おちこぼれ」が???
若い人に、「主は大望をいだくな、と仰せになられない」「何か大きな善事をしたいという願望を打ち砕いてはならない」と教わってきた「おちこぼれ」ですが。
BOYS, BE AMBITIOUS IN CHRIST.
この IN CHRIST に大変大きな鍵があります。
こんな「落ちこぼれ」、残りの人生、教会の隅で静かに座っていればいいや、なんて思っていますが、どうやらイエス様が何か戸を叩いておいでになられるかのようです。「あなたにやってほしいことがある」と・・・。 |
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| 25 おちこぼれ ID:DykPVGbs |
2009/01/05 17:03 |
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「お正月」
明けましておめでとうございます、と元旦礼拝に行かれた方も多いと思います。
クリスマスのご奉仕を終え、休む間もなく、おせち料理を作り、近隣の困っている方々、病気で教会に来られない方々に、配られたり、日頃献身している教会員やそのご家族のため、手作りのお節料理、あるいは、おしるこ、お雑煮、を準備され、元旦の日、皆さんにふるまわれた方々もいらっしゃると思います。
また、教会の子ども達のために、お年玉を準備されたりされた方、教会をお正月の雰囲気にされるため、ご奉仕された方々もいらっしゃるでしょう。
お正月は、旧約聖書にも記されており、過ぎ越しのお祭りの種入れぬパン、苦菜、羊は変化して、お餅や小松菜といったお雑煮になったと聞いたこともあります。神社の鴨居は過ぎ越しの時、子羊の血をぬったところから、来ているという説も。また、神社の、手洗い、香、奥殿など、イスラエルの聖所のつくりと酷似していることなど。はるかに詳しくご存知の方もいらっしゃるとは思います。しかし、当然キリスト教ではないので、鏡餅はサタンの使い「へびがとぐろを巻く姿」を現しており、しめなわも蛇とうろこを表わしている、霊柩車の周りには、サタンの象徴「竜」が描かれている。など、も色濃く残っています。
元旦、教会に来て、礼拝させていただくのは特権です。なにせ、かなり多くの人々がいわゆる「元朝参り」のため、神社などに行くわけです。神社に行かない、という理由だけで、ご主人やご家族から、不思議なくらいいじめられた方々もいらっしゃると思います。中には、会社のいわゆる元旦の祈願などで、葛藤された方々もいらっしゃるでしょう。結構、信教の自由とはいいつつ、「御守り」を強要されたり、戦っていらっしゃる方もおられると思います。しかし、僕の知っている方々も、会社などで、安息日などを守り、会社から「御守り」を持つように言われたりするのを断ったりして、「筋の通っている人」と高く評価していただいています。
「何があっても、すべてを失ってもイエス様に忠誠と人生決めてしまう」とかなり楽になります。そして、「主イエス様をいつでも思っていなさい。これがわたしの福音である」との御言葉は測り知れない力を持っています。
「障害、困難、迫害が来るのは、『のろい』としてではなく、生涯最高の祝福のため」です。さまざまな困難を乗越えて来られた方々は、上記のようなことを通っていらっしゃるので「かなり強い」。かえって素晴らしい伝道の機会に変えてしまっています。
福音の大宣教命令が発せられていますので、「時が良くても、悪くても」必ず証の機会、伝道の機会が来ますね。イエス様からいただく最高の祝福を証できたら、と思います。
一生イエス様の愛、天使の方々の御守り、今も生きておられる神様、イエス様の奇跡、永遠の命、喜びあふれる生活、むなしさのない人生、「見えない世界の現実性」を知らない人々に「良きおとずれ」が伝えられます。そして、多くの人々から、感動と感謝の言葉をいただきます。
しかし、時が良くても、悪くても・・・祝福いっぱいの時にも証をし、「おっと」と思われるときにも、同じような境遇にある人々を助ける心をいただき、御心ならば、賛美歌にあるとおり、「積もりに積もれる御慈しみを この世に、あの世に歌い続け」たいと思っています。
えー、「時が悪くても」証するのはいやだーと思われる方もいらっしゃるとは思いますが、人間の心にはそのような心しかありません。
主イエス様がお支えになられるのです。そして、もっと聖書にすがりつくようになり、もっと祈り、とっても大きな最高の祝福に変わります。また主イエス様が、心を喜びで満たされるのです。「人生の最も美しく輝く瞬間」に変えてくださいます。
それはともかく、困難のないときこそ、また「証した後」、「何もしていない時」あるいは祝福されている時も「結構危険」、初代教会はそれで敗北していますし、ダビデさんは最大の勝利を経験している時に、最も屈辱的敗北をきしています。
「時が良くても悪くても」宣べ伝えなさい、はとっても大きな福音です。
もちろん、熟練したクリスチャン、人の心を熟知し、「単に覚えた聖句や教理を話すのではなく」、言葉で無く行動で証をし、行動で御言葉をの宣べ伝え、快活に、人に仕え、誰よりも働き、品性が整っていれば、会社で反対されることも少ない、あるいは「ない」いえ「会社の宝物」でしょう。
しかし、仮にそうでなくて、誤解を受けてしまう場合でも、「おちこぼれ」は責められないのです。彼らは精一杯なのですから・・・。 |
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| 26 おちこぼれ ID:NEz3oIGg |
2009/01/12 06:12 |
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「心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだしく悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか」
「私たちもニコデモのように、自分の生活は正しくて道徳的にも間違っていないとうぬぼれ、ふつうの罪人のように、神様の前にへりくだる必要がないと考えているかもしれませんが、ひとたびキリストの光が心の中にさしこむとき、自分たちがどんなに汚れているかわかるのです。」
「神様の栄光のただ一筋でも、あるいはキリストの純潔のひらめきでも、人の心に差し込むとき、心の汚れの一つ一つが痛々しいまでに、はっきりと見せられ、人の性質の欠点があますところなく示されるのです。」(キリストへの道)
う~ん、ニコデモさんなんてほど遠い、しかし、「痛々しいまでに、はっきりと見せられ」というところは本当だな、しかもかなり痛々しい・・・。
罪のあの絶望的な闇にいた時は、本当にそう思いました。「このまま、この状態のまま生きていくのだろうか。じゃあ、生きていくだけ、周りの害・・・罪を重ねるだけ」と本気で思いました。
しかし、心の片隅で、「待てよ、もしかしたら、間違っている道にはいっていないのではないか?」と思いがかすっていました。なぜなら、心の状態が、聖書や上の「キリストへの道」など証の本の通りだったからです。「万が一、いや百億が一、聖霊様が罪を教えてくださっているかも・・・」。
中には、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」。うん、その通りだ。聖書は正しいな。よし、御言葉に従おう!とピッと意志を向けてしまった証もあります。
大変申し訳ないですが、ジョンバニヤンの「罪人の頭の上に溢れる恩寵」など読んでいくと、著者が自分の罪に真剣に悩んでいる様子が描かれており、器は全然違うけど、悩みだけは似ているかな、と思いました。マルティンルターさん、ウェスレー兄弟などなど、罪に対しては相当悩んでいらっしゃるようです。(僕の罪とは程遠いだろうなあとは思いつつ・・・)
すべての回答は、聖書、そして信仰による義を説いた、信仰の書物があるので無敵の防壁です。そして、もう一つが「信仰の証」です。
「つま先から、全身で悔い改めるのよ」。「頭だけ」で「お詫びしていても」まるっきり空回りでした。
「わたしたちの罪は髪の毛ほどもあるかもしれないけれど、三つ清められたら、三つだけ感謝じゃないの」。悔い改めとは、心が自分自身からイエス様へ向き直ることですから、この証に相当助けられました。
「決めてしまうことよ」。なにがあってもイエス様、と決めてしまうと心は相当楽になります。迷う必要がないからです。
水に溺れている人がいたら、「助けたら偽善者じゃないかな」なんて思っていたら、人は死んでしまいます。さっさと助ける。
くだらないこと?かもしれませんが、電車で席を譲るときなど、真剣に?悩んだことがあります。(ごめんなさい、くだらないこと、馬鹿だと思っていください。しかし当時はかなり真剣でした。)
「創られた者は、創った御方に従う」、「聖書に書いてあるから」やる、と決める。「天国に入りたいからやっているのかな、エゴイズムかな」などなど悩むときがあったので、「書いてあるからやる」と決めてしまうと、かなり行動がはっきりします。
心の中で、御言葉を、「1000回も2000回もくり返すのよ」。御言葉は鳥が来て食べてしまうので、心の中でくり返さないと、消えてしまいます。
「信仰の先輩の皆さん、普通に仕事したり、奉仕されていらしたり、家事をされていらっしゃるようだけど、陰でいろいろされていらっしゃったんだ」と目が覚めたように思い出しました。
「イエス様お助けください、と祈るのよ」
「『主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです』、この叫びをあげて顧みられない魂はない」
「罪の思いは切ってしまう」。たたき切るといってもいいかも。御言葉でいうと、「霊によって肉の思いを殺してしまう」になるのですが、霊って?に悩んでしまうので、「聖霊様は御言葉なのよ」とかなりわかりやすく教えていただきました。
すべての誘惑に対する戦いは、天使の方々も記録しておられるそうです。
「悪魔の嫌がる」ことをする。悪魔の嫌なこと、「イエス様の御名前」「感謝」「悔いる心」。
ついでにお化け屋敷を想像すれば、ほこりがたまっていたり、時計が傾いていたり・・・。掃除、整理整頓などもかなり助けられます。
こららの「証」はむなしい言葉だとは思っていません。罪との大争闘をくぐり抜けて、激しい葛藤と悩み、絶望や苦しみの中から、つかんできた尊い光です。 |
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| 27 おちこぼれ ID:uD7GLeDE |
2009/01/13 11:48 |
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「励ましの証」~その1~
罪との戦いにおいてこんな証に励ましをいただきました。
「義認というのは義と宣言される事で・・・信仰によって義とせられるというのは神様の言葉によって義とせられる事です。神様の言葉が発せられると、何でも言われた通りになってしまいます。・・イエスキリスト様によって語られる神様の言葉は、それが語られる以前には世に存在しなかった物を存在させてしまうのです。人間の内には義なるものはありません。・・・しかし神様は人間の上に義を宣言させる為にキリストをお立てになりました。キリストが言葉を語られたので、それを受け入れる者にはそれだけで何もなかった彼の内に義が現れるのです。・・・信仰によって受け入れられた神様の言葉は以前は何もなかった人間の内に、その生活において義を作り出します。」
