| 1 おちこぼれ ID:z0c6k5Bg |
2008/09/21 00:16 |
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「魂の救い」
ひかりさま
イエス様に信頼できないことに悩んでいらっしゃるとかいてありました。
ところが、「おちこぼれ」の方はもっとかなり深刻でした。「すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前もいったように、今も前もって言っておく、このようなことを行う者は神様の国をつぐことがない。」といった状態でした。
たしか、JONESさんかWAGGONERさんの証の中にこんな話がありました。正確でないことをお許しください。
「わたしも悩みました。わたしも多くの人々と同じように主に仕えようとしました。しかし『だめだ、わたしにはできない』と独白せざるえませんでした。聖書の中に書いてある人々はわたしとは違う人間のように思われました。」
「しかし、その悩みが過ぎ去ったことに感謝します」「人間は昔から善をなすことに非常な困難を感じていました。それは、人間が『肉の働き』の絶対的支配力の中に服していたからです」「しかし、それよりもはるかにまさった力が支配すれば、善を行うのがたやすいのは『自明の理』ではありませんか」
すなわち「善を行うことがたやすい」となることです。
その時、「おちこぼれ」はこう思いました。「へー、前半はぴったりだけど、悩みは過ぎ去るんだ」
さあ、長い旅路がスタートしました。「身体を打ち叩いて服従」させたり、各時代の大争闘でした。中にはルターさんが警告しているように「聖霊、聖霊と叫びだした」と偽物をつかんだ人も多くいます。悲しいことにそれらも見てきましたが、消えてしまっています。
わたしも、何か降りてくるんだと思い込んでいたこともあります。このテーマで膨大な数の神学書が書かれました。罪の心は限界線を通っていましたから、それこそ「必死」でした。
結論から入ってしまうと「聖書に書いてあることをする」ことに尽きてしまいます。ただ、やらないで考えているだけ・・・これに気づかないため相当な遠周りをしました。信仰の先を行くクリスチャンの方々がいらっしゃらなかったら「死んでいた」でしょう。
何度も書きますが、ある時「自分の心の罪、自我の心に押しつぶされそうになって」いた時、こう質問されました。「2つか3つ、イエス様に清めていただいたことはないの?」「いや、二つか三つはあるんだけど、まだまだ多くて・・・」その時、「それは傲慢です」との言葉が心に刺さりました。「これが、傲慢の罪というものか・・・」
「私たちの罪は髪の毛のほどもあるけれど、三つ清められたら三つだけ感謝じゃないの」そう、心をイエス様に向けるメッセージでした。
罪を打ち叩いている僕に「悔いるという言葉がわからなかったら『イエス様に詫びる』ことなのよ」「『イエス様助けて』と祈るの」「『罪人のわたしをお許しください』と祈るの」
多分、小さな証を読んでいらっしゃる方は「また同じかあ!」と思われると思います。これには意味があります。聖書に書いてある肉の性質、すなわち生まれ持った性質は「はい、わかりました」と聞くものではありませんでした。「人は95%昨日と同じ事をする」と言われています。変えようとしない、言うことを聞かない、書いてあることをやらない、という恐るべき性質を持っています。「そうだ!」と感動しても次の瞬間「消えてしまって」同じ事をやっているのです。
「1000回でも2000回でもくりかえすのよ」と教えていただいたこともとってもとっても感謝です。
すべては「主イエス様の教えに従わないだけ」
なんて書いていると「悟った?」ように見えますが、僕の場合はさらにグレードが低くクリスチャンの方々に祈っていただいているだけの「おちこぼれ」です。
しかし、三つ?だけではありませんが、大いに感謝です。あの苦しみは、人間の心からの叫びでしたから・・・。あの時の、苦しみは過ぎ去っています。主イエス様にとっても感謝です。 |
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| 2 おちこぼれ ID:z0c6k5Bg |
2008/09/21 00:19 |
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「単純」
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」
神学の話の中で、「原語では・・・」「英語では・・・」となっていくと、「実の無い話」になっていくことが多いようです。
イエス様のお話は「子供でもわかる」お話です。
前に書いたA.Tジョーンスさん?の証の中にこんな話がありました。うるおぼえですが・
「イエス様の能力は何もないところに、創造できる能力です。イエス様がおっしゃられると何もなかったところに存在させてしまうのです。」
「あなたはつくり変えられたい、と願いますか。その御言葉によって生きようとなさいますか。これが信仰による義です。世界で最も単純なことです。」
ある時、「自分には感謝の心がないなあ」と思っていました。ある時、信仰の先輩の方から「自分を義としていたことを悔いていきなさい。そうするとイエス様に栄光、イエス様に栄光となるでしょ?」
「ほんとだ!」と思いました。いままで、「感謝せねば・・」と思っていたことが、「自分を義としてきました。ごめんなさい」と詫びていくと、心が「イエス様に栄光!」となって行きました。
「じぶんはカスだ、と思いなさい。そうすれば快活になるよ」これもまた本当です。
「信仰による義とは何か、それは人間にできないことを、神様が人間の代わりに行うことによって、人間の誇りを地に落とす神様のお働きである」
クリスチャンの方々には、またクリスチャンでなくても皆、ご存知だと思いますが、心が低くなった時が、人間は一番幸せです。悔い改めと感謝、謙遜と感謝は1つですから・・・ |
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| 3 ひかり ID:pW4EBok6 |
2008/09/23 10:39 |
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こんにちわ おちこぼれさん
21日の礼拝は岡山県にあるバイブルキャンプ場で礼拝をもちました。
今出席している教会が毎年一度この場所で礼拝するそうで、私も兄弟姉妹の車に乗車させてもらい、参加しました。
私がバイブルキャンプに参加したのは遠い、むかし洗礼を受けて2年くらいでしたが、長野県のその場所に夏参加し、感激したものでした。
しかしそのキャンプ場を去って現実に変えると感激も少しずつうせてきたのを記憶してます。
さて今回はほかの団体(聾唖者)の兄弟姉妹も場所をかえて礼拝していましたが、昼食は一緒でした。
昔 田舎から都会に出たとき、盲人や聾唖者など、田舎で生活していたとき
は、接しなかった光景に衝撃をうけ神様に抗議しまいたが、後で冷静に
かんがえると、そうゆう障害者が一般人と同じく活動できない社会が問題であることを感じました。
会堂献金のことで負い目を感じながら、田舎に帰り約20年ぶりに車を購入し、運転をしだしたら、事故を起こしレッカー車に二度世話になり少ない貯金がへりましたが、幸い人身事故にならず、また車の一部が破損したくらいで、私の体は無事でしたが、冷静に考えると神様のご加護があったからこそ、被害がすくなかったと考えています。
毎日車を運転するときは、お祈りをしてますが、神さまは聖書にかいてあるように、「よい人にも悪い人にも公平に雨を降らせて下さる」という御御言葉が心に浮びます。
事故を避けることはできないですが、その中でかみさまの助けを信じることだと感じます。
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| 4 ライフ ID:qszZoffU |
2008/09/23 11:48 |
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おちこぼれ さん
*神学の話の中で、「原語では・・・」「英語では・・・」となっていく と、「実の無い話」になっていくことが多いようです。
とありますが、教会で聖書研究していると 「イエス様が どういう意味でこういわれたのだろう」という話になります。牧師先生からギリシャ語の辞書の引き方を学んでから、 みんなで その意味するところの原語を辞書で調べてみますと、色々な解釈があることがわかり、その箇所に書かれている言葉の意図が話し合ってわかったりします。別に勉強する必要はなく、ただ辞書の弾き方を覚えるだけです。
それでも 聖書理解がゆたかになります。
別に 神学の話の中で、「原語では・・・」「英語では・・・」となっていく と、「実の無い話」になるとは限りません。 |
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| 5 おちこぼれ ID:GoJVXbVM |
2008/09/25 22:45 |
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ひかりさま
信仰の戦いを戦っていらっしゃいますね。主イエス様にとっても感謝です。
主イエス様の天使の方が、ひかりさんのそばにいてくださるから必ず勝つと思い、必要ないとは思いますが、「落ちこぼれ」が以前助けていただいた聖句をご紹介させていただきたと思います。
「しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救いの神様を待つ。
わが神様はわたしの願いを聞かれる。
わが敵よ、わたしについて喜ぶな。
たといわたしが倒れるとも起き上がる。
たといわたしが暗やみの中にすわるとも、
主はわが光となられる。」
(ミカ書7章7‐8節)
「わたしたち自身の内には、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力あるものは何も見られません。サタンは、無駄だ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈っても無駄だ、あなたはこの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、良心に背いたではないかとささやくでしょう。しかしわたしたちは、『御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちを清めるのである』と敵に告げることができます(ヨハネ第一1章7節)。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです」
身障者の方々の話、また聞かせてくださいね。
