| 1 ワタシんち ID:f2m7Bj3U |
2008/06/15 15:40 |
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矢島さんへ
「聖書を読むならどこから?」のスレッドで、新改訳聖書のことを一教派の一教団にしか通用しない訳だとおっしゃったので、ワタシは、プロテスタントの多くの教派・教団で使用されていて別に問題がないことを申し上げました。
ワタシからは、矢島さんにいったい新改訳聖書のどの部分が、偏狭な訳なのかそして、一教団一教派にしか通用しないのか、一つ例を挙げて説明してくださいと申し上げました。回答はこちらにお願いします。 |
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| 14 ワタシんち ID:hr4PFvRQ |
2008/06/17 05:48 |
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矢島さん
結局、その訳の違いが、解釈にどう影響しているのですか?
偏狭というだけの影響があるのですか?
ハレルヤ太郎さん
何がどう要注意なのですか?
まったくもって。って。
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| 