「人間は信仰によって、つまり神様の御言葉に頼ることによって義と造り変えられるだけでなく、造り変えられたのと、同じ方法で生き続けるのであり、・・・同じ経験を重ねるのです。」
「神様の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”、“この場で”与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純なことです。」
「私も失望落胆と疑いの日々を経験しましたが、それはもはや過ぎ去った事を感謝します。私も他の人々と同じように一生懸命主に仕えようと試みました。が、失意の内にその努力を中断し、『無理だ、私には出来ない』と独白せざるを得ませんでした。それは私自身の弱さを思い知らされたからで、私の眼に正しく見える人々や、聖書に出てくるかつての聖人たちは、私とは違っていたから正しい事ができたのだとしか思えませんでした。私は多くの残念な経験を通して、自分には悪を行うことしかできないのを知りました・・。
ここで1つ質問をしたいと思いますが、もしイエスキリスト様の・・この地上での生活が単なる演技にすぎなかったとしたら、どこに望みがあるでしょう。・・彼は『罪は犯されなかったが、我々と同じように試みられた』とあります。あまりの苦悩に血のような汗がその顔からしたたり落ちたとあります。しかし、もしこれらが見せ掛けで演技だったとすれば、-もしそれらの戦いが本物ではなく、彼が誘惑を何も感じておらず、単に祈る真似をしていただけなら、これらは私にとって何の益があるというのでしょうか・・・。
しかし、・・・決して私が耐えることの出来ない経験を耐え、一生かかっても私自身の力では勝利できない事に勝利された御方がおられる。私個人のどんな誘惑よりも激しい誘惑を経験され、あらゆる点においてわたしと同じでありながら、かえってわたしより困難な境遇におかれ、肉体を通してサタンがしかけるすべての攻撃にさらされ、なおかつ罪を犯されなかった御方がおられるからこそ、私は心から喜ぶことができるのです。」
「ある人はこう言うかもしれません。『これは私にとって何の慰めにもならない。正直に言って私には模範が与えられても、それに従えない。何故なら私はキリスト様が持っていた力を持っていないのだから。主は地上においても神様であられたが、私は人間に過ぎない』しかし、あなたが求めさえすれば彼の持っておられた力にあずかる事ができるのです。『彼自身弱さを身に負うて』おられたにもかかわらず、『罪は犯されなかった』のです。ですから、疲れた、弱い、罪に苦しむ魂は希望を持ちましょう。助けを必要としている時にそれが必ず与えられる『恵みの座に』『はばかる事なく』近づきましょう。主は『私たちの弱さを思いやる事ができる』のですから。」
「人間が悔い改めて神様の御霊の下にある時、それは肉とその傾向や欲望から分離できるという事ではありません。・・・否、以前と同じく堕落した罪深い肉を持っていますが、もはやその人はこれらの奴隷ではないという事なのです。彼は傾向や欲望といった肉の支配から解かれ、聖霊の支配に服するのです。今やその人は肉に勝利し、肉を十字架につけ、肉を抑え続ける力に支配されるのです。・・肉自体が聖霊による神様の力の支配下につながれるのですべての悪は根元から断たれ、生活の内に表されなくなります。」
「罪の増し加わったところには恵みはそれ以上に満ちあふれた。それは(原語訳)罪が支配するに至ったように恵みをまた義によって支配し、わたしたちの主イエスキリストにより永遠のいのちを得させる為である。」(ローマ人への手紙5章220、21)
「恵みが支配する時、悪を行うよりも善を行う方がたやすい・・・というのがその比較です。お気づきになりましたか?罪が支配するに至ったように、恵みをまた支配するのです。罪が支配している時には恵みを締め出し、神様がお与えになる力を全く寄せつけないようにするのですが、一旦、罪の力が破られて恵みが支配するとそれは罪を追い出し、罪の力を残らず撃退するわけです。ですから罪の支配のもとに善より悪を行うのがたやすいのと全く同じように、恵みの支配下においては悪を行うより、善を行うほうがたやすいのです。」
「もし恵みに罪以上の力がなければ、罪から救われるのは不可能ですから、罪からの救いは恵みに罪以上の力があるか否かにかかっているのです。・・・昔から人間にとって善を行うのは非常な努力を要してきました。これは人間が生まれつき罪の力の絶対的な支配に服している為です。そしてその支配が続く限り、人間が知っている、そして欲している善は行う事が困難どころか、全く不可能なのです。しかしそれ以上の力が支配するなら、先の力に服していた以上にその力に服することがたやすいのは、自明の理ではありませんか。」
「新生すると古い性質に対しはるかに優勢な立場になります。・・・神様の相続にあずかる者は地上の両親よりも天の父が偉大であるように、遺伝によって受けた悪への傾向よりも義を行わせる力の方が、彼の内に強く働きかけるのです。」
「ここに例外はありません。罪の定めが全ての人に臨んだように、義認は全ての人に及ぶのです。主は全人類の為に御自分を与えられました。いえ、あらゆる人、-人々に御自分をお与えになったのです。無償の賜物はすべての人のものとなりました。それが何の価もいらない賜物であるという事自体、それが例外なく与えられるのを証明しています。もしそれが何らかの特別な資格を有する者に与えられるのであれば、もうそれは賜物とは呼べません。ですからキリストの義と生命の賜物が地上のすべての人に与えられたというのは事実であり、聖書が明らかにそう証言しています。もし本人が拒みさえしなければ、今までに生を受けたどんな人間も救われてならない理由はないのです。多くの人々はこんなに気前良く与えられている賜物を受けようともしないのです。」
などなど、たくさんありますが・・・かなり励ましをいただきました。 |
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| 28 おちこぼれ ID:I4MSTMsE |
2009/01/15 18:24 |
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励ましの証 ~その2~
「われわれの義はキリストの内にのみ見出される」
「人間は、そして人間のなす行為はそれがどんなもので誰であろうと、信仰のみによって義とされます。律法は人間をその仕業に応じて裁きますが、律法の標準は途方もなく高いので、どんな人間であってもそれに達する事はできません。だからこそ仲保者を必要とするのであって、その御方によって義とせられねばならないのです。・・・この世で人間が必要としているのはただ一つ、義とせられることです。そして“義とする”というのは実際的な行為で、単なる理論ではありません。・・・我々は過去の不完全な行いを完全としていただくのに、キリスト様の義を必要としているのと同じく、今、義とされるのにもそれを必要とするのです。」
「どうして信仰によって義とされるという教理が、神様の律法を軽視させると考える必要があるのでしょうか。義とせられるというのは心に律法が確立されることです。・・・キリスト様は御自分の義を与え、罪を取り除き、御自分の義をそこに据えられます。これはその人を全く変えてしまうのです。」
「ヘブル3:1にはクリスチャンがしなければならない全ての事を一言で言い表した勧告があります。『そこで天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ、あなたがたは私たちが告白する信仰の使者、また大祭司なるイエス様を思いみるべきである。』 これを聖書の命令通り実行すれば、つまりキリスト様がどんな御方であるかの真の姿をいつも理知的に思いみるなら、その人は完全なクリスチャンに造り変えられます。何故なら、『眺める事によって我々は変えられる』からです。」
「全ての点において我々と同じになられた主は、試みられた時、我々が感じるものを感じられました。・・・その肉体において彼は我々と同じように弱かったのであり、御自分では『何も出来なかった』のです。ですから、主が『我々の病を負い、我々の悲しみをにない』、我々と同じように感じられた時、信仰によって与えられた神様の力によってそれらすべてに勝利されたのであり、その力を我々の肉体にも、もたらされたのです。ですから主の名はインマヌエル『神、我らと共にいます』というのです。神様がキリストとおられるというだけでなく、神様が我らと共におられるのです。」
「キリストが我々と同じ欲情を持っていなかったということについてですが、聖書のどこを見ても主は我々と同じ・・・肉の様をとられたとあります。・・それ以上行ってはいけないのです。彼は罪の肉の様をとられたのであり、罪の思いまで同じだったと言っていません。その思いは『キリスト・イエス様の思い』でした。」
「主は我々の承諾なしに我々の罪を取り去ることはなさいません。私はいつでも主を選ぶか、自分の罪を持ち続けるかの選択をしなければなりません。・・・これから後、神様が罪だと示されたら、それが何であろうと捨てることをためらうべきでしょうか。・・・主にこう言いましょう。『主よ、私は今選びます。私はこの罪とあなた様とを引き換えます。わたしはあなた様を選びます・・・』 一体どこの誰が自分の罪を示されて失望する必要があるのでしょうか。
さて、兄弟方の何人かはこの選びをさっそくなさっているかもしれません。ここに来た時は何も感じていなかった、今まで気付かなかった何かを聖霊様が彼らに示されました。・・・するとそのように示されたことを感謝して、罪を捨てる代わりに・・・彼らは失望するのです。『一体どうしよう。私の罪はこんなに多いのか』と・・・。
もし以前には考えてもみなかった罪を示されたとすれば、それは主が心の深みを清めようとしておられる、というまでのことで、いつかそれは心の底にまで達するのです。そして御自分の御旨に沿わない、不純で汚れたものの最後の一つを取り出して我々に示される時、我々が『そんなものよりキリスト様を持った方が良い』と言うならば働きは終了し、生ける神様の印がその人の品性のうえに押されるのです。
完全にイエス・キリスト様によって満たされているのと・・・、いくつかの罪を知らされずに保ち続けることと、どちらを望まれますか? もし我々が罪を持ち続けるなら、どうして神様の完全な御品性である神様の印が我々に押されましょうか。それで我々が夢にも思わなかったような深い所まで主は掘り下げられるのです。我々自身は自分の心さえ知らないのですから、・・・主にその働きを続けていただきましょう。・・・もし主が我々に知らせることもしないで我々の罪を取り去るとしたら、それには何の意味があるでしょうか。我々は機械にすぎなくなってしまいます。・・・我々は理知的な、神様の器なのです。・・・理性を備えた道具なのです。我々は自分の選びによって神様のご用に用いられるのです。」
「我々に知らせることもしないで我々の罪を取り去る」の方がいいなぁ・・・なんて。自分が絶望だと悩んでいた時は、かなり自分に自信を持っていました。
しかし、本当に絶望になると・・・、イエス様に頼るようになります。とかいって何も望みも力も、信仰もない「おちこぼれ」。すべては、いただいている贈り物、イエス様に支えられているだけです。