それと、交通事故ですか…怪我しないでくださいね。
僕は、医療安全の仕事をしていたことがあります。患者さんに一生懸命奉仕されても、医療事故が起こってしまうケースがあります。日常でもですが、特にその時の医師、看護師の精神的ストレスはすごいものです。ストレスで精神病になったり、中には自殺してしまったり…。クリスチャンの皆さん、どうか医療に携わる方々のためにお祈りをお願いします。
聖書の中の「たとい、そうでなくても」との語られた場面も好きです。
ヘブル語で、
ダニエルと言う名前は
神様は我が裁き主
ハナニヤと言う名前は
神様は恵み深い
ミシャエルと言う名前は
神様に並ぶものはだれか
アザリヤと言う名前は
エホバなる神様は助けた
と意味だそうです。
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| 6 おちこぼれ ID:GoJVXbVM |
2008/09/25 23:52 |
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「滅びるのは難しい」
「信仰による義とは、実際的な行為であって、単なる理論ではありません。それは、実際には大変な悪人なのに天国に入れてしまうというのではなく、そうする必要がないようにつくり変えるのです」
「信仰によって義とされる、とは律法を行う者につくり変える、ということです」
ある日、「おちこぼれ」は教会員の人に話していました。「僕なんか、死んだほうがいい」と。教会の人は一生懸命説得してくださっていました。
聖書には、「あなたがたは神様の宮であって、神様の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神様の宮を破壊するなら、神様はその人を滅ぼすであろう」と書いてありました。
さて、その週の安息日、そんなことはつゆとして知らない、一年に一度いらっしゃる牧師さんが礼拝説教でした。
礼拝説教の内容はなんと「自殺してはいけない」でした。「ああ、この教会は神様がご支配されておられる」と痛感しました。
その話の中で、ある少女が学校でいじめられていました。もう、いよいよ自殺しようとしたその日、何気なく最後に学校の机の中に手を入れると、一枚の手紙が入っていました。
そこにはこう書いてありました。「自分だけだ、と思わないでね・・・」。この一枚の手紙により彼女は助けられました。
主は一人の罪人を救うため、礼拝説教まで導かれるのだと思いました。そして、その後も無数のお恵みにより「生きる喜び、希望ある人間」へつくり変えてくださいます。これは、ただ陰の祈るクリスチャンの方々がいらっしゃったおかげです。
もちろん、つくり変えられるのは「自殺」ばかりではありません。私たちの罪は髪の毛よりも多いのですから・・・。
しかし、裏切った時にも、逃げたときにも、主はそこで待っておられました。「主の恵みはあなたを追う」とあります。
「カラスの子が神様に向かって呼ばわり、食物がなくて、さまようとき、カラスにえさを与える者はだれか」。この御方は食事をも備えたもうお方です。(迫害や病で食事も食べられず苦しんでいらっしゃる方いらしたら、ごめんなさい。)
神様は人を救われるために追われます。そこから、「滅びる」ことは本当に難しいです。
1日振り返っただけでも、主のお恵みは溢れるばかりに見つかります。
スズメたちは、いつも主を賛美しています。明日は枯れて、火に投げ入れられる草木も同様です。しかし、罪に固まるとそれすらも見えなくなってしまいます。
祝福ってどういう心にそそがれるのでしょうか。「ああ、自分は罪ばかりだ、罪の奴隷だ、絶望だ!」という心?しかし、主は「自分は、豊かになった、何の不自由も無い」と思っていたら素通りされていかれるように思います。
「罪人であるわたしをお許しください」と涙ながらに叫ぶとき、「イエス様助けて!わたしたちは死にそうです」と叫ぶとき、主イエス様の祝福が一番近くに感じられるようです。
悔い改めとはギリシャ語で「メタノエオー」。考えが変わるという意味だそうです。すなわち、魂がイエス様に向きなおることだそうです。 |
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| 7 おちこぼれ ID:DgMEq3MI |
2008/09/29 20:37 |
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イエス様は、ひとりひとりの魂の事情をご存知である。
自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。
あるいはそうかもしれない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、 イエス様が必要なのである。
主は泣いて悔い改める者を決して退けられない・・・。
主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。
主は、赦しと回復とを求めてみもとに来る全ての者を快く赦して下さる。
この言葉は、礼拝の週報に載っていたものです。
「久しぶりだな・・・」と思わず、思いました。当時、この文章を読んでいたとき、それは「必死」でした。それは、生きるか、死ぬかと真剣でした。それから・・・、これらの言葉は断片的にもいつでも思い出して助けていただいた言葉です。
そして、今は「これらの言葉は真実だった」と証できるかな・・・と思います。
近頃、かつて励まされた数々の聖句、証を思い出す機会がとっても多くなりました。「この約束も、この約束も本当だった」と思い返しています。
僕が、クリスチャンの方にお祈りしていただき、何年も水がたまっていた膝をいやしていただいたことがあります。膝が軽くなった時思い出した言葉は、「いやされたと信じて歩きなさい、そうすれば実現する」。
また、エリヤさんが何年も雨が降らなかった時、7回お祈りされます。そして、僕が小さな雲を見つけると、すぐさま「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と王様に言うように命じます。エリヤさんは、小さな雲の中にあふれるばかりの雨を見出した。「これだ」と思いました。すると、痛みのため自転車では上れなかった坂を上れるようになり、正座ができるようになりました。
さて、癒されて1週間後、クリスチャンの看護学生が、とっても優しい声でこう聞きました。「足、大丈夫?」
この言葉は、心に深く染み入りました。
「いやし」の証が出ると、よく言われるのが「本物だろうか」「偽者じゃない」という論争です。僕の中でも反射的に、そういう言葉に身構えている姿がありました。
その時、「神様だもの、癒されて当然」ではなく、「足、大丈夫?」の言葉が心に入ったのです。本物か、偽者か、そんな醜い裁く心ではなく、「心からその人を思う思いやり」が心を溶かしたのでした。
遠くの国に医療の奉仕に行く方々がいます。「いろいろ問題ある。こんな不正もある。そんなことしなくても、お金だせばいいじゃない」という話も聞きます。
しかし、今は「それで治った方々の幸せを喜ぶ」ようになりました。証を書いていて時々、読み返して「超恥ずかしい」文章にも会います。しかしその時ですら、暖かく「心で受け止めてくださった」方々がいらっしゃいます。
罪と必死で戦っていた姿、それは決して「きれいな」姿ではありませんでした。しかし、その戦っている姿を「いやしめもせず」「馬鹿にすることもなく」じっと、涙しながら見守ってくださった姿、そのおかげで今の人生があります。
心の罪との戦い、それは「聖なる戦い」とも呼ばれています。ビルに突っ込むことが聖なる戦いではありません。心の中の戦いです。
「彼らの聖なる戦いを記録天使に書いていただこう。彼らの涙を綴ってもらおう」。
「この醜い心」と「難行苦行によって」ではなく、「悔い改めの心によって戦う」ことが「聖なる戦い」です。
信仰の戦いの中にある「クリスチャン戦士」の方々に出会うとき、「あなたの姿が一番きれいだ」と言える心の目をもっていたいと思っています。 |
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| 8 おちこぼれ ID:DgMEq3MI |
2008/09/29 21:13 |
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「落とし穴」
さて、僕にとって、大きな課題がありました。
安息日や様々な出来事を主イエス様の尊いお恵みにより、救っていただいた「直後」の心の持ち方です。
ある本に「圧力がとらされた時」、大きな失敗をする人がいると書いてありました。「おちこぼれ」は書く値打ちもない者のですが、聖書に中にもいくつかの例があります。
ダビデさんは、人生最大の勝利の経験をしていた時、バテシバのことで「彼の生涯で最大の最も屈辱的敗北」をきしました。
偉大なエリヤさんは、カルメル山の対決で「天から火を降らせ、バアルの預言者に勝利した直後」、イザベルによって逃げ出しました。
奥さんで、ご主人から大反対を受けながらも信仰を雄々しく戦ってきた方が、ご主人が改心し、イエス様に導かれると、急に信仰が弱くなり、教会にも来なくなってしまった例も数多く見てきました。
人って苦難に会わないと、イエス様に来ない?のだろうか。これは10年単位のテーマでした。
今まで書いた偉大な信仰の方々の話は、ちょっと場違いですので、引用するととっても不自然ですね。 ぐ~んとグレードが落ちますが、僕は「圧力がとりされれた後」どうするか、その「心の向け方」は課題でした。
ところがある時、ある言葉に出会いました。「これだ!」と感動しました。
「神様は、人が祝福をどう用いるかを見ておられる」
「多くのリバイバルの後、たいていの場合暗黒が来ます」「もし、彼らが与えられた光をただちに他に伝えていたら、光は倍加したことでしょう」
神様は、「祝福をお与えになることができるのを待っておられる」「人がその祝福をどう用いるかを、準備できしだい祝福はそそがれる」
そうか、主イエス様は祝福を与えたいと切望しておられるんだ。確かにその通りだなと思いました。全天は人の幸福に関心を持っていらっしゃる。どうして人が不幸になるのを喜ばれるだろうか。クリスチャンに教わった言葉は「神様は破壊を喜ばれない」でした。
人って祝福を受けると自分のものにしてしまって、かえって神様から離れてしまうんだ。そのため、祝福をお与えになるのを「じっと待っていらっしゃる?」こんな悲しいことがあるだろうか。あふれる祝福をその子供たちに与えたくて、切望されておられるお方が準備ができるのをじっと「待っておられる」。このお姿に涙がでてきました。
確かに、集会などで大きな感動を受けたあとで、その祝福を「他の人にただちに伝える人」はごくまれでした。