祈らないで???、聖書を読んでも、全然理解できないですし、信仰の証に何も感動もないですが、イエス様が導いてくださる時、聖書は素晴らしい本に「変わる」?、いえ、光を放って見えてきます。
この地上で、「イエス様の驚くべき愛の深さ、素晴らしさ」を体験していくのだと思っています。
「おちこぼれ」が本当に悩んでいた時、絶望のどん底にいた時、このような証を読んで、どれほど助けられたか・・・。
さらに、「一見聖書には、難しく、不明瞭なことが多いのですが、神様は、それを理解しようと求める人々には、わかりやすく、単純にしてくださいます。」 |
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| 29 おちこぼれ ID:79s16Yqc |
2009/01/18 09:31 |
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「重大な危険」
「さて、取り違えていただきたくないのですが、私も皆さんも主に頼らないで生きることができる程、清くなると考えてはいけません。この肉体が変化するのを期待してはいけません。もしそうするなら重大な危険に陥り、恐ろしい罪を犯すでしょう・・・。
この滅ぶべき体は主が来られる時に朽ちないものに変えられます。・・・誰でも自分の体は清められたと思い込み、全ての衝動は神からのものであると考えるなら、それは自分の罪深い欲求と聖霊とを取り違えているのです。その人は神と自己とを置き換え、自分自身を神の位置においているのであり、これこそ法王教の精神なのです。」
人間って、本当に罪深い者です。まさか、こんな人はいないとは思いますが、自分の思いを、「これは神様だ」「イエス様だ」「聖霊様だ」と思い込んで、周りに大きな害悪をばら撒く罪は本当に大きいです。しかも、本人に気付かせるのは至難の業・・・。一見不可能とさえ思われます。聖霊様は聖書全体からお語りになられますので、聖書にいつも比べていれば安全なのですが・・・。
しかし、これは聖書やメッセージに責任があるのではありません。罪人の側に責任があります。様々な経験を通った「おちこぼれ」・・・。このような人はいないとは思いますが、これだけは絶対にやめてくださいねね・・・。
仮に、こんな「滅びへの道」に入ってしまった場合も、絶対に自暴自棄にならないでください。主イエス様は本当に憐れみ深い御方です。
聖書、そして「イエス様、お助けください」「罪人の私をお許しください」「自分を義としたことお許しください」、詫びる心や感謝の心は、悪魔の嫌がる心です。 |
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| 30 難海鱈 ID:Ka7BUwPw |
2009/01/18 18:04 |
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おちこぼれさん。
ま、このフォーラムでなにスレ立ち上げようと自由だけどね、
でも、僕が思うにですよ、どこか、別のブログ立ち上げて、
そこで自分の自由なご意見展開した方がよろしいかと思います。 |
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| 31 何回鱈 ID:j2H.KRYs |
2009/01/18 18:23 |
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| え、それはひどい、難海鱈さん。僕は楽しみにしているのに。 |
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| 32 おちこぼれ ID:YMYCyc6U |
2009/01/18 21:26 |
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二年くらい前、メールで証をやり取りしていたクリスチャンの友人に「この証もったいないから、ブログ立ち上げて載せた方が方がいいよ」と言われ、かなり熱心に言われたので、ブログ立ち上げようと努力しましたが、やり方がわからず、できませんでした。ごめんなさい。
こんな者の証を楽しみにしてくださっていらっしゃる方、ありがとうございます。とっても感謝です。
もっともっとイエス様に感謝していかないと・・・
感謝が足りないですね。
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| 33 難海鱈 ID:Ka7BUwPw |
2009/01/18 22:50 |
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え゛ーっ!
新規にブログ作るって割と簡単でっすよお。
YAHOOでもLIVEDOORでもOCNその他でも、
結構簡単に作れますよ。
もう一度チャレンジされて、新規に作られたら
訪問いたしますので、ご連絡くださいね。 |
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| 34 おちこぼれ ID:NDeQxcHE |
2009/01/20 08:52 |
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「信仰による義」
僕の見てきたクリスチャンの方々は文字通り、「仕える方々」でした。牧師さんに仕え? 人々に仕え、食事を整え、快活な暖かい空気をかもし出し、部屋をきれいに掃除され、花を飾り、体の具合の悪い人々に配慮されます。しかも、それが全く人に目立ちません。「陰で働いている奉仕」。それらを探すのがとっても好きになるくらいです。
信仰による義とは「喜んでやること」、行いによる義とは「いやいや、やること」、と一言でおっしゃいますが喜んで奉仕されている姿は傍から見てわかります。
また、教会の青年たちは庭の手入れや畑仕事、教会の掃除、体の具合の悪い人のマッサージや、年配の方々の方の肩をもんだり、賛美歌など奉仕できるようになっています。
小さい子供たちは、お手伝いが「遊び」になっており、特に女の子は、教会で料理、掃除などなど身についていきます。何より彼らの表情からは、「幸せ」が現れており、見ているだけでも幸せが移ってくるようです。これは教会の宝物ですね。
また、大人の方々は、青少年の教育にとっても心を使っておられ、学校、服装、おしゃれ、健康など、子供たちの成長と心に合わせて教育されます。また、教会から寮生活をしている子供たちには教会から色紙を贈ったりして、励まします。
また、さまざまないわゆる「問題児」の子供たちが教会に連れてこられますので、子供たちはみんな教会の一室で勉強をします。教育を受けず、座っていられない子、すぐにあきてしまう子も来ますが、みんなが一つとなって勉強できるようになります。
そして、教会では、その子供たちのために休みの期間も毎日の様々なおいしい食事、また夏には大きなスイカ、季節季節の催し物、冬にはクリスマスケーキなどなど盛り沢山です。またクリスマスプレゼントも、女の子には一生使える裁縫箱や素敵な洋服など、など夢もあり、また実用的です。
当たり前ですが、信仰はいつも実際生活と一つです。ですので、子供でも信仰が理解できるようになっています。子供たちですら、みな「イエス様の証」を持っており、はっきり言って「大人の証」より???心を打ちます・・・。
クリスチャンのすることってたくさんありますね。しかも、喜んでやっていることが、何よりも証になっています。 |
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| 35 むにゅむにゅ ID:MDNq.pEA |
2009/01/23 11:50 |
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O
( こうした ) 社会正義を通して良心に悪魔が入り込む事は良くある事です。わたくしはこうした事からむしろ反対の現象がおきるのではと予測しております。コラの反逆が始まるのではないでしょうか。合掌。アーメン・アーメン。アツくなる前に糾弾する人達が自分の心の中で犯した罪を打ち明けないのは危険です。
キリスト教を憎む人達を調子ずかせないようにしましょう。
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自称おちこぼれ様の書かれた立派な文章に下でちょこっと休ませていただく事にしました。自分達キリスト信者の間で起こった事がどんなに悲しい事か。
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| 36 おちこぼれ ID:HH0F/hXA |
2009/01/24 05:45 |
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この地球を滅ぼしてしまうことは、何と簡単なことだっただろう、と思います。
そしてまた、人が「おちこぼれ」を潰してしまうことも何と簡単だったことだろう・・・と。
しかし、先を歩くクリスチャンの方は、それを許しませんでした・・・
どんなに激しい戦いや、悲しみを通ってきただろう・・・と思います。
「おちこぼれ」は他のスレッドには書く値打ちもない、と思っていますので、他のスレッドには一度しか書いたことがありません。しかし、結構心痛めながら・・・見ています。
同じ血の通った人間ですので、これは痛いだろうな、という事だけはよくわかるのです。
たまには、休みにきてください。
必死で戦っているのですから・・・間違える事だってありますよ。間違ったら直せばいいと思っています。
かつて、落ちこぼれていなかった時、こともあろうに「神様の御言葉」をとって人の救いではなく、人を傷つけるために・・・激しく論争してきた極悪人です。
なんの実りもありませんでした・・・
今は、イエス様がくださった素晴らしい証だけを書いていこうと思っています。
イエス様って、本当に素晴らしい御方ですよね。
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| 37 おちこぼれ ID:pOGwbUeg |
2009/01/31 17:12 |
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「仕事がなくなる時」
ある時、教会の女の子がこのような証をしました。「ある日、お母さんがこのような話をしました。『お母さんの会社は、閉鎖されるの』」
確か、当時その子は高校生だったと思います。お母さんをしっかり助けるとっても良い子でした。
そのお母さんは、教会建築のため莫大なローンを組み、朝早くから、夜遅くまで働き、また教会ではピアニストとして、また、数々のデザートや食事を作り、集会を明るくされ、また会社においても証人でした。
そんな中で、会社が閉鎖されることになったのでした。
それまでも、やはり会社が危なくなった時、会社がリストラをしようとしたことがあります。その方は、「そうか、みんな辞めるのがいやなんだ。それでは私がやめよう」と新しい仕事を探し始められました。イエス様にお祈りして、探し始めます。「神様、一番初めに決まった所に、たとえどんな会社でも行きます。」
就職活動するうちに、まずその会社内で個人面談が始まりました。上司の方と面接をして、お願いされます。「どうか、私を辞めさせてください。そのかわり残る人たちの給料など、よろしくお願いします。」