少し前のある朝、経理の方が話していました。「いやあ、先週の礼拝説教、感動したよ!」「そうですか!で、どんな話だったんですか?」「えーと、なんだっけ?」
これでは絶対、祝福をいくら注いでも「流れていかない」と思いました。
しかし、実際に受けた祝福を「ただちに」分け与えていくと「祝福は倍加します」。そして、「次に暗黒の時が来た時、それに打ち勝つことができる」と書いてあるとおりです。
そして、魂が「もっとイエス様を!」と叫ぶとき「さらに豊かに」とお答えになられるというのも、「神様は祝福を与えようと待っておられる」というのも本当に真実です。
とはいっても「戦いの時」はそれどころじゃないですね。次の文章は、また「おちこぼれ」が書く値打ちが本当にない文章なのですが、戦っている時に励ましになりました。うるおぼえでごめんなさい。
「死をみないで天にうつされたエノクも、火の戦車で天に引き上げられたエリヤも、牢獄で一人死んでいったバプテスマのヨハネよりも、喜ばれたのでも、尊ばれたのでもない。神様の祝福のあらゆる賜物の中で、イエス様と共に苦しむことは、天の与えることのできる最も重い信任であり、最高の栄誉である。」
「神様は大いなる愛をもって、わたしたちのうちに聖霊による尊い徳を育成しようとしておられます。神様がわたしたちに障害や迫害や困難のくるのをお許しになるのは、呪いとしてではなく、わたしたちの生涯の最高の祝福のためです。打ち勝ったあらゆる試み、勇敢に耐えたすべての試練は、わたしたちに新しい経験を与え、わたしたちの品性建設の働きを推し進めます。神様のみ力によって試みに抵抗した人は、世界と全天にキリストの恵みの力をあらわすのです。」
多くの方々が経験されていますが、この御言葉もまた真実です。 |
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| 9 おちこぼれ ID:EQDFXnZ. |
2008/09/30 19:44 |
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「滅びるのは難しい」 その2
「滅びるには、すでに与えられたイエス様の犠牲、そして今もなお迫ってくる神様の愛を拒まなければならない」「イエス様の十字架は、すべての魂が愚行に落ちていかないように、立ちはだかる。もし、人が敢えて罪の生活を続けていくならば、十字架につけられた購い主を踏みにじっていかなければならないのである」
何が罪に対する防壁になるか、それは犠牲を払っているクリスチャンたちの雄姿であり、献身の姿、清らかさですね。
「人は見るものによって変えられていく」というのは厳粛な事実です。これだけ、悪いニュースを見ていると、それだけで「見るものによって変えられていきます」。
そこで、「小さな証」では、一切を捨てて証だけを書いています。それで書いていて思うことは、一番祝福されているのは、「おちこぼれ」です。
イエス様の犠牲、イエス様の祝福、イエス様の御言葉、こんなにも溢れていることか!なんという強い愛、追いかける恵み。
「いつも身体半分でイエス様の犠牲のお姿を思っているんだよ」とは先を行くクリスチャンのお言葉ですが、礼拝に参加したり、賛美歌を聞いたり、歌うたび、涙があふれ出てくるのはこの教え、「主イエス様をいつでも思っていなさい、これがわたしの福音である」のおかげです。
昔のクリスチャンは、「輝く目、涙にぬれた頬、震える唇」をもってイエス様の話をしたとあり、「その中に宗教界の雑音より、より多くの敬虔の証拠を見る」と福音の使命者が書いてあるとおりですが、そうありたいと願っています。
このイエス様から引き離そうと、「自分の欠点、他人の欠点、悩み、悲しみ、思い煩いに心を引こうと悪魔は必死になっている」のも本当だなと思います。
以前は、「神様、僕と死との距離はわずか一歩です」という心でした。
イエス様の犠牲のお姿を見ながら、「イエス様、滅びるのは難しいです」と言える心でいたいと思っています。
僕がお会いしたクリスチャンの姿、癌で余命二ヶ月、言葉が話せなくなり、目が見えなくなり、次々に襲い掛かる病、悩み、痛み、苦しみ、その中で集会を開き続け、証しつづけ、主を褒め称え続けられた姿でした。
様々な悩みを持った方々が来られました。しかし、その証を聞いて話されました。「僕の悩みって、ちっぽけなものだなということがわかりました」「心が楽になりました」
「おちこぼれ」が、仕事がなかったとき、口先の「励まし」や「慰め」は欲しくありませんでした。その時、欲しかったのは「一緒に苦しんでくれるお方:、そして「クリスチャンの友の存在」でした。そして、生きた証、「道しるべ」でした。
今でも病の中から、「途方にくれても」、「苦しみの中からも」、クリスチャンたちの証は続いています。「道しるべ」ははっきりと掲げられています。「神様は真実なお方である」と。
とってもどん底の時、こんなお祈りに助けていただきました。「イエス様、私たちは御名によって唱えられている者です。わたしたちを見捨てないでください」 |
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| 10 おちこぼれ ID:TPfAWHfc |
2008/10/02 09:46 |
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「クリスチャンの特権」
旧約聖書に2つの神殿があります。
1つは有名な「ソロモンの神殿」その素晴らしさは旧約聖書に細かく書いてあります。もう1つがエズラさん、ネヘミヤさんが造られた神殿。規模も豪華さも、ソロモンさんの建てた神殿に比べればはるかに劣っています。契約の箱もなく、十戒の板もなく、アロンの杖もなく、マナもなく、建てられた時「神様の栄光が現れた」との言葉もなく、捧げ物を焼き尽くしたとの記録もなく・・・。
初めの神殿を見た人が、後の神殿を見た時「無にひとしい」ものだったと記されています。ところが「後の家の栄光は、初めの家の栄光よりも大きい」と言われています。
ナザレ人、主イエス様が「後の神殿に」行かれ、ご自身の神殿で民にお教えになられたからです。
確か、ジョン・ウェスレーさんの最後の言葉は「神様と共にあることはいかにも良いものだ」と言われています。(間違っていたらごめんなさい)
クリスチャンの特権は、教会をいかに大きくしようとかではないようです。あるいは、たくさん人を連れてくるのでもない。あるいは「今日は満たされた、あるいは今日の説教は物足りなかった」とかでもないようです。それどころか、永遠の命、永遠の結果がかかっている働きです。
信仰の先を行かれる方は、今まで証に書いてきた教会が建てられたことを、何年も後「毎日、毎日、涙を流して感謝している」と証されたことがありました。
主イエス様の証は本当に尊い賜物です。それは単なる奇跡ではありません。
「神様の御子イエス様」のプレゼントだからです。黄金の神殿、宝石の神殿、人間が近づくことのできないシェーケーナのとどまる神殿、それよりもはるかに「イエス様が来られた神殿」は価値がありました。主の尊いお恵みをあまりにも、あまりにもいたずらに・・・と言葉が続きません。
「小さな証」という題で本当に申し訳ないのです、証に小さい、大きいはありません。それは「イエス様の証」であるから価値があります。ただし、「おちこぼれ」が書くので「小さな証」です。
黄金、宝石、比類の無い知恵、ありとあらゆる賜物。「いいなあ!これがあれば教会をたすけられるかな?」しかし天にとっては、あの「33年半のご生涯こそ」最も高価な賜物だったんです。
「神様を愛さなかった世界を、神様はどんなに愛されたことだろう」 |
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| 11 おちこぼれ ID:TPfAWHfc |
2008/10/02 09:53 |
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「絶望」
「自分の罪ってこんなにあるんだ・・・」
「清まるどころか、悪くなっている?」とそれこそ絶望の淵に倒れていた時です。こんな言葉が飛び込んできました。
「だれが『わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められた』ということができようか」「自分が清い、という人は本当は清くない」「恵みに期間が閉じるにあたって、残りの教会は自分たちの罪深さに完全に気づいている」「イエス様に近づけば近づくほど、自分の罪が見えてきます」
「ある方々は、さっそくこの選びをされていらっしゃるかもしれません。ここに来るまで自分では思いもしなかった罪を聖霊様が示されました。しかし、多くの人は、イエス様に感謝してこれを捨てる代わりに、失望するのです。『どうしよう、わたしの罪はこんなに多いのか』 もし、今まで知らなかった罪を示されたとすれば、それは主が心の深みまで清めようとされているからであって、主が心の罪の最後の一つを取り出して示される時、『そんなものを持つより、キリスト様を持ったほうがよい』と選ぶとき、いける神様の印が押されるのです」(大変申し訳ないですが、ほとんど記憶をたどって書いています)
「自分が清いと主張する人こそ、清めからほど遠い証拠である」
科学者は「もし何か、真理を知り尽くしたと思う科学者は、なにも知らない証拠です」「1つの真理を探し出したら、100の謎が現れてくる」だそうです。
確かに「罪ってこんなに多いんだ・・・」と絶望します。しかし、イエス様の光はどんなに深い闇でも貫くことがおできになる、ということもまた同時にわかります。
福音の光は、どんな深い闇にも、どんな暗い経験にも、どんな都会の片隅にも、教会を裏切った者にも、人間に躓いている人にも届きます。それは、あたかも「わたしにできないことがあろうか」とおっしゃられているようにも思えます。まさに、人間の危機は神様の好機です。
危機を経験すると必ずわかります。自分を救ってくださったのは「イエス様」だということを。「イエス様、助けて!」「イエス様、罪人のわたしをお許しください」と叫んで救っていただくからです。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」
「この休みは不活動のうちにあるのではない。イエス様のうちに休みを見出したものは、最も熱心にイエス様のために働く」
「主は、悪魔に支配されて一見絶望と思われる人を救って恵みの支配の中におかれることをお喜びになる」
「御座の一番近くには、かつてはサタンの業に熱心だったが、火の中から燃えさしのように取り出されて、熱心な信仰をもって救い主に従ってきた者たちがいる」
イエス様のお力の最も強力な証の一つです。
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| 12 おちこぼれ ID:cpjMVEDs |
2008/10/07 20:22 |
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「人をはるかに超えるもの」
「わたしたちの天の父は決して悲しみに沈む者に無頓着ではおられません。ダビデがオリブ山を、『登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った』時、主はあわれみ深く彼を見守っておられました。ダビデは麻布をまとい、良心に責められていました。彼は神様に事情を訴えたのでした。主はそのしもべをお捨てにはなりませんでした。自分の息子の反逆に扇動された敵から、良心に責められたダビデが命からがら逃げた時ほど、無限の愛のみ心にいとしく思われたことはありませんでした。『すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい』と主は言われます。キリスト様は、悔いた心を引き上げ、悲しむ魂を洗練してそれをご自身の住居としてくださるのです。」
この文章は本当に、本当です。もちろん、「おちこぼれ」にもそうですが、他の方々にもその通りです。ですので、「試練や戦いの中にある方々」、たといそれが本人の罪から出た試練であったとしても、絶対に裁いたり、攻撃したり、ましてや冷たく接してはいけない!という事を、「おちこぼれ」も数々の痛みや敬虔を通して教えていただきました。
主は本当に憐れみ深い御方でいらっしゃいます。
むしろ、試練の中にある方々と共に、苦しんだり、祈ったり、するほうが幸せです。「1人、1人には神様の息が吹きかけられているんだよ」と信仰の先を行かれる方から教わりました。
聖書の中にも、「あなたがたは、これらの小さい者の一人をも軽んじないように気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使いたちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。『人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。』」
仮自身の罪のゆえの試練であったしても、他の人が冷たくしたとしたら、「逆転」が起きます。そして、自ら与えた「痛み」「冷たさ」を味わうようになります。
これは愛から出ている原則だと思っています。そして、主の憐れみ深さ、愛の深さをもっと良く知るようになります。そして、「わざわざ痛みを選ばなくて良いように」イエス様は前もっておっしゃっておられます。 |
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| 13 おちこぼれ ID:cpjMVEDs |
2008/10/07 20:33 |
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「反省」
大学の憲法学(確かご専門はアメリカ法)の先生が、講義の中でこういうことを話していました。いわゆる、メイフラワー号、ピューリタンの方々のお話です。「信仰のために国を捨てる。簡単なことだと思わないでください。奴ら本気だったんだ。その証拠に、初めの年に彼らの半分は死んでいる」
クリスチャンの先生ではありません。こんなことを話していました。「アメリカの友人が、自然を指差して『これが自然にできるわけないでしょう』と言われたときは『本当だ』と思いましたよ」
科学者もそうですが、法律の教授の方々も聖書にとっても興味をもっておられる方は多いようです(当たり前ですが)。
船でわたって、半分死んだことでも証になっているんだなと思いました。もし、居間にゆったりと座り、「なんの不自由もない」という生活をしていたら、多分何の感動もないと思います。ところが、人生の戦いの中にある時には、特に生きてくる証です。
聖書では血筋は全然関係ないのですが、アメリカの軍兵士に配られた「キリストへの道」、女王の感謝の言葉をいただいた「豊かな人生の秘訣」の著者のご主人に当たる方は、メイフラワー号で最初にアメリカに渡った方々で最初に生まれた子供のお子さんだそうです。
そのご夫妻の著書の中に一度もそのようなことは書かれませんでしたが、事実です。ただイエス様だけを掲げられた方でした。非常に貧乏で、たしか石を運ぶ仕事で、わずかな生活費を稼ぎ、食べ物もなく、病気がちで、しかし福音宣教に全人生を捧げられた方です。
「人間苦労しないとだめだ」「若いときの苦労は、買ってでもやれ」とは言われますが、実際に味あわないと、くだらないことに批判したり、口先だけの人間になってしまいます。
片方で病気の身体で重たい石を担ぎながら福音を伝える人、片方でゆったりした居間でふんぞりかえって批判する人。ぞっとします。
と書いている「おちこぼれ」も前の文章読み返して、「あまりに不遜な御言葉の引用しているのを見て、猛反省」です。また、少し軌道を修正しようと思います。 |
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| 14 おちこぼれ ID:ShS1glWA |
2008/10/07 21:14 |
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訂正です
ごめんなさい。
「クリスチャンの特権」の証の中で
シェーキーナーの文字が間違っていました。
確か、神様の御臨在を現す聖なる光と思っています。
間違っていたら是非教えてください。 |
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| 15 おちこぼれ ID:ST.R95uA |
2008/10/09 09:35 |
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「許しの心」
「許せない!」という心、それはとっても苦しいことです。聖書に許さなければ許されない、と書いてあるからではありません。「許せない」という心は、暗く、しかも縛りつける性質を持っています。「こんな心嫌だ!」と思っても湧いてくるものだからです。
「主イエス様の御名によって命じる、許せない心よ、出てけ!」と言うといいとある文章にかいてありましたが、最低の「おちこばれ」にとっては駄目でした。
ある時、「豊かな人生の秘訣」を開くたび、開くたび同じところばかり開かれました。そこは「ゆるす方法」・・・
「神様があなたを許してくださっただけ、許しなさい。」「1万タラントの負債を許された僕は、仲間に貸した僅かな金のことばかり、考えていた」本当だ、そればっかり考えている!
そして、主イエス様のあのお姿に心が導かれていきます。「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」。
あの悪夢のような縛りから解かれます。苦しんでいた心から解放されるのです。それが、何回も何回も続きます。そして、新しい一歩が始まりました。もし、これがなかったら一生あんな心で生きなければならないでしょう。
さて、「おちこぼれは、この御言葉で救われたんだ」と思ったら、大変な誤解です。
その後も、「互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、許しあいなさい」
「ごくささいなものを世界大の大きさにしてしまうのは、寛容と愛の欠如です。キリスト様への全き降伏と悔い改めを経験していない者は、その生活に救い主の愛の和らげる力を現しません」
「最も不幸な結果に導く罪は、パリサイ主義を特徴づけていた冷たい、批判的な許すことをしない精神です。宗教的経験に愛が欠ける時、そこにイエス様はおられません」
などなどの御言葉により導かれて・・・の話で、惨めな「罪人」です。
許さない心、それはとっても苦しい心です。イエス様は「許さないと救わない」ではなく、その「許さない」罪の苦しみから救おうとしてくださいます。 |
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| 16 おちこぼれ ID:ST.R95uA |
2008/10/09 22:06 |
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「助けになる証」
「試験に受かるのにはどうしたらいい?」と聞いて、「普通の記憶力があれば受かるよ」「どうしてこれがわかんないの」と答えられると、「おちこぼれ」は立つ瀬がありません。
暗記物は「何回も何回もくり返すといいよ」「十回声にだすといいよ」「細切れの時間を使って覚えるといいよ」「先生に質問するといいよ」「先生を助けなさい」「困っている学生を助けなさい。そうすれば自分もよく理解できるようになります」「よく祈ることは勉強を半ば以上成し遂げることだ」「聞いた話は80%消えていくけど、話したことは80%覚えているよ」とのアドバイスはとってもありがたい言葉でした。
さて、「おちこぼれ」がとっても助けていただいた聖書の一場面があります。それは、ダビデさんが息子アブサロムの反逆により、都エルサレムから出て行くところです。エルサレムに立て籠もることなく、都を出たダビデさんと家族、兵士たちは、都から聖なる十戒の入っている「神様の箱」が祭司たちによって来るのを見ます。
何十年か前、エリの息子たちはこの神様の箱を不遜にも利用して、敵に奪われてしまいます。
しかし、ダビデさんはおっしゃいます。
「神様の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしをその箱とそのすまいとを見せてくださるであろう。しかし、もし主が、『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります。」
もし主が、「わたしはおまえを喜ばない」とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。
この聖句にどれほど助けていただいたかわかりません。また、次に、ダビデさんはシメイという人にのろわれます。家来の方が「この死んだ犬がどうしてわが主、王をのろってよかろうか。わたしに、行って彼の首をとらせてください」と言います。
その時、ダビデさんのあの言葉が語られます。「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしの善に報いてくださるかもしれない。」
「主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。」全てイエス様が本当に憐れみ深いお方であることをしっていらっしゃる御言葉でした。