その時、その上司の方がおっしゃいました。「あなただけは、辞めてもらっては困る・・・。」 結局、「最初に決まった所」その会社に残られました。その会社では、リストラが行われました。「裁きに日に似ている」と話されていたのが印象に残っています。普段、仕事をサボっている人、ずるをしている人は辞めさせられたそうです。
さて、話は戻って会社は閉鎖されました。しかし、そのような状況も教会ではおくびも出さず・・・、明るくされ・・・、次の会社へ就職口を見つけられました。その会社で、また人の何倍も働かれました。会社からはディレクターになるようにと言われました。しかし、その方は会社の若い人たちが良いポストにつけるように努力されます。また、ご自分で働いたその分で、教会の若い人たちもその会社に勤められるようにされ、その子たちにパソコン、英語、簿記など指導されました。今では皆、一流のビジネスマンにまでなっています。
その方は、数々の試練を乗越えて来られた方ですが、「昔は、仕事がなくなることは、とっても恐かった」そうです。終身雇用がまだ当たり前と言われていた時代です。それに加えて、教会の何千万円のローンを持ち、ご家族がいて・・・。いろいろな道を通りますが、クリスチャンの方々はそんな中でもキラキラと輝いています。 |
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| 38 おちこぼれ ID:8M2Y1uys |
2009/02/04 00:16 |
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「清潔」
ある若者が、教会に泣きながら入ってきました。席に着くと、信仰の先輩の方に涙ながらに語ります。「僕の押入れが汚いんです」・・・。
信仰の先輩の方が、すぐにおっしゃいます。「それでは、押入れをきれいにしなさい。」
「・・・?????」
その若者は、はっと気付き、笑顔になりました。「何を馬鹿なことを言っていたんだろう。泣きながら、汚いんです~なんて。」
「とにかく、やること、はじめること、はじめたらやめないこと。」
「何かせよ、今すぐせよ、全力を尽くしてせよ。」
「そうすれば、後から気付くから、今まで何もやってこなかったんだ・・・と。」
清潔、一つとっても「知っていること」と「身につく」こととは、雲泥どころか全く別世界です。まして、「汚くてもゴミじゃ死なない」と思っていた人間が、「清潔が好きになる」ことは驚くべき奇跡だと思います。本来家庭でしつけられ、学んでくるものですが、そのような環境にいない場合、「大人になって大恥をかきます」。そして、場合によっては「馬鹿にされて」、悔し涙と共に必死で身につけていく場合もあるでしょう。「しつけ」はとっても大切ですね。人間は教えられないと、何も身についてないのです。
家がゴミだらけ・・・と家では「、清潔」なんて身につくのは至難の業??でしょうか。なにせ、思っている「清潔」のグレードが全然違います。教会員のお住まいに行けば一目瞭然、少し生活を共にしてみれば、「いかにしつけがなっていなかったかが」よくわかります。
「毎日、掃除しても、ほこりってすぐたまるんだ」なんて当然の事に「びっくりして」感動するような始末です。ですから、教会がいつも「ほこり一つない」ということはすごいことです。
「歯磨き」といえば、夜寝る前1回・・・が当たり前だと思っていました。ところがある時、結構多くの人が、食後3回磨いていることを大発見?します。人によっては、朝起きてからを含め1日4回・・・。ところが慣れてしまえばなんてことありません。
洗濯の仕方、干し方、アイロンのかけ方、服の畳み方、すべて違います。こうやって、「無人島から出てきたかのような自分の姿」に気がつくようになります。
しかし、はっきりいって身についてしまえば一生の宝・・・。だんだんやっていくことが好きになってきます。すべて徳と言われるものに心を留めるように導いてくださいます。そして、「生きる力をいただく」ことになります。
「おちこぼれ」さん、簡単に何でも身についたんだ・・・と思われたら大誤解。すべて先輩のクリスチャンの祈りと、忍耐と許し、ご指導、また、周りの兄弟、姉妹の忍耐とご配慮のおかげで、デンデン虫より?遅い歩みをしているに過ぎません。
「あ~あ、身につかないなあ」なんて思っていると、「1000回でも2000回でもやるのよ」との優しい、しつけのなった信仰の先輩の声が耳に浮かびます。すべては「できない」のではなく、「やらない」のが原因です。「やり始める」と「今までやってこなかった」と気付くのです。
こういう証はかなり好きです。教会で罪の習慣の証をしていると、その場にいる若い学生達もポーカーフェイスをしていますが、内心「やばい!」と思い、家に帰って、生活が改められるそうです。みんなが良くなり、幸せになっていくことは本当に良いことです。
こんな事書いていて「メソジスト」、几帳面屋と言われたら、かなりの栄誉・・・。この名は全世界で誉ある名称になっています。「行いによる義」と言われたら? シャツ出しっぱなしで「信仰による義とは!」と説教していたら・・・かなり格好悪いです。信仰以前の問題ですね。
「あなたは、今まで何度となく失敗したかもしれない。しかし、今度は成功しないという保証はない。」「イエス様はまた魂の敵と激しい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエス様は耐え忍ぶように励まし、神様の天使たちが彼らの側についていて勝利を与えてくれるから、勝てるのだと保証された。」
「おちこぼれ」は罪と闘っていたとき、ひとりのクリスチャンの方が涙を流されながら、おっしゃられた言葉が忘れられません。「あなたを見ていると、痛々しい。みんなもっと真剣に信仰をなさい。」「若い人がこんなに苦しんでいる・・・。大人が模範になっていないからよ」と。
そして、改められた時・・・「なんだ、そんなことか」とはおっしゃいません。涙を流して・・・、喜んでくださる方々・・・。それがクリスチャンでした。 |
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| 39 ひかり ID:Yuvu8Wao |
2009/02/08 14:01 |
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使徒信条の「聖徒の交わり」について
2週間前ラジオでキリスト教放送 FEBCを聞いていたら、都会で洗礼を受けた教会の牧師が紹介されていた。
約20年前当時の信仰生活と会社の重圧から、当時の牧師に「信仰を継続できないから、もう教会の礼拝には出席しません。もうわたしには関わらないでください」と手紙をだし、会社を退職し、一人で初めて海外旅行に出かけました。FEBCで紹介された牧師(女性)は当時大学生でした。
初めての海外旅行にマレーシア、タイランドにでかけましたが、はじめのマレーシアで首都のクアラルンプールでマレー人が多く住んでいる東海岸と字中部の国立公園があるジャングルにゆくため、バスターミナルをまっていたら、近くにウエスレー・メソジスト教会があって信徒が礼拝後の会話をしていました。
マレーシアはイスラーム教徒が約当時8割り占めていたとおもいます。人口でもマレー人が6割、華人が3割 1割がインド系だったとおもいます。
さて神様とも「おさらば」と思って東海岸に向かうバスを待っていたら、宣教師らしい若い日本女性と同じ信者の華人がバスに乗り込んできた。
車中でわたしは旧約聖書の「ヨブ記」を思い出しながら、かれらと会話していたが、自分がキリスト者であることを告白しなかった。
そのバスが終点の町について彼らの仲間が働いている理容室に出向き、しばらく雑談し、その後私は町を30分散歩し、彼らのいる部屋に入ると「あなたは
クリスチャンですか」といきなりたずねられ「そうです」と返事をした。
旧約聖書「ヨブ記」の世界が現実に今おこり、神様の存在に驚いた。
彼らの仲間にはインドネシア宣教について語っていた。
さてその旅行も終わり、日本に帰ってから3年くらいして、同じ町で暮らしている老いた姉妹から、「牧師の死」を知らされた。
その牧師が信徒の誕生日に、一人一人書いてくれた聖書の聖句は、一枚だけ聖書にか挟まっている。そして弱くて、不信仰になる私たちを、かみさまは信徒の兄弟姉妹を通して働くことを改めて知り、「聖徒の交わり」の意味が少し理解できた。
その後2年位して新しい牧師の挨拶に出向き、さらに2年くらいしてたまに教会の礼拝に出席するようになりました。
そんな自分が田舎でほとんど、休まないで
礼拝に出席するなんて我ながら、信じられません。これも神様が私を離さないないからなのでしょう?
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| 40 おちこぼれ ID:9jIRUz0k |
2009/02/08 17:56 |
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時々、イエス様がくださるあまりにもの幸せに、愕然?びっくり?する事があります。ひかりさんの元気そうなメールに喜びいっぱいです。
「おちこぼれ」も教会にいくために、毎日、毎日どれほどの奇跡がおこっているでしょうか。
先週は、目が腫れて、また足が腫れて、「仕事いけないかも・・・」前は、クリスチャンの方に祈っていただいたことがありますが、今はその環境にもない・・・
イエス様にお祈りしてなすべき事をすると、
「痛みと腫れが引いている・・・」感謝で休まずに出勤できました。
また、先週前半は、職場でも証ができないなあ、とイエス様に申し訳ないばかり・・・
イエス様にお詫びしていると、昼食時、交わりができて、ノンクリスチャンの方々と、証の話・・・とっても喜んでくださり、イエス様に感謝でした。
そして教会でも数々の証の交わりでの祝福・・・
また、今日は遠くにいるため、メールで証でやりとりしているイエス様にある姉妹から、健康を心配して野菜を送ってきたり・・・とっても苦労しているのに。
そして、飛び込んできたひかりさんからのメール
「主のお導きだ」と感謝でした。
もし、悩んでいらっしゃる方がこの話を見ていらしたら、本当にごめんなさい。「おちこぼれ」が言いたいのは、イエス様は人の幸せをこの地上の誰よりも願っていらっしゃるということ。そして、こんな「おちこぼれ」を救うために、ありとあらゆる方法をお用いになられ、今も力強く働いておられるということです。以前は山ほどそれがあっても見えませんでした。しかし、今は、ほんのちょっぴり?だけでしょうけど見えています。
「キリスト様は、御自分が代わって死なれた魂を決してお捨てにはなりません。人はキリスト様を離れ、試みに負けることもあるでしょう。しかしキリスト様は、ご自分のいのちをもってその代償を払われた者からお離れになることはありません。もし霊の目が開かれるならば、多くの魂が圧迫され悲嘆にくれて、ちょうど荷車が重い束を積まれて押しひしがれているように、死ぬばかりになっているのを見るでしょう。わたしたちは、危機に瀕しているこれらの試みられる者を助けるために、天使がすみやかに飛び交うのを見るでしょう。天からのみ使いたちは、これらの魂を取り囲む悪の勢力を押し返し、彼らを導いて、その足を堅い基の上におくのです。二つの勢力の間に戦われる戦いは、この世の軍隊によって戦われる戦いと同様に現実的であり、この霊的闘争の結果に永遠の運命がかかっています。」
ひかりさん、いつもありがとう!