「どんな誘惑にも屈しなかった。忠実な政治家ダニエルのようにわたしたちも立たなければならない。わたしたちを愛し、わたしたちの罪のために、その命を捨ててくださった主を失望させてはならない。『わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。』と主はおおせになる。これを忘れないでほしい。もしあやまちを犯した場合には、そのあやまちを認めて、それを再びくり返さないように戒めをするならば、勝利を収めたことになる。こうして敗北を勝利にかえ、敵に乗ぜられることなく、あがない主にほまれを帰すことになるのである。」
それでも祈れない時もありました。
「こんなものです。」「イエス様お助けください。わたしたちは死にそうです。」
「『信じます、不信仰なわたしをお許しください』と言ってイエス様の足元に身をなげなさい。そうすれば、あなたは決して滅びることはない、決して」
なんかこう書いていると、「おちこばれ」は「とんでもない奴」ですね。でも、実際その通りなのです。
主イエス様は、それを変える御力をもっておられます。主イエス様は、どんな暗闇を貫く御力を持っておられます。
陰のお祈りによってですし、救い出していただいたので、また過ぎ去ったことなので、また、こんなに溢れる主イエス様のお恵みでいっぱいなので、証を書くことができますし、また書かなければならないと思っています。
栄光が主イエス様にありますように。 |
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| 17 おちこぼれ ID:N1hBb93g |
2008/10/17 16:09 |
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「評価」
昨日の聖書研究はとっても興味深いものでした。罪を犯したアダムさんたちがエデンの園を出て行った後、園の入り口を守るために置かれたのは二人のケルビムでした。
また十戒の入っている契約の箱の上には一対のケルビムが置かれています。「箱の上のケルビムの位置は、神様の住まいの中で神様の御臨在の光の中に立つ、このケルブの高い地位を例示しています。」
アダムさんはエデンを去ったとき、きっと気がついていたと思います。園の入り口を守る天使の方は、ただの方ではなく、宇宙で高い地位にある守護のケルブであられることを。
神様は人間がちりに過ぎないことを覚えていらっしゃると書いてあります。
「神様がご自分の使者としてお用いになる人々は、神様のみわざが自分たちに依存していると思うべきではありません。有限な人間がこの責任を負うように任されてはいません。まどろむことがない神様、常にそのご計画の完成のために働いておられる神様が、ご自身の働きを推し進められるのです。」
少なくとも、「価値がないなあ」と思っている者の上に価値をすでに与えてくださっています。一人ひとりのクリスチャンには、偉大な保護の天使の方がそば近く常に使わされています。
捨ててしまうようなペットボトルの蓋を800個ためると、子供1人を救うワクチンが一本打てるそうです。捨ててしまうような蓋でさえ、1人の人生を救うことができます。ましてや人間は・・・。
ある時、「よし、あの人にこれを注意しよう。これを譴責しよう。こうすれば気が付くかな」と超冷たい、人を滅びに連れ込むことを考えていて、「こんな醜い心から解放されたい」とお祈りしていた時に、こんなことを教えていただきました。
「いったい、誰が1人の魂の価値を評価できるであろうか。もしその価値を知りたいと思うならば、ゲッセマネに行って、血の大きなしずくのような汗を流して苦しまれたキリスト様と苦悩を共にするとよい。そして、十字架にかけられた救い主を見ることである。『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』というあの絶望の叫びを聞き、傷ついた頭、刺された脇、さかれた足をみなければならない。そして、キリスト様は、ここですべてのものを失う危険を冒しておられたことを忘れてはならない。わたしたちの贖罪のために、天そのものが危機におちいったのである。十字架の下に立って、キリスト様はただ一人の罪人のためでさえ、その命をおすてになったのだといることを考えるとき、初めて一人の魂の価値を正しく評価することができる。」
「教育、富、名声をもった高い地位にある人は、自分の救いの重要さについて、語られることはほとんどない。多くのキリスト教の働き人たちは、これらの階級に近づくことをためらっている。しかしそのようなことではいけない。もしだれかがおぼれていたら、彼が弁護士、あるいは商人、あるいは判事であるからといって、わたしたちは彼が死んでいくままに放っておいてよいだろうか。がけから飛び降りようとしている人を見たら、その人の地位や職業がどうあろうと、わたちたちはすぐに彼を引き戻すであろう。わたしたちは魂の危機にある人々に警告することをためらってはならない。」
強そうに見えても、みんな弱いただの人間なんですよね・・・。 |
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| 18 おちこぼれ ID:N1hBb93g |
2008/10/17 16:22 |
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「最高の望み」
「御座のまわりにある虹は、神様が真実であって、変化とか回転の影とかいうもののない証拠である。私たちは、神様に対して罪を犯し、神様の恵みに浴することができない者になった。それにもかかわらず、「御名のために、われわれを捨てないでください。あなたの栄えある御位をはずかしめないでください。あなたが我々にお立てになった契約を覚えて、それを破らないでください」という驚くべき祈りのことばを神様ご自身が、わたしたちの口に入れてくださったのである(エレミヤ書14−21)。私たちが、自己の無価値なことと罪とを告白して、御元に近づくならば、神様は私たちの叫びに耳を傾けると、神様ご自身がお約束になった。神様が私たちに言われた言葉が成就するためには、神様の栄えある御位がかけられているのである。」
多分、この地上でもっとも強力なお祈りの1つではないかな、と思います。多くのクリスチャンの方々を動かしたのはこの力だと思います。
聖書の中にある天にある聖所の証を書いた方の文章の中に、(正確ではありませんが)、次のような文章があります。
「天における祭司制が、地上の堕落した祭司制と同じく、罪を取り除く力がないと告白することは、イエス様に対する侮辱ではないでしょうか」
最後に天にあげられる聖徒が悩むのは、「滅びるかもしれない」からではなく、「もし何か自分たちの落ち度によって失われてしまったら、イエス様の御名を汚してしまう」からであると言われています。
ところが、まさしく「おちこぼれ」はすごすごと舞台から降りようとします。「御名を汚す人間でしかない」と・・・「あなた方のゆえに、イエス様の御名は異邦人の前に汚されている」。まさしくそうだと・・・。
ここから、不思議な出来事が始まります。
「あなたクリスチャンでしょ、あなたから良い光が出ているよ」「世界で一番幸せそうな顔をしている」
ほとんど、愕然とするような言葉です。短足で、鼻ぺちゃ、目はたれ目で・・・、まるっきり良いところが無いのに・・・。
しかも、それは「教会が猛烈な反対にあっている時」や、また、これから「安息日に学校に来なかったから、学校の単位をあげない」と怒っている校長先生のいる校長室に入ろうとしている時でした。
余談ながら、教会でも教わりましたが、「ブスな人は一人もいない」と確信しております。すべて創造主なるお方の作品です。「ブスっとしているから、ブスになる」とは真理です。
人が主イエス様への愛で輝く時、またイエス様に真に悔い改める時、十字架で釘打たれたお姿を見上げる時、人は本当に美しい顔になります。今だかつて例外を見たことがありません。「天の衣って本当にあるんだな」と思っています。反対にどんなにきれいな人でも「不平」「不信仰」・・・となると本当に醜く?なります。
「おちこばれ」の好きな言葉にこんな言葉があります。
天で、闇の中で輝いている光は、「天には大きな光があって、私たちはその栄光で輝いている」と語っている。
「暗闇は地を覆い」との世の中ですが、今もなお星のように生きている方々がおられることを、「おちこぼれ」は知っています。「天には大きな光があって、私たちはその栄光で輝いている」。そう言って、生き方をもって、天の光を動じることなく指さしています。 |
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| 19 おちこぼれ ID:0wEaIn9k |
2008/10/20 23:11 |
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「主イエス様の願われる事」
ある日の病院でのSARS対策の委員会でした。「おちこぼれ」は責任者に言いました。「もし、SARSの患者さんが病院にきたら、僕を最前線に送ってください。」
もともと自殺未遂、しかも結構こんな話の好きな「おちこぼれ」。また特に失うものはないし、一度は死ぬ人生、人のために死ねたら最高!なんて思っている者は、「ここぞ!」とばかり、名乗りを挙げました。笑う方も多いとは思いますが・・・。
しかし、主はそのような人生を、「おちこぼれ」のためには用意されていらっしゃらないようです。それどころか、ひょっとしてこの生き方は全然イエス様の教えと違う?ことにも気がつき始めました。
「悲惨と絶望しかもたらさないように見えた報復の雲は、十字架の光に照らしてみるときに、次のような神様の筆のあとをあらわすのです。生きよ、罪人よ、生きよ。あなたがた悔い改めて信じる人々よ、生きよ。わたしは、あがないの値を払った」
似た文章で、「神様は御子の十字架をご覧になられ、こう仰せになる。『生きよ、生きよ。罪人よ、生きよ。あなたがた悔い改めて信じる人々よ、生きよ。わたしは身代わりを見つけた」
「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、いっさいは無益である」
ある本には、たとい身を焼かれるために渡しても、愛がなければ、神様はその人をあざむかれた哀れな狂信者とみなしたもう・・・と書いてありました。
イエス様のために獄にでも、死も厭いません、と言って3回イエス様を知らないと言ったペテロさん。勝って帰るより、負けて帰るほうがはるかに勇気のいるもの?だったと思います。
「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ。あなたはどうして死んでよかろうか」
神様は「悪人の死を喜ばれない」。イスラエル・・・当時のイスラエルは、はっきり言って「最悪」だったのに、「あなたはどうして死んでよかろうか」と書いてありました。
天使の方々でさえ、「どうして神様は滅ぼされたのか」と思われる「おちこぼれ」に、主イエス様は傷ついたもろ手を広げてとりなされます。
主はご命令が聞こえるようです。「それによって、暗やみから驚くべきみ光に招きいれて下さったかたのみわざをあなたがたが語り伝えるためである」。
力尽きて、倒れ伏した者を立ち上がらせる不思議な力です。罪を犯して、顔を上げられない、自分の無価値さをよくわかっている、人様に顔向けできない、むなしさ、さびしさ、恥ずかしさ・・・。
主イエス様はおっしゃっておられるかのようです。「わたしにできないことがあろうか」。そして、人の思いを遥かに超えてかなえてくださる力のあるお方です。
ほんのちょっぴり!だけですが、すみっこでかくれるように「主のおっしゃることは本当でした」と証できる「おちこぼれ」です。
ふと、こんな聖句も浮かんできます。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて、感謝しなさい。これがキリスト・イエス様にあって、神様があなたがたに求めておられることである」 |
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| 20 おちこぼれ ID:Eqm6TFzk |
2008/10/22 23:12 |
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「処方箋」
今までいろいろ書いてきましたが、「」でくくってある文章は本からの引用が多いです。ところが現実の戦いは、まさしく「戦場の兵士?!」。あっちから弾が飛んできたり、こっちから来たりと、「えーと、えーと何て書いてあったっけ?」などと「うる覚え」だったりして・・・。もちろん、危急の際には天使の方が御言葉を思い出させてくださり、助けていただきます。御言葉を心にためることは本当に重要です。また、御言葉を生かした経験もまたとってもありがたい力になりました。
その中の一つに、大変な間違いや失敗をした時、落ち込んで「ずるずる」となっていると、だいたい無駄な時間を費やして、悪魔がせせら笑っています。
失敗した時、「(聖書に書いてある)肉だから、失敗したんだ、二度とやらない!」と思いを叩き切って前進すると、心が切り替わって前向きに進める。自分に厳しい謙遜な方は、「やっちゃった、えへへ」で切り替えられる人もいるかもしれませんが・・・。
心に罪が浮かんできたとき、「あー絶望だ」ではなく、「イエス様、まだこんな罪がありました、ごめんなさい、これと戦っていきます。(悔い改めの心でですけど)」とお祈りして前進すると心がイエス様への忠誠に向かう。
「良いものが一つもない、聖書に書いてある通りだ。だから御言葉に従う」など。このようなアドバイスはとってもありがたいばかりでした。
もちろん、病気の種類は皆違いますから、合う薬と合わない薬があります。しかし、「患者会?」すなわち「証会」はとってもためになります。もちろん、病気のそのものはまったく治さないで、感覚をまひさせるだけの「麻薬、モルヒネ、痛み止め」もありますけど。
ある、人のために一生懸命尽くされた方が人に裏切られて悩んでいたとき、ある訪問客が来て、「何故、悩むのか、人は裏切るもの、恩を仇で返す者」と聞いて心が落ち着き、救われたそうです。(おちこぼれは、書く資格もありませんが)
その後、その方にお会いした時、その方は「えー、そこまで信じるの!」と思えるほど、主イエス様につなげるため、どんな人も信じられる方でした。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」との聖句がほんの少し見えたように思えました。嘘つきで、裏切り者で、恩を仇で返すもの、その罪人を「何もかも知っていながら、信じてあげる姿」でした。「えーどうしてそこまで」と人を裁いている「おちこぼれ」とはかけ離れて・・・。
主イエス様の愛は「不思議な愛」とも言われています。 |
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| 21 おちこぼれ ID:B4eyyi0w |
2008/10/29 04:03 |
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「今日見たこと」
今日、教会の週報に以前書いた文章の全文が出ていました。当分見れないかな、とおもっていましたが・・・。
「しかし、自分は信仰が足りないと思って、キリスト様から離れたままでいる者が多い。こういう魂は、無力と無価値のままに、憐れみ深い救い主のいつくしみにすがりなさい。自分を見ないで、キリストを見なさい。この世におられた時に、病人をいやし悪鬼を追い出されたお方は、今日も同じ偉大なあがない主であられる。信仰は神様の御言葉によって生まれる。だから、「私に来る者を決して拒みはしない」とのキリスト様の約束をしっかりつかみなさい。「信じます。不信仰な私を、お助けください。」叫んで、イエス様の足元に身を投げなさい。そうする限り、あなたは決して滅びない、決して。」
この言葉を読んだとき、思わず訳が間違っていないか、原文まで取り寄せて調べました。罪との戦い、それはきれいごとではありません。あるいはたった一つの文章で片付けられるものでもないです。「おちこぼれ」は痛いほど、わかっています。
文字通り「各時代の大争闘」と呼んでいいでしょう。もちろん、クリスチャンだけでなく、全人類がすべてこの戦いの中に入っています。
この戦いを知っている方々が、命がけで「良きおとずれを」、誤解されながら、迫害されながら、拒絶されながら、涙を流しながら、戦う兄弟を助けるために「御霊の剣」を手渡すために、福音を伝えたのだと思っています。
手渡された尊い炎は、人から人へと移っていきます。誰もそれを止めることはできません。なぜなら、今もなお、大勢の偉大な天使の方々が、涙を流しながら、全力を尽くして人の救いのため働いておられるからです。
以前は驚くべきお働きがまったく分かっていませんでした。
「もし、人の目が開かれたら、多くの人が、重たい荷物を背負って倒れるばかりになっているのをみるでしょう。そしてそれらの魂を救うため、天使がすみやかに飛び交うのを見るでしょう。」
ある厳しい!と言われていた看護師の責任者がお辞めになり、ご自宅に訪問したことがあります。大変申し訳ないのですが、病院にいた時と別人でした。「ただのお嬢さん」に見えたのを忘れることができません。
「肩書き」「責任」「使命」などのため、あたかも「強そう」と錯覚していたのです・・・。気を一生懸命張っていたんだ・・・。理解してあげられなかった・・・と今でも後悔です。
すべての人の心をご存知のお方は、ゲラサの狂人たちに「家に帰って、神様がどんなに大きな事をしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。」とご命令されました。
「おちおぼれ」は、きっと町の人は心の中で思ったと思います。「自分にも望みがある」と。 |
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| 22 おちこぼれ ID:B4eyyi0w |
2008/10/29 04:07 |
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「覚醒」
ある時、こんな文章を見ました。
「わたしたちは、悲しみに手をもみ絞る時ではなく、立って働くときである。」
「われわれが信仰をもってわれわれの分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹が、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか」
「臆病な人に対する治療法はただ1つしかない、それは困っている人のため一生懸命働くことである。」
悲しみに手をもみ絞っていた「おちこぼれ」は組んでいた手をといて、「何をやっているのだろう」と思いました。
安息日の障害に出会い、教会の証を伝え始めて、「障害も人生の最高の祝福」であることを実感しました。そしてクリスチャン以上にたくさんの方々が主イエス様の教会の証に感動してくださったのを目の当たりにした時、はっと気づいたことがあります。
「そうか、伝道が伝わらないのではなく、伝えなかったんだ!」(一生懸命されていらっしゃる方々にはごめんなさい)
「あれ、こんなに頑張っているのに・・・・・・」と、「わ、全然やってこなかったんだ!」と気づくとは格段の違いです。どちらに力が加わるか。「イエス様、やってこなかったです」と悔いる心です。
「ああ、僕は何もやってこなかった」と気づけば行動が開始されます。あれが、おかしい、これがおかしいとやっているのが「馬鹿だった!」と気づきます。
「靴屋のマルチン」これは、トルストイのつくった小説、事実ではない、作り話ぐらいに思っていましたが、伝え始めると「これ初めての人にまだマタイによる福音書と言いにくいところでは役に立つよ。「そうか、このために作られたんだな」と恥ずかしい気づきが与えられます。
「敵に沈黙させられてしまったすべての僕たちに主は憐れみ深くこうおたずねになられる。『あなたはここで何をしているのか』」
(少し文章が違っているかもしれません、ごめんなさい。)
「覚醒」、それは、「いつか、いつか、リバイバルが起きたら、どっかいい集会にいったら・・」と思っていました。しかし、いつの時代も答えはたった一つです。「そっか、主がしなさいということをやることなんだ・・・」。
う〜ん 身体が動かない・・・。「何かせよ、すぐにせよ、全力を尽くしてせよ」「力は使えばでてきます」
本当だ!主の憐れみ深さに涙する「おちこぼれ」です。 |
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| 23 おちこぼれ ID:B4eyyi0w |
2008/10/29 04:25 |
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「人間」
「おちこぼれ」は何十年か前には、いませんでした。そしてまた、何十年後に?はこの地上にいません。それこそ、0.数ミリ、あるいはもっと小さい血管一本切れたら、この地上から去らなければなりません。
「おちこぼれ」はまた、どこどこのどういう家の、どういう親に生まれようと思って、生まれたのでもありません。もともといなかった者が、ふと気がつくと親がいて・・・。すべて自分の意志によらず、生かされています。「おちこぼれ」の場合は、自分の職業も、生き方も、自分の意志によりませんでした。「なりたくなかった」職業に就き、好きではなかった?(超反省です)キリスト教の驚くべき愛の深さに、それこそ包まれて生かされています。
一年の間、喜びが「あるか」、「一瞬か」と思われ、「むなしい」人生、「永遠に生きるなんてとんでもない」「死んだほうがいい」と思っていた人生が、驚くべき測り知れない愛の神様の御子主イエス様にお会いし、そのサタンよりはるかに強い御力をもって「救い」を経験し、このような証まで書いています。優れた人はたくさんいるのに、どうして?