「思わず、感謝のおちこぼれ」
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| 41 ひかり ID:43iB1Fz. |
2009/02/14 12:16 |
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「聖徒の交わり」その2
おちこぼれさん 感想ありがとう
前回の投稿で間違えていたことを後で気がつきました。
実はこの投稿はネットカフェフェで書き込みしてます。
ネットは約7年前に都会生活でヤフーと契約して自由に投稿していたのですが、昨年5月にふるさとに帰ったときから、停止してますので、たまに自分の書き込みを読み直すことを怠っているので、前回のような間違いをいたしましたが、おちこぼれさんなら気がついたと思いますが、
念のためにその間違いを提示します。
それは「ヨブ記」ではなく、「ヨナ記」が正解なのです。
今回「聖徒の交わり」その2について書き込みした理由は
病死した牧師からもらった聖句を誕生日にもらったものは、
新約聖書のヨハネによる福音書8章3節
「もし あなたがたが、わたしのことばに とどまるなら、あなたがたは
ほんとうに わたしの弟子です」
聖徒と弟子は同じだと思っています。
しかし主イエスさまに出会った人は「罪びとです」
とてもこの世的に考えれば、理解できない言葉が「聖徒や弟子」という表現ですが、これは聖書で悔い改めた人が努力なしで、恵みによって天国にいけることをしめしているとかんがえます。
どんなときでも、御言葉を信頼できるものになりたいです。
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| 42 おちこぼれ ID:o7psXiLA |
2009/02/14 21:50 |
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メールありがとうございます
僕は、結構、こういう事は「細かい所に目くじらたてない」と教えていただいているので、全然気にしないです。
イエス様が、命をかけて、いえ、十字架の苦しみを通して、救おうと願っていらっしゃる魂、
「生きるか、死ぬかの問題でなければ、目くじら立てない」との姿を、教会で見せていただき続けました。
もちろん、ほっぺたにご飯粒つけたりしていたら?、注意してくれるけどねv(^^)v
「おちこぼれ」は、以前、数々の「障害」?にであった時、必死で祈り、聖書を調べ、断食し・・・イエス様にすがって「のりこえさせていただいてきた」と思っていました。
しかし、10年たって、そんなことない、ことに気づかせていただきました。「誰かが祈っていてくださっていたんだ・・・」
聖書・・・かつては読んでいただけで、持っていただけで殺されました。しかし、あの偉大な宗教改革者の方々が文字通り、命をかけて、財産をかけて、人生をかけて、道を開いてくださり、
今・・・「神様の言葉、すべての人に開かれて」と高らかに宣言されています。多くの涙、多くの試練、たくさん、たくさん会ったと思います。中には有望な地位を捨て、愛する人と別れ・・・皆、同じ人間なのに・・・
今、この神様のお言葉はわたしたちの手の中にあります。
また、そればかりでなく、陰の祈り、陰の奉仕、思いやり、やさしさ、あるときは譴責、信仰を保ち続けてくださった先輩方・・・それこそ、サタンの攻撃を戦いながら、光をともし続けてくださった「おかげさま」です。
パウロさんがローマに囚人としてきた時、
「ところが、兄弟たちは、わたしたちのことを聞いて、アピオ・ポロおよびトレス・タベルネまで出迎えてくれた
。パウロは彼らに会って、神様に感謝し勇み立った」
ある本には、パウロさんを出迎えた人々は、パウロさんの鎖を恥ともしないで出迎えたそうです。
この人こそ、かつてコリントで、アテネで、エペソで命の言葉を伝えてくれた人、神様と和らぎ、現在の生活を生き生きとしたものにしてくださったのは彼のおかげである・・・
コリントでの道徳的な退廃での伝道、アテネでの「あざ笑い」、エペソでの試練、それは無駄になっていなかった・・・
いえ、それから2000年もの間、多くの人々に希望と勇気を与えて続けた大きな証です。
とっても恥ずかしい「おちこぼれ」ですがこそっと「言いたい」好きなセリフがあります。
「今ある喜びは、あなたのおかげです」
この地上で、言える人、そして、この地上ではもう言えない人いますが・・・
そんな事、1人1人に言っていたらキリがないよ・・・
その通りです。「1人の人の救い」って、それだけ多くの人々の献身と、祈りと、愛情が込められていることに・・・気がついたのです。ネヘミヤ記など読んでもいろいろな人の名前がいっぱい出てきますけど・・・
その全ての中を貫いておられる主イエス様に栄光がありますように。
もちろん、悪魔の誘惑の手の届かないところにいるわけではないので・・・
恵みをいただいたら前進、そうでない時???でも前進、ですけど。
いつも感謝しています
「おちこぼれ」
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| 43 おちこぼれ ID:0srZB45Y |
2009/02/16 00:56 |
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さて、小さな証もまた、少し変えようと思います。
今風でいうと、「パクリ?シリーズ」。今までの様々な出来事で助けになった話を、「そのまま」書こうと思います。
「積極的な戦いにより、対立、危機、損失、人類の苦しみのさ中にあって、救霊事業は推進されるのである。ある戦いにおいて、攻撃する連隊の一つが敵軍に打ち負かされようとした時、前線の旗手はその軍隊が退却するのに自分の位置に踏みとどまっていた。隊長が軍旗を持ち帰るように叫んだにもかかわらず、旗手は「兵士を軍旗のもとに来させよ」と彼に叫んだのである。兵士を軍旗のもとに行かせること、これこそ忠実な旗手一人ひとりにゆだねられた仕事である。主は心からの献身を求めておられる。信仰を証しした多くのクリスチャンは、自分自身と彼らにつながる人々を御旗のものに行かせる勇気と力に欠けているという罪を犯していることを我々みんなは知っている。」
「かつてウェリントン公爵は、クリスチャンたちが異教徒たちの中で伝道集会を開く場合、成功の可能性があるかを論議していた会に出席した。彼らは公爵に、そのような伝道集会が出費に比較して成功しそうかどうか公爵の意見を聞かせて欲しいと言った。その老将軍はこう答えた。『皆さん、あなたがたの行進命令は何ですか。成功は、あなたがたの論議する問題ではありません。あなたがたの命令を正しく読むと、全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えよ、と書かれてあります。皆さん、あなたがたの行進命令に従いなさい』と。」
「あなたは自分の殻に閉じこもり、自分が真理の知識を受けて祝福されているからといって、それで満足していてはならない。だれが真理をあなたに伝えたか。だれが神様の御言葉の光をあなたに示したか。神様は光をますの下に置くためにお与えになったのではない。わたくしは、ジョン・フランクリン卿を探しに派遣された派遣隊について読んだことがある。勇者たちは家を去り、不自由と飢えと寒さと疲労に苦しみつつ、北海のあたりをさ迷った。一体それは何のためにであったか。それはただ、この派遣隊の死体を発見することになるか、できればおりよく救援隊が彼らに到着しないかぎり必然的に彼らに襲いかかる恐ろしい死からその隊の幾人かを救い出すということになるに過ぎなかった。彼らは一人の人間さえ救うことができれば、彼らの苦しみは立派に償われると考えたのである。これは彼らのすべての慰みと幸福を犠牲にして行われた。
これを考えてみよ。そして、我々の周囲にいる尊い魂の救いのために我々が自発的犠牲をいかに僅かしか払っていないかを考えよ。我々は、一人の死にかかった人間を救うために家を離れて、長い、退屈な旅に出ることをしいられているのではない。我々のいる屋根の下に、周囲に、四方八方に救われるはずの魂が、滅び行く魂―希望がなく、神様を知ることなく死んで行く男女がいる。それでもなお、我々は、たとえ言葉では「わたしが弟の番人でしょうか」と言わないにしても、行動でこう言っており、無関心である。他人を救おうとして命をおとした人々は、英雄とか殉教者として世人に称賛される。未来に永遠の命を期待できる我々は、人々の魂の救いのために神様から求められている小さな犠牲を払わずにいれば、どう感じなければならないか。」
「ニュー・イングランドのある町で井戸を掘っていた。仕事が完成近くになった時、まだ一人の人がが底にいた時に土が中に落ち込み、その人が生き埋めにされた。すぐさま警報が発せられ、機械工、農夫、商人、弁護士たちが息せききって救出にかけつけた。縄、はしご、鋤、シャベルが救出に一心をこめる人々により運びこまれた。『彼を救え、彼を救え』というのがその叫びであった。
人々は、額から玉のような汗が出て、力仕事のために両腕が震えるまで、死にもの狂いで働いた。やっとパイプが投げ下ろされ、彼らはその人にまだ生きているか答えるようにパイプを通じて叫んだ。『生きているが早くしてくれ。ここはひどい所だ』という返事があった。彼らは歓声をあげ、救出作業に更に活気が出た。ついに彼のところに救いの手が届き救われた。どっとあがった喝采は、全天をとどろかすばかりであった。『彼は救われた』この言葉が町中に伝えられた。
一人の人間を救うためには、これは熱意と興味が多過ぎただろうか。熱中し過ぎただろうか。もちろんそうではないが、魂の損失に比較すると、一時的なこの世の生命の損失はどうであろうか。一個の生命が失われるという恐れが人間の心にそれほど激しく起こるならば、キリストを離れる人々の危険を認識していると主張する人々の心に、魂の損失に対するもっと深い憂慮が起こるべきではないだろうか。神様の僕たちは、井戸に埋まった人の生命を救うために示されたと同じ熱意を魂の救済のために示すべきではないだろうか。」 |
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| 44 おちこぼれ ID:oYw/OjRE |
2009/03/01 22:22 |
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さて、パクリシリーズです。
「おちこぼれ」は山ほど、落第生の道を歩んできたので、いろいろな信仰の言葉に出会い助けて?、いえ溺れている所を 助けていただいています。
「落胆している者に信仰、祈り、仕事という確かな治療法がある。信仰と活動は確信と満足を授け、それは日ごとに増し加わる。あなたがたは不安な予感や、全くの失望の気持ちに負けそうになることがあるか。どんなに喜びのない日で、どんなに形勢の悪そうに見える時でも、恐れてはならない。神様を信ずる信仰を持ちなさい。神様はあなたの必要を知っておられる。神様はあらゆる力を持っておられる。神様の無限の愛と憐れみは疲れることがない。神様がみ約束を守らないのではないかと恐れてはならない。神様は神様を愛する者と共に結びたもうた契約を決してお変えにならない。そして神様はその忠実なしもべたちが必要に応じて要求するだけの能力をお授けになる。」
「霊的怠慢を本当に治す治療法はただひとつである。それは仕事である。すなわち、助けを必要としている魂のために働くことである。」
「これはキリスト様が臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」
「いやな経験を持ち、本当の宗教を構成するものが何であるか全くわからなくなってしまうまで苦しみ、疑い、不平をこぼし、罪を犯し、後悔して疲れ果てる人々は、この無我の働きに携わっていない人々である。彼らは世の中に戻って行くことができないと感じているので、つまらぬ妬み、うらやみ、失望、後悔を抱いてシオンのすそにすがりついている。彼らはあら捜しのかたまりであり、兄弟達の過失で生きている。彼らの宗教生活には希望のない信仰のない、あじけない経験しかない。」
「キリストのためにわずかしか奉仕しない者、あるいは何もしない者は危険である。神様の御恵みは、大いなる特権と機会を持ちながら沈黙を続けている者の魂に長く留まらない。」
「悪に反抗する力は積極的な奉仕によって最もよく得られる。」
「すぐれた働きをするように神様から資格を授けられた人々の多くがなぜ、何ら成すところがないかというと、彼らは何もしようと努力しないからである。」
「たとえ100回のうち99回失敗しても、破滅から1人の魂を救うことに成功したら、主のみ業のために立派な行いをしたことになる。」
「あなたの義務を他人に転嫁することはできない。あなたの仕事をできる者はあなた以外にない。もしあなたがあなたの光を与えずに控えていれば、その怠慢のために誰かが暗黒に残されねばならない。」
「この世界はクリスチャンの天国ではなく、単に神様の仕事場にすぎない。ここで我々は、聖なる天にいる罪を犯したことのない天使たちと結合するのに適したものとならなければならない。」
「主のご承認は大きなことを成し遂げたとか、多くのものを得たとかいうことで与えられるのではなく、わずかなことにも忠実であったということで与えられる。神様が重要視されることは、我々が立派な結果に達することではなく、我々の行動する動機である。神様は成し遂げた働きの量よりも、善意と忠実さを賞賛される。」
「我々は飽きたり、弱気を起してはならない。永遠の栄光を安易さ、便利さ、楽しみと交換することは、恐ろしい損失になるだろう。神様の御手から授けられる賜物は、勝利者を待っている。我々は誰もそれを受ける資格はない。それは神様がお授けになる無償の賜物である。この賜物は実にすばらしい輝かしいものであろうが、『この星とあの星との間に、栄光の差がある』ということを覚えていよう。しかし、我々は勝利を求めて努力するよう切に勧められているのであるから、イエス様のみ力により、多くの星で重みのついた冠を目指そうではないか。『賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう』。」
「我々の考えは全く狭すぎる。神様は光をまき散らず働きに絶えず前進するようにと求めておられる。我々は人々に接する進歩した方法や手段を研究せねばならない。我々は、主の軍勢の偉大な指揮官が「前進せよ」と言われるのを、信仰の耳を傾けて聞かねばならない。我々は行動しなければならない。そうすれば神様は我々を見捨てたまわないであろう。我々が信仰を持って我々の分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹方、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか。」
「わずかな才能しかない人々は、神様の愛の中に心を保つことに忠実であれば、多くの魂をキリストに導くことができる。ハーラン・ページは平凡な才能しか持たず、限られた教育を受けたにすぎない貧しい機械工であった。しかし彼は神様のご計画を進展させることを第一の仕事にし、努力の甲斐あってすばらしい成功を収めた。彼は個人との会話において、また熱心な祈りによって同胞の救いのために働いた。祈祷会を設け、日曜学校を組織し、トラクトやその他の宗教的な読み物も配布した。そして彼は臨終に顔に永眠の影を称えつつこう言い得たのである。『私は、それがすべて神様の恵みであって、私がしたことの功績でないことを知っています。でも私は100人以上の魂が私個人の助けを借りて神様に改心させられたのだということを証しできると思います』と。」 |
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| 45 おちこぼれ ID:bP.Bv1CE |
2009/03/07 21:24 |
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さて、小さな証(7)は「おちこぼれ」の証ではなく、なるべく他のクリスチャンの証を書いています。もちろん、「おちこぼれ」が助けていただいた証だけですけど・・・。
「必要なのは熱心なクリスチャンの熱意である。・・・何かを行うことによって示される熱意である。・・・ナイヤガラ瀑布(ばくふ)の流れを止めることができないように、キリストを身につけている人に対して、主を証することを妨げることはできない。」
「今立つことのできる人は、心から全く決心している男女である。キリストはしもべたちを何度も振るわれて、ある時には、クリスチャン教会の基礎を置くのにわずか11人と2、3人の忠実な婦人しか残らなかった。負わねばならない重荷に遭うと退くが、教会のすべてが燃えているときには、彼らは熱中して歌い、叫び、有頂天になる。しかし彼らを見つめてみよ。その熱が冷めたとき、わずかな少数の忠実なカレブたちだけが前に出てきて、ゆるぎない節義を示すであろう。こういう人は風味を保つ塩である。教会に本当の助けが現れるのは、御業の進展が困難なときである。」
「奉仕のために男女を選ぶに当たって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるかとかお尋ねになるのではない。神様は『わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らの唇におくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とお尋ねになる。」
「敗北の屈辱は、神様のみ助けなしに御心を行うことが出来ないのだということをわれわれに示してくれるので、かえって祝福となることがよくある。」
「真心から神様を称えることは、祈りと同様の義務である。罪に陥った人類への神様の驚くべき愛を感謝するとともに、神様の無限の冨の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、私たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。私たちは今まで以上に、もっと自分の尊い体験語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神様の子らに対する神様の慈しみと驚くべき御業を私たちが語ることによって、著しく増大するであろう。
こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。こうした証は人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。」 |
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| 46 おちこぼれ ID:VH/nn/X. |
2009/03/08 19:31 |
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小さな証(7)パクリシリーズも長くなったので、これでやめようと思います。ひかりさん、みなさんよろしくお願いします。
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分たちの高尚できよい使命を見失わせ、この世の生活の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最もやさしく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子らに1人1人に「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、神様の日のために1つの民を備えさせるようあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。だれがあなたをつかわしたのか。」
「われわれは勤勉な働き人になるはずである。怠惰な者はみじめな者である。しかし、キリストが完成するために御自分の命を与えたもうた大事業において怠惰に対し何という言い訳ができようか。霊的能力は、用いなければなくなってしまう。そして、それを滅ぼすことがサタンの計画である。全天は人々に、この世界にキリストが再臨されるための準備をさせる仕事に積極的に携わっており、『わたしたちは神様の同労者である』すべてのものの終わりは間近い。今こそ働く機会である。」
「必要なのは良心的な伝道者である。断続的な努力は少しも良くない。われわれは注意を引かねばならない。われわれは心から熱心にならねばならない。」
「キリスト様のお働きは主として個人的な会見から成っていた。彼は一人の聞き手を大いに重んじておられた。その一人から、受けた情報が多くの人々に伝えられた。」
「クリスチャン生活には三つの標語がある。それはサタンにつけ入らせぬようするために留意せねばならないもので、すなわち、目を覚まし、祈り、働くことである。」
「最も質朴な働き人がキリスト様と協力するとき、地の果てに響くような震動を起こす絃に触れることができ、永遠にメロディーを奏でるのである。」
「滅びゆく魂のために働くにあたって、あなたには天使という仲間がいる。幾百万、幾千万もの天使たちは、一つの民がキリスト様の再臨の準備ができるようにと神様が惜しみなく与えておられる光を伝えることにわれわれの教会員と協力しようと待っている。」
「このような働きには、天のすべての使いたちが常に協力しようとしている。全天の資源は、失われた者を救おうとする人々が、いつでも自由に使用できるように提供されている。天の使いたちは、どんなに軽率で、どんなに頑固な人にでも、あなたが近づくことができるように助けを与える。そして、道に迷った者が一人でも神様のところに連れ戻されると、天全体が歓喜の声をあげる。セラピムとケルビムは、金の竪琴をかきならし、人の子らに対する神様のあわれみといつくしみに対して、神様と子羊を褒め称えるのである。」
「あらゆる霊的力をふるい起こして行動しなさい。すべてのものの終わりが間近に迫っていることを、あなたが訪問する人々に話なさい。主イエス・キリスト様は彼らの心の戸をあけて、彼らの心に永遠の感銘を与えてくださる。人々を霊的無感覚状態から目覚めさせなさい。あなたがイエス様を見出した方法、主に対する奉仕の経験を得て以来祝福されてきたことについて彼らに話なさい。あなたがイエス様のみ足もとに座る時に受ける祝福と、御言葉から尊い教訓を学ぶことを彼らに話しなさい。クリスチャンの生活にある喜びと楽しみを彼らに話なさい。あなたの温かい熱心な言葉は、あなたが非常に高価な真珠を見出したことを彼らに悟らせるであろう。あなたの快活な、励ましの言葉によって、あなたが本当により高い道を見出したことを示しなさい。これが本当の伝道の働きであり、それがなされる時、多くの者は夢から目覚めるであろう。」
少し古い証ですが、
「軍隊の力は主として兵隊の能力で測られる。賢明な将軍は兵隊のひとりびとりが活動的に勤務するようにその訓練を士官たちに指示する。彼は全部の者の最高の能力を啓発することにつとめる。もし彼が士官だけにたよれば、作戦を成功させることに期待できない。彼は軍隊内の一人びとりの忠実でうむことのない勤務を当てにする。責任は主として兵隊にかかっているのである。」
むなしく聖霊の降下を待っている人々
「現在の機会を賢明に活用せずに、他人を啓発する能力を大いに増し加えてくれる霊的清新の特別の時期をむなしく待っている人々がいる。彼らは現在の義務と特権を怠り、彼らの光が薄暗くなるままに放っておき、一方では、彼らの側で何の努力もせずに、特別の祝福を受けて、それによって彼らが変えられて、奉仕にふさわしい者となるようにと、待ち望んでいる。」
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| 47 ひかり ID:KP9nd18Q |
2009/04/13 11:23 |
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こんにちわ おちこぼれさん
わたしは たまにしか 投稿しないですが、あなたの記事は時々よんでいますよ。
最近近くに図書館で借りた本で「ユダヤの民話」という話のなかで
短くていい民話がありましたから、紹介しますね。
二人の証人が利ざやの高い商品を買い付けるためにある都に船ででることにした。
彼らが旅に出ようとしたとき、ひとりが梯子から足を踏外して大怪我をして旅ができなくなった。
船の出港を延期出来なかったので、相棒は一人で乗船し、足を怪我した男を後に残した。
残された男は金儲けの機会を奪った不運を嘆いて摂理(神)を呪った。
だがそれから間もなくすると、船が乗客全員とともに沈んだという話が伝わってきた。
そこで商人は、彼の足を怪我させ、死から彼を守ってくれたことにたいして主に感謝し、主の知恵を疑ったことの許しを求めた。
この話の教訓は、人は自分の身に起こることが何であれ、神は常に感謝しなければならないというものである。
すべては、 たとえ最善にみえなくても、 この世では最善なのである。
それはわたしたちの罪を購うためにおこることもあれば、最悪の運命から
私たちを救うためにおこることもあり、また大きな良い運命のためにおくることもあるからである。
このことがこの商人の話から読み取れる。彼の怪我した足は、実は祝福だったのである。
以上の内容ですは、私にも同じような思い出があります。
約20年まえ働いていたころ、高校の卒業名簿を見て先物取引の営業マン二人から喫茶店に誘われ、その知識もないまま「先物取引」をはじめました。
当時は教会に出席してましたが、将来結婚する予定もなく、借金もなかったので40万円からはじめたのですが、始めた種類の「ゴム」の価格が下がるほうに予測したのが、上がり 、その場合業界の仕組みとして、その場合は保証金が入るので追加のかねを、マネーゲームに投資し、結果的に2ヶ月間で当時約110万円すってしまいゲームをやめましたが、よく会社には電話がきたりして精神的に落ち込みました。