「病気にかかったらどうしよう」と怖がっていた者に、「どんな」病気になろうと、あちこち痛みや苦しみがあったとしても、イエス様の証をし続け、賛美し続け、人を祝福し続け、集会を守りとおされる信仰の先を行かれるお姿に接し、立ち向かっていく勇気をいただいたりしました。
4回ほど入院しましたが、それも主イエス様のお恵みにより、すべて教会の証の機会に変えていただき、医師や看護師や家政婦さん、患者さんにイエス様の証が伝わり、退院していく方が教会の本を持ちながら、「あんたのおかげで治ったよ」とおっしゃっていただいたことも覚えています。
「死ななくてはいけない時でも、神様を賛美させなさい。たといその人は命を失うことがあったとしても、その業は残るのです」
「肉親の死や、様々な出来事がおこった時、『信仰を表明する機会が来た』と思うことはとっても大切なことです」
また、そばにいる人でも「いつか、食卓に座っているその席が、空席になる時が来るのよ」と信仰の先輩に教えられました。
一ヶ月前、一緒に食事をしていた友人が自殺してしまったこともあります。それ以来、もう絶対に「貴重な事以外言うことはやめよう」と思いました。
もし、自分の霊性がくもっていて「最後の望みを託して」光を求めている人に助けが与えられなかったら、自らの責任だと思っています。何故なら、なんら変わることの無い、あるいははるかに絶望的な「おちこぼれ」は折にかなった言葉、教え、説教、交わり、愛情によって救われているからです。
しかし、こういう文章がありました。
「人がもし自分が神様の大計画に必要だと思ったら、神様はその人を取り除かれる。しかし、彼がいなくなっても働きはもっと大きい力で前進する」。人間って本当にちっぽけなものです。この小ささを知ることが、幸福の第一歩だと思っています。
「人間は創られたものなんだよ。だから創ってくださった御方にああだこうだ、言えないんだよ」「神様が、『滅び』とおっしゃれたら滅びるしかない。じゃあ、もし『天国に入りなさい』とおっしゃったら、どうする?わたしなら『喜んで』と行きます」
人って「生きなさい」というと「嫌だ」と言い、今度は「死になさい」というと「嫌だ」という恐ろしい性質を持っています。「ソドムをふりかえっちゃいけない」と言われるとあえて振り向く性質です。
カナンの土地は神様がいらっしゃるから、攻め取れます。「占領しなさい」と言うと、「いや、巨人がいるから勝てない」と言い、
「では、荒野に戻りなさい。攻め取ることはできない」と言うと、今度は「みんなで攻めに行こう」と本当にあまのじゃくです。
「パンが良い、ごはんが良い?」と聞くと、「どっちでも良い!」と言われたので、パンを持って行くと「ごはんが良かった」というやつです。あげくのはてに、「神様には従うけど、人間には従わない」と嘘八百、滅茶苦茶言い出したりして。
煮たものを持っていくと焼いたものがいい!と言い、焼いたものを持って行くと、蒸したものがいい!と言い、蒸したものを持っていくと生(なま)がいい!と言ういわゆる煮ても焼いても・・・。少女パレアナ(ポリアンナ)はそれでは、と全種類もっていったそう?ですが。
また、「わたしはふつつかな僕です。すべきことをしたにすぎません」と言えばいいのに、「神様、これもやりました、あれもやりました。お恵みください」。毒づいてみたり。
「普段やったことが無い人ほど、何かやると、やった、やった、と思うのよ」と教えられホンとその通りだと思いました。「今日は、朝早く起きれました!」。普段起きていない人には「大改革」ですけど。普通?の人には「そんなの当たり前じゃん」と言われるほどのことに過ぎません。
勤めに行かれていらっしゃる方で、スーツのままでも台所に立って、決して服を汚されない方がいらっしゃいます。「すごいですね、どうして汚されないんですか?」と聞いたら、「どうして汚すの?」とやさしく明るく答えてくださり、「・・・・」。
この地上でイエス様のおっしゃることに従うことの幸福を良く知ることが、すなわち経験によって主イエス様を良く知ることが天国の鍵のようです。 |
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| 24 おちこぼれ ID:B4eyyi0w |
2008/10/29 04:31 |
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「こころに残る言葉」
すべてのものが次々に消えていく中、輝き続ける言葉があります。僕が安息日、伝道のため仕事を辞めて、失業中だった時のことです。そのことが、教会に「ばれて」しまいました。
教会の方が。「えー仕事やめちゃったの?」と聞いた時です。教会の長老さんで、文書伝道師の家庭に育たれた方が、さえぎるように話してくれました。「クリスチャンだから、当たり前じゃない!」今でも、涙に沸きあがっている言葉です。
そして、その週の安息日でしたでしょうか、礼拝に登壇する老牧師の方が、「おちこぼれ」にこうおっしゃいました。「仕事辞めたの、仕事辞めたの」と。「落ちこぼれ」が言いにくそうにうなずくと、こうおっしゃいました。「いつか、ああこのためだったのか、と皆が分かる日が来るよ」。
その老牧師さんは(青年のようでしたけど)、第二次世界大戦の時、天皇を神と認めなかったため、牢獄に入れられたり、迫害されたクリスチャンの方々の中の一人です。今は亡くなられましたが、その言葉は今もなお、行き続けています。
「神様は、貧乏であろうと、健康であろうと、病気であろうと、生きていようと、死んでいようと」、神様の忠実な信徒を用い続けられます。
「キリスト者の自由」「罪人の頭の上に溢れる恩寵」「天路歴程」「キリストへの道」・・・。それらは今もなお、罪に苦しむ人々に明るい光を投げています。
また、「各時代の大争闘」という本を書かれた著者は、「本書の目的とする所は、過去の争闘に関する新しい事実を紹介することではない。むしろ未来の諸事件に関係する事実と原則とを明らかにすることである。しかし、光と暗黒との二大勢力の間に戦われた大争闘の一部として見るときに、これらのあらゆる過去の記録は未来に光を投げかけ、過去の改革者たちのように、あらゆる地上の物質を犠牲にしてでも、神様の言葉のため、イエス.キリスト様のために証を立てるように召された人々の進むべき道を照らすのである」
え〜、地上のあらゆる物質を犠牲にして!う〜んと悲壮な顔をするのではない事を知っています。地上のものは、すべて主のものです。「添えて与えられるであろう」との言葉は、過去もこの御言葉に最初に出会った時でも、職がなかった時も、病気の時も、今も、そしてこれからも、永遠にわたって真実であり続けます。
そして、「おちこぼれ」は信仰がない時でも、「陰で祈るクリスチャンの祈り」により、驚異的な方法で、溢れるばかり与えられ続けています。
はっきりとわかる方法で・・・。「これは主だ」「陰のお祈りのおかげだ」と。 |
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| 25 おちこぼれ ID:SnYXU7k. |
2008/11/02 21:32 |
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「最も高価な物」
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売り払い、そしてその畑を買うのである。」
「また、天国は、良い真珠をさがしている商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」
「おちこぼれ」がイエス様への思いを失ってしまったことがあります。心になくなったのです。すると、今まで、ずっと病気がちだった身体が急に元気になり、何か健康になってきました。
その時、一つの事が痛いくらい分かりました。
「健康で、イエス様を慕う心がなくなるよりも、病気であってもイエス様への熱い思いがあって生きる方が良い!」との心の中からの叫びでした。
そして知ったのです。「信仰」は自分自身のものではなく、「神様からのプレゼントだった」と。すっごくあせって必死で求めても得られるものではありませんでした。それは人間ではまったく買えないほど高価であり、また全財産売り払っても買うほど「絶大な価値がある」からだと思います。
「彼らは、この世では何の慰めもないかもしれない。しかし、主はご自身の御臨在といういつまでも続く慰めをお与えになる」
「私自身を現すであろう」とのお約束通り、どんな逆境、反対の最中であっても、「私はここにいる」といる出来事を次々の起こされます。
この祝福の現実をあまりに、あまりに軽く思っていました。
「証1つ」でもそうです。証に感動する心も、自分で感動して書いて証でさえ、「なんだこれ?」とまで、冷えてしまってびっくりしたことがあります。
「イエス様、ごめんなさい。すべてイエス様のお恵みでした。」と泣いてお詫びした時、すぐに証に感動する心が与えられ、イエス様に感謝し、すぐに周りにその話をしたことを今でも鮮明に覚えています。
主イエス様の証に、多くの方々が感動して、超音波診断装置などを寄付してくださった時のことです。その時、看護学校側から、「期限の切れた吸引カテーテル」10本欲しいといわれたことがあります。今までは、ネブライザー(呼吸療法の器具です)が欲しいといわれたら、その週の水曜日にある病棟の倉庫から、使っていないネブライザーが見つかり、許可をとってお渡しすることがあったのですが。
この時は、これが本当にみつかりませんでした。買えば1本30円?ぐらいです。よっぽど新品買おうと思いました。
八方ふさがり、倉庫に一人入って、イエス様にお詫びしました。「イエス様、今まで、心電計、超音波診断装置、輸液ポンプをいただきましたこと、すべてイエス様の御業でした。人間って小さな針1本でも用意することができないんですね」
倉庫を出ます。
すると1人の看護師が明るく、職場から来ました。「ごめんなさーい、これ期限切れちゃった」と手には10本の吸引カテーテルを持っていました。
クリスチャンにとって「本当に小さい」と言うものは何もない、という文章をみたことがあります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなた方を立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えてくださるためである。」
祈りもイエス様を慕う心も、罪を憎む心も、感謝、賛美、悔いる心、すべてイエス様が「代価を払われた」無償のプレゼントです。もちろんそれらを大切に育てるには人の側の協力も必要ですが・・・。
主イエス様は、祝福をお与えになり、人がその祝福をどう用いるか、見ておられます。 |
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| 26 おちこぼれ ID:rTOofdqw |
2008/11/07 00:18 |
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「戦いの武器」
多分、「おちこぼれ」ほどイエス様の聖なる御名を汚してきた者はいないでしょう。
ある時、教団の偉い先生が、教会にいらっしゃいました。そこでマークされたのが「おちこぼれ」。「あの変な青年」と言われ・・・。当時は、自分の心の中に湧いてくる罪と戦うために「大争闘」でした。