この民話を読んでもし当時このマネーゲームで儲けていたら、いままで信仰をもちつづけていたのだろうかと、疑問です。
聖書の御言葉に「人間はお金と神様に使えるとはできない」と言われていますが、そのとおりだとおもいます。
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| 48 おちこぼれ ID:ZIqE2nvU |
2009/04/13 23:04 |
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ひかりさんへ
ひかりさん、すっかり変わったねえ。今、感謝で、涙流して書いています。
さぞかし、いろいろな事があったと思うけど・・・
こんな嬉しいメールは久し振りかな。
主イエス様に感謝いたします。これが本当のイエス様の証ですね。
「おちこぼれ」もがんばら?ないと(^^)
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| 49 おちこぼれ ID:q76au3uI |
2009/04/25 00:16 |
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せっかく、ひかりさんが小さな証(7)に証をくださったので・・・。
さて、最近、1億円を福祉のためご寄付をされた話がテレビで取り上げられていました。それを見ていて、ふと・・・。
諸教会では、最近でも個人で数十億円(60何億円?)、御業のために捧げた方、また大きな会社や世界的な会社を丸ごと教会に捧げた方、毎月、収入を全部?捧げてしまう人々・・・。土地を捧げて、そこに教会の学校が建てられたり、教会が立ったり、またこの地上で持っている物はほとんど福音のため「借金のかた」にはいっている方・・・、などなど、すごいものです。しかも、絶対にニュースにならない、証にもならない。
「多くの人を奮起させた」とあるように励ましになるから、いいんじゃないかな?と思っても、話題にすらならない・・・。「それこそ右手でしていることを左手に知らせるな」。
しかし、イエス様の生活費すべてを捧げた方の話をはなされていらっしゃいますし・・・。
主イエス様の御業はすごいです。台風が来て、ほとんどのみかんが落ちてしまったので、教会員のみかん畑のみかんだけが落ちなかったとか、大干ばつがきた時、教会とその学校の農園だけが緑があり、新聞で取り上げられた話・・・。同じく干ばつが起こった時、学校でお祈りしたら、天気予報では快晴なのに雨がその地方全体で降った話。一人のクリスチャンがお祈りすると雨がざーっと降った話、などなど。
エリヤさんの時代に起こったことは、今もなお起こり続けています。
しかし、それに加えて、人の心に働かれるお力もまた本当に素晴らしいものです。
一人のクリスチャンの書いた、知育、徳育、体育の本、教育。たったこの一冊を読んで、膨大な土地を寄付され、そこに教会とキリスト教の学校も立ったことがあります。まだまだ・・・。
世の中の仕事、生活、娯楽、犯罪、偽りの宗教などなどいっぱいある中、もう世の中に望みなんて無いんじゃないか、と思えるような時でさえ・・・、イエス様の証に心を動かされて・・・、教会やキリスト教の学校や、病院に、そして人々の幸せのため、協力しようと犠牲を払われるその様子は、「おちこぼれ」も胸に迫るものがあります。
以前は、教会の醜聞?、悪口、また人の犯罪の話など、そのことばかり聞いていた「おちこぼれ」。自分の悪と周りの悪で、絶望。ところが・・・。
「自己のことを考えていると、心は力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致の交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。」
はっと気付き、方向転換、あの人、この人ではなく、敵の存在が見えてきます。こんな事に惑わされて、福音の手を弱めていたのか・・・。
「もし、悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出し、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種のように他人の生涯にまかれて芽を出し、実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことはできなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかもしれませんが、その言葉に感化された人々は、その不信仰から逃れることができないかもしれません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すということは本当に大切なことです。」
主イエス様のいつくしみがいっぱいに見えてきます。また思いをはるかに超えて、多くの人々が、聖書の内容を良く知っていることも・・・。科学者、農家、営業さん、病院で働いている人々・・・。
「地は主のいつくしみで満ちている」
こんな話したら、古くからの信者さんから「おちこぼれさん、なあんだ、今頃気付いたの?それ基本だよ」なんて言われそう。
人々が眠っている間に、救い主がお生まれになられる話。神様の宮で、サドカイ人とパリサイ人が激論を戦わせている間に、貧しい羊飼いたちに、東方の博士達に「良きおとずれ」が伝えられる話・・・とっても好きな話です。
人々が眠っている時も、誰も知られないうちに、世界各地でそれこそニュースになるような、感動で心が震えるような証が・・・、今もなお次々と起こり続けています。
「僕には感謝することは何もない」とある方がつぶやいた時、前にいた方が、話されたそうです。
「それじゃ、あなた、目が見えなくなるよ」
「・・・・・」
家に帰って、「目が見えるってなんてありがたいことか」と思われたそうです。
「おちこぼれ」にとってもこうして証が書けることが本当に感謝!神様のお恵みがなくなったら、こうして証を書くことができなくなるどころか、なんの感動もなくなることを・・・とっても良く知っているからです。
ニュースにはとってもならない、どんな小さな捧げ物。しかし、それは「その人の持っている全て」かもしれません。
最後に、イエス様はこうおっしゃっておられるようです。
わが民よ、聞け、わたしは言う。
イスラエルよ、わたしはあなたにむかって
あかしをなす。
わたしは神、あなたの神である。
わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう。 |
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| 50 ひかり ID:hgSFrgyc |
2009/08/25 15:15 |
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「信仰告白」
こんにちわ おちこぼれさん 久しぶりです。
おちこぼれさんが「小さな証」シリーズをせっせと書きこんでいるので、わたしはどこに投稿したらいいのか、迷ったのですが、この「7回」にたまに投稿するので、感想があったら,返事くださいね。
さて田舎に帰って昨年は「お盆」を約20年ぶりにすごしました。
正月には兄弟関係者が集まって談話してましたが、この「お盆」は信仰との戦いがあります。
先祖を大切にするのに,違和感はないですが、信者になってから、亡くなった人を信仰の対象にできないのが信者です。
特に田舎の長男であるわたしは、イエスさまを信じてから、いつか親類縁者に「信仰告白」をする時期がくることがあるだろうと、考えていました。
旧約聖書 伝道者の書3章
1節 天の下では何事にも定まった時期がありすべての営みには時がある。
7節 黙っているのにときがあり 話をするのに時がある。
その時が今年訪れました。
親類縁者から批判覚悟で”自分が「キリスト信者」であり、日本を作った神社の神様をしんじていなくて、この太陽,地球を創造した神様をしんじています。”
そう告白したら、予想に反して批判されませんでした。
その理由は父親の長姉の息子さんの嫁さんがキリスト信者で、嫁さんが神社でかしわでをしないし、焼香しないことをしっているので、「しょうがない」とあきらめているのでしょうか?
親類のこの夫婦には,知的障害の息子さんがいることを,母から知り、このキリスト者の嫁さんが苦労している姿をみて、おばさんは信者でなくとも、こころを動かされたのだとかんがえます。
なぜならわたしが中学生の時から夫は精神を病んで看病を約40年ほどし、なくなりました。だから自分の孫に「精神障害者」がうまれたのは遺伝だとかんがえているのだと思います。
霊感宗教が人の苦悩につけこんではいりそうな条件がそろっています。
わたしはそのご両親から「お盆」の誘いをうけなかったです。
両親がなくなっても仏壇は存続するのが、他信仰にたいする敬意だとかんがえ
小さい時からかわいがってくれたおばさんたちにつたえました。
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| 51 おちこぼれ ID:OzAS0f9s |
2009/08/25 21:48 |
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ひかりさん
イエス様が素敵な信仰告白の機会をくださいましたね。
僕は、天使の方がご親族のひとりひとりの心にお働きになられ、
良い印象を与えてくださったのだと信じています。
安息日を守るため、会社を休むときも、また証の伝道のため辞める時にも
イエス様は守ってくださいました。
会社を辞める日・・・
会社の方々が
「自分の信じる道を歩むことのできる貴君は幸せです」
「うらやましい、うらやましい」
「会社のみんなが君のこれからを見ているよ」
などと声をかけてくださったことはたぶん一生忘れられないでしょう。
ひかりさんの信仰告白を聞いていたのは、ご親類ばかりでなく・・
天国の方々、大勢の天使の方々や、イエス様もきっと耳をお傾けになられていたと信じています。
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| 52 ひかり ID:3qbP4i4g |
2009/09/01 11:58 |
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おちこぼれさん お返事ありがとう。
今 通っている教会の牧師が、礼拝の説教で「日本のキリスト者は、神様についての知識を得ようし、韓国ではは祈りをささげるのに熱心で、中国では賛美に熱心」だうですが、この主張は私が推測するに、海外の宣教師からの感想ではないかと、かんがえます。
そして自分なりにその理由を考えると,納得できるかんがえがあります。
とくにイエスさまを信じていない、両親にどのようにして、聖書の神様を伝えていけばいいのか考えるとき、若いときは「知識」でいいとかんがえていましたが、年をとると、だんだん「愛の行為」すなわち「仕える行為」が一番だと、考えるようになりましたが、自分には愛はなく、イエス様からいただくしかないですね。
信仰告白の次は両親を教会につれていくことです。
これもきっと「そのとき」がくると信じて、かみさまにまかせてます。
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| 53 おちこぼれ ID:TKFaVugM |
2009/09/01 21:53 |
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ひかりさん
イエス様にあって成長されていらっしゃる姿にとっても感謝です。
「そのように、キリストの恵みにあずかった人々は、喜んでどんな犠牲をも払い、キリストがいのちを与えた他の人々も天の賜物を受けることができるようにします。彼らはできる限りを尽くして、この世を少しでも住み良い世の中とします。真に悔い改めた者の心には、必ずこうした精神が見られるようになるのです。人は、ひとたびキリストのもとに来るやいなや、イエス様がいかに尊い友であるかを他の人に知らせたいと望みます。人を救い清める真理は、どうしても心のうちに秘めておくことはできません。」
彼らはできる限りを尽くして、この世を少しでも住み良い世の中に・・・
好きな言葉です。
今日はひかりさんの手紙、イエス様からとっても素晴らしいプレゼントでした。ありがとうございます
「おちこぼれ」 |
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| 54 ひかり ID:pfkbahvw |
2009/09/16 17:01 |
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「癒し」 猟犬 花子の思い出
こんにちわ おちこぼれさん おかわりありませんか?