その時、信仰の先を行く方が先生に言います。「いいえ、あの青年は教会で一番熱心な子ですよ」。
ある時は、「おちこぼれ」の歌う賛美歌が耳にさわると他の信者さんに言われ・・・。その時、信仰の先を行かれる方が、「あなたの賛美歌が一番きれいだ」とかばってくださいました。
ある時は、「礼拝前に、なにか小さな声でつぶやいている」と言われ・・・。その時、信仰の先を行かれる方が、「熱心になれば、形じゃないのよ」とかばってくださり・・・。ふとハンナさんの事を思い出して、励まされたり・・・。
ここまで書けば、多分「こいつとんでもない奴」と気が付かれる方も多いと思います。
若い人には特別の誘惑がある、とある本に書いてありました。当時、それこそ「身体を打ち叩いて」服従させてながら、戦っていたのです。このままで一生行くのだろうか。気が狂ったのでは?「イエス様に近づけば近づくほど、罪が見えてきます」。「痛々しいほど、見せられる」と教えられていますが、あまりに大きすぎ、暗すぎ、絶望しすぎでした。
あえて、こんなことを書いているのは、もしかして誰かたった一人で、こんな戦いを、誰にも相談できずに、聖書にかじりつきながらされているかも・・・と思っているからです。
「おちこぼれ」はMAXで戦っていたので、「もし」あんた何やってんの、馬鹿じゃないとポーンと上から軽く切られたら、そこで倒れていたでしょう。
しかし、その後の人生はこのまま行くのではありませんでした。数々の経験をさせて頂きました・・・。自由にされる経験、喜びに溢れる経験、感謝溢れ出てくる経験、聖書の御言葉が次から次へと湧いてくる経験、イエス様のお約束の真実な出来事。
また、恐ろしくも、こともあろうごとに聖書の御言葉をもって人をぐさぐさに突き刺したこと、傲慢になって今まで与えられていた御言葉がとりさられる経験、イエス様への熱い思いが消えてしまう経験、裏切る経験、自分が許せない経験、祈れない経験などなど数々しました。
今、生きているのは、主イエス様、そばにいてくださる天使の方、そして、陰で祈るクリスチャンの方々のおかげです。
そして、言葉の中ではこんな言葉で助けられました。
暗黒の中にいたら、あなたが最後に見た光を思い出しなさい。
つま先から全身で悔いる心によって罪と戦っていくこと。
「悪かった、悪かった」とイエス様に詫びていくこと。
「イエス様」との御名前が悪魔が最も嫌がること。
感謝と悔いる心を悪魔は嫌がること。
少なくとも3人の信仰の友達をもって、良い証、励ます証があったらすぐに話すこと。
「聖書に書いてあるからやる」と行動を定めてしまうこと。
自我とは非常に厄介なもので、何か良いことをしようとすると、「偽善者じゃないか」「傲慢だ」「心にもないことを・・・」「人に見せようとしているんだ」と心に湧いてきたり、しないと「やらなかった」と落ち込むし・・・。「これは信仰による義だろうか、行いによる義だろうか」と悩んだり、落ち込んだりします。これは非常に馬鹿な時間をかけ過ぎますので、御言葉で殺してしまう。
「書いてあるからやる」と決めてしまうととっても楽になります。「信仰による義?喜んで行うことよ。やったことを忘れているの」
信仰の戦いを通った先輩から、絡みつく罪のもつれを切り開く剣が与えられています。
絡みつく罪と戦っていた時、信仰の先輩の方が他の方に涙ながらにこう話していらっしゃいました。 「見ているだけで痛々しい。みなさんもっと真剣になりなさいよ」。
「人間が天国でどうして誉められるのか、目に見えない神様を信じて来たからほまれられるんだよ。罪にそまった人間が『私の名のために、罪を捨てたのか』と誉められるんだよ」。
罪を愛している罪人が罪を憎むようになる、これは最高の奇跡の一つです。 |
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| 27 おちこぼれ ID:rTOofdqw |
2008/11/07 10:19 |
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「イエス様の贈り物」 その1
それこそ、「おちこぼれ」が身体を打ち叩いて服従させていたときです。「あれもできていない、これもできていない。これもやらない、あれもやらない・・・」と必死???でした。
ある集会でした。信仰の先を行かれる方が、心に染みわってくる言葉で、「それは、自己と戦っていないだろう。イエス様に逆らっているだろう」と話されました。その言葉は、すーと心の中に入ってきました。身体から力が抜けて、心が和らげられ、解かれていきました。
「自己と戦わねば・・・、これをやらねば・・・、これが自我だった」と気づかされ、頑なに固まっていた心が和らげられ、そして解放されたのです。
「御言葉をやらねば、やらねば・・・」という心が、「御言葉をやっていきたい!」という心に変えられたのでした。それまでの「神様に怒られている、叱られている。神様は怖い」との心がなくなるのです。何とか無くそうと格闘していましたが、なくなりませんでした。
しかしこの時から、「神様は自分の幸せになることしか、おっしゃっていないじゃないか」と気づき、「神様は愛だ!」という心に変えられたのです。「仕えるって何て幸せな心なんだろう」「だから、イエス様は仕えなさいとおっしゃったんだ」と気づきます。
白黒の世界がカラーになるとの証も聞きましたが、周りの目に見える景色までもまできれいになったかようでした。「あれ、パソコンの色ってこんな色してたっけ?」
職場に行くと笑顔で喜ばれ、「あなたを見てると幸せが移ってくる」と言われ、喜んで証を聞いてくれました。自然食のお店では、店員の方が「今、ちょうどわたしが、『やらねば、やらねば』という状態だったの」ととっても喜んでくださいました。
何も知らない患者さんからは、「君、クリスチャン?君から良い光がでているよ」などなどと言われました。
「おちこぼれ」にとっては、万事休すの崖っぷちから救っていただいた尊い、尊いイエス様の贈り物です。
しかし、ここから、また主イエス様の不思議な本当に測り知れない憐れみ深いお導きが「始まる」のです。それは、黄金以上の測り知れない恵みなのですが、記憶に間違いがなければ、「魂に差し込む一筋の光」それは、「永遠の命の始まりである」と書いてあった通り、「始まり」でした。
「信仰による義のメッセージ、わたしたちはその栄光をほんのわずか、かいま見たにすぎない」と読んだことがありますが、本当に「測り知れないお恵み」です。
「この経験が自分のものになったからといって、クリスチャンは手をこまねいている時間はない。生まれ変わっていない性質が暗黒の勢力に後押しされて、向かってくるのに気づくだろう。」
ある時、「おちこぼれ」が自分で書いていた証に感動しなくなっていることに気づきます。読んでも、読んでも感動がなく、ただ文字の羅列でしかありませんでした。「大変だ!」と思い、涙ながらに祈ります。すると、また感動して証を読んだり、書いたりさせていたたくことができました。
しかし、またこれから主イエス様の測り知れない恵みは続いていきます。「あらゆる良い贈り物は天の父なる神様から来ます」。
証をしていると「感動したよ」「表情でわかるよ」「表情に出ているよ」「あなたに会えてよかった」とおっしゃってくださいます。
「おちこぼれ」がとっても罪深いので、いつでも教えていただく必要があるのです。「これは、お前のものじゃないよ。全てイエス様がお前の幸せのためくださった、お前になくてならない贈り物なんだよ・・・」と。 |
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| 28 おちこぼれ ID:rTOofdqw |
2008/11/07 23:02 |
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イエス様の贈り物 その2
その後、「おちこぼれ」がそれこそ証に熱中していた時です。日本人でイエス様の話を聞くことって受け入れ入れられないのかな?と「思い込んでいた」のに、次々と道が開かれていきました。
「クリスチャンはイエス様の約束が真実であったことを語ることができる。この証が欠けているために、教会は死に瀕しているのである」
そうだよ、聖書の中に書いてあるイエス様の約束、それは文字ではなく、生きている、現実の起こってきたじゃないか。しかも、その証は証すればするほど、「さらに増えていく」。タラントのたとえって現実なんだ。「与えよ、そうすれば与えられるであろう」この約束も本当だ。与えられるばかりではなく、イエス様のお恵みがどんどん見えてくるし・・・。今まで、与えられていなかったんじゃない、見ようとしていなかったんだ、忘恩の罪だったと気づきました。
さて、伝えることに熱中していたある時、「あまり走りすぎるな」と教会で優しく注意されました。しかし、言うことを聞かなかったのです。
だんだん、顔が赤くなって、だんだん頭痛がしてきました。「血管が切れるかな?」と思いましたが、もともと「拾われた命」「価値の無い自分」と思っていましたので、意に介しませんでした。
ある集会で、信仰の先輩の方が祈ってくださいました。顔から血が引いて、心が楽になりました。
その時、「自分はこれで死ねたら本望、きれいな死に方をしたい。それがむしろ幸せぐらい」と思っていた?、というより思い込んでいた者に対して、主イエス様の「生きよ」という「罪人の思いを考え及ばないほど、広く、スケールの大きな包みこむ愛」を知ったのでした。
そして、一人で勝手にいっぱいに重荷をかき集めていた「おちこぼれ」は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとへきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」との御言葉をいただいたのです。
その経験を友達に話すと、「えー今頃気づいたの?」と言われ、顔が赤くなりました。しかし、彼はその後、「そういや、こういう証、教会で聞かれなくなったね」と話していました。
主イエス様の憐れみにより、心に休みが与えられると見えて来たことがありました。「あれ、人間って、みんな重荷を背負っているんだ」と。地位や責任、体面の下にさえ、罪や悩みなどいっぱいに背負っている姿が見えてきたのです。
イエス様の御前には、天皇も、昨日泥棒して悔いた人も同じ・・・。
「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。それは、泥棒に対する招きだと思っていました。しかし、それはいっぱいに肩書きを持っている人に対しての招きでもだったんだなと。「肩書きのない落ちこぼれ」も気づくことができました。
主イエス様は日ごとにお教えになる。人は一歩ごとに助言を必要としている、とはいつでも真実です。 |
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| 29 おちこぼれ ID:czvUI5JU |
2008/11/08 22:07 |
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スレッドが長くなってきましたので小さな証(8)に移ります。
ひかりさんよろしくお願いします。
このスレッドでは、個人的な経験、主に内的経験について書いています。 |
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