今回はメルヘンみたいなお話を紹介しますね。
約2週間前私の住んでいる漁村から片道約90kmの山奥に車を
運転して趣味のひとつの登山に行ったときの,出来事です。
登山場所にちかい道の駅で昼食の山菜おこわと、たい焼き3枚を買って登山地図に記載されている山荘に着いたのは11時半ころでした。
地図では悪路のため心配だったので、登山道確認のため、山荘の女性に尋ねたら、まちがいなさそうだった。
そのときおばさんが飼っていた2匹の犬に「山頂まで案内しなさい」と言っていたので、私はこの山荘に宿泊したり、通過する登山者にこの犬が、たまに同行するのだろうと、思って はじめの山頂をめざして歩き始めた。
歩き始めて約20分して案内板に「熊出現 注意」の警告が出ていたが、今日そのための鈴をわすれて、すこし心配だった。しかしその後約20分して登山の案内板のうえに「幸福の鈴」が1個のっかていた。
これは神様の働きだと重い感謝した。
この金はお遍路さんの鐘の音色に近く、長い登山経験から、登山者がぶら下げているのを知っていた。
さてこの道は悪路のため道が所々分かりにくいために、間違って300mほど下っていったら、犬たちもついてきた。犬たちはそのまま下っていった。
しかし「登山道」らしきものが見えないので、もときた道を500m歩いたら、案内板を発見し上り始めた。
そのとき二匹の犬はメスなので「花子」と勝手に命名し「花子、花子」と叫びながら山を上っていったが、約30分経過しても2匹の犬は姿が見えない。
その時私は、あの山荘に帰ったのだろうと推測していた。
そう考えながら後ろを振り返ったら1匹、上ってくるではないか!
感激した。
今まで一度も犬を飼った経験もなく、昔 2ヶ月ほど一人でギリシア、トルコ共和国を旅行してキプロスの対岸のトルコの町で遺跡を見学に一人で出かけた時、野犬でかまれ、1週間ほと町の病院にいったことがあるので、少し苦手だった。
花子の頭をなでてやり、たい焼き1/3をあげたら食べ始めた。
花子は舌を横にして「ぜい ぜい」といっている。
その時私は犬が疲れたとき、舌を横にするのだろうか?と考えた。
その後花子と30分ほどあるいてはじめの山頂に着いたが。誰もいなかった。
昼食は花子に山菜おこわ1/3 水 約100cc与え20分ほど休憩した。
今回のルートはA、B C D山を上りD山からC山に引き返し下山する予定だった。
花子はA山からB山にむかう途中で、私とはぐれてしまった。「花子 花子」と後ろを向いて叫んでも姿は見えなかった。
C山でであったと東京からここ岡山県の山奥まできた年配の男性に花子のことを伝えたら「犬もたまには道を忘れる」と言っていた。
そうか「花子」もそのなかに入っているのかな?と考えながら最終目的地D山(ここが岡山県で最も高い)に着いたら10人ほどの団体客がいて、シャターを押してあげた。
C山に引き返して地元のキャンプ場ちかくまで下った時、1匹の犬が近づいてくるので、始めどこの犬?
よく見ると「花子」ではないか。口は土で汚れているし、B山に向かう途中ではぐれてもう2時間半も経過している。
私は感激した。
花子はC山から下山してここで私を待っていてくれたのだ。
どこの馬の骨かもしれない私を待っていてくれたのだ。
ロシアの作家ドストエフスキーの小説に内ゲバ問題を扱った「悪霊」という作品があるが、今回の出来事はその反対で私を癒すために神様が天使を使わし、山荘の奥さんや花子の母親そして花子に天使が入ったのだろうと、メルヘンで考えれば、魂も少し癒された一日だった。
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| 55 おちこぼれ ID:YLOFihf6 |
2009/09/17 00:03 |
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ひかりさん
メールありがとうございます(^^)
イエス様は、聖書と、自然と、摂理を通して人にお語りになられるそうです。
「悪路」に心配だったときに、やさしい方にお会いになり、道案内の「花子」を送ってくださり、
熊が心配な時には鈴を備えられ、
はぐれた「花子」を心配していた時には、
ひかりさんをずっと導き、護衛してくれた「花子」が最後のキャンプ場で待っていてくれて、迎えてくれる・・・
復活した時、最初にあいさつしてくれるのは・・・
洗礼を受けた時、イエス様が「その人専任に」お使わしになられた守護天使の方だそうです。
「人生の悪路」の中、どんなに、悲しいときにも、ひとりの時にも、たとい周りの人がひとり残らず離れていったとしても、決して離れることのない、偉大な天使・・・
そのお方が・・・
この思い出いっぱいの登山の事も・・・話してくださるといいですね。
「おちこぼれ」も一緒に聞きたいです。
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| 56 ひかり ID:fR.73xQI |
2009/09/25 11:02 |
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おちこぼれさん 感想ありがとう。
「守護天使」ってなんかカソリックの教義みたいで、すこし違和感がありますが、いいですね。
花子の話題はまだあって紹介させてくださいね。
下山して花子にあったとき、口のまわりは泥だらけだったが、100mほど下るときれいな湧き水があって、花子はそこで泥を落とすため、口を突っ込んでから、頭を左右に振って水を落とした。
自分の身体を清潔にするより主人を待つことを優先する姿がいじらしいです。
花子の体は白とベージュの混ざった体重20~30Kgくらいの4歳犬で母親と同じく、犬にしては一度も吼えないので印象が深く残りました。
そのご3Kmほど歩いて、山荘に向かう途中は車も通過するのですが、花子は車が来ると左側を、てくてくあるいていたのをやめて真ん中によってくるのです。
わたしはそれをみて「花子 あぶないから 真ん中によってはだめだよ 」と何度もいいました。花子が事故にあったら山荘の女将さんに申しわけないので、30分ほどはらはらしました。
その後 山荘の案内がある道に入り、上ってゆき宿についたら、花子の母親がよってきてスキンシップをしている。
時間は5時ころだったが、女将さんに花子のことでお礼を述べようと思って玄関にいったらいなかったので、 車で自分の部屋に着いてから電話したら「そうなんです。花子は賢い犬でお客さんから愛されていますし、車によってきますが大丈夫ですよ。」と伝えていた。
今 私の部屋には復活したイエス様がエマオの途中で3人の弟子に出会った聖画と ガマガエルの写真 花子の舌を横にした写真が『癒し」の思い出として飾ってある。
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| 57 おちこぼれ ID:VO9RRbjU |
2009/09/25 21:13 |
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ひかりさん
お元気そうで何よりです(^^)
「花子」の写真見たいですね
ある奥様が、脳出血か何かで家の中で倒れたそうです。しかし、その家に家族は誰もいません。
その時・・・家で買われていた豚(さん)が・・
家の前の道に出て行って・・・ごろっと横になりました。
そこへ自動車が・・・
自動車は豚に気づき止りました。
車を降りた方は、家で倒れているその奥さんに気づき病院へ・・・
奥さんの命が助かったそうです。
もしかしたら、豚さん(さま?)は車に引かれて死んでいたかも・・・
物言えぬ動物でさえ・・・自分の命と引き換えに人を助けているようです。
おちこぼれ
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| 58 ひかり ID:43iB1Fz. |
2010/01/04 11:20 |
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「インマヌエル」
おちこぼれさん
あけましておめでとうございます。
しばらく投稿しなかったのですが、最近起こった「小さな証」を紹介しますね。
教会のクリスマス会で牧師が「みなさん 証 はありませんか。」と言うと集まった兄弟姉妹のなかから、自発的に「証」を紹介しはじめ、私は最後に近い4人目に猟犬「花子」の話をしました。
70歳を超えた先輩の牧師が約6ヶ月前説教の中で「証」について話したので礼拝後、わたしが「この教会では信者の証がほとんどない(発言しない)
私が都会で出席していた教会では証をする機会がもっと多かった」と
批判(助言?)したので、牧師も考えたのでしょうね?
もっとも最近はこの場「証シリーズ」くらいしか投稿しないから、よけい意識したのかもしれません。
さて話は約2週間前の出来事です。
冬用のタイヤ交換のために、車を買ったところに預けてある整備工場に出かけ、それが終了し、次にコンビで図書館で借りた音楽の本の一部をコピーするため財布とその本を車から出してコピーしました。
そのあとガソリンスタンドで灯油を18L入れようとして立ち寄り、財布を見たらない。
よく調べてみたがない!
そこで原因を考えたらさっきのコンビニが思い浮かんだ。
そのときその店を出てから約10分は経過していた。
「私は神様~!」と祈るような気持ちだった。
財布には4万円くらいとキャシュカード5枚くらい入っていた。
ガソリンスタンドを出てから5分くらいでそのコンビニに到着したが、
その間の距離が長く感じられた。
コンビニについてコピー器の裏をみたら「財布があった!」
店員も気がついていなかったようだ。
このような財布の忘れは都会生活で記憶しているだけで8回くらいあったが
、主のご加護で無事守られた。
よく忘れたのは銭湯の着替えするボックスだった。
もっとも財布以外の税金の還付金やカメラの忘れは戻ってこなかったけれど
これも、神様を信じたら全部祈りが答えられたらきっと、信仰が歪められると感じた。
易者が「当たるのも八卦、当たらぬも八卦」といってどちらに転んでも可能性は半分だけど、神様への願いも半分以上の7~8割届くならこれこそ
「あなたこそ生ける主です」と疑いやすい私でも告白できます。 |
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| 59 むにゅむにゅ ID:i1ANn/s6 |
2010/01/04 21:42 |
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o
自称☆おちくん☆
あけましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。
本年も宜しくお願いします。
お祈りください。
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| 60 ひかり ID:3.dQNqgM |
2010/01/06 10:21 |
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むにゅむにゅさん 今年もよろしくね。
この投稿記事はネットカフェと役所にあると図書館で書き込んでいます、
久しぶりに役所に出向いたら今日の朝 昨年いくら探してもなかった「手帳」があった。
職員さんは私をみつけて「これはあなたの手帳では、ないですか?」と問うので私はその手帳をみて「そうです」内心 神様ありがとうございます。
手帳には重要なことは書き込んでいないですが、プライベートなことを他人に知らせるといやですね。
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| 61 おちこぼれ ID:78hn9FOw |
2010/01/06 20:04 |
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ひかりさん
むにゅむにゅさん
明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします
「証とは新しいことを提示することではなく、
人々が忘れていた事を思い出させるためのものです。」
とは大好きな言葉です。
天には大きな愛の御方がいらっしゃること・・
私たちのどんな小さな事も、また心の奥底までご存知であられること。
信仰の祈りに答えてくださること・・本当のことですね
お金とクレジットカード、PASMOを一度に落とした事を思い出しました
それは「多少健康を犠牲にしても、倹約・・・」と思っていた時・・・
中途半端ならともかく、ここまで行くと、「落としたから、もっと倹約しよう」とは思いませんでした。
「神様、ごめんなさい・・・」
すべて、何も取られず戻ってきました。
年末年始、
ブログのhttp://a-small-testimony-series.blogspot.com/
もあんまり更新していないのですが・・・
こうやって、ひかりさん、むにゅむにゅさんの元気そうな証をいただくのも・・・イエス様がくださったとっても大切な「小さな証」です。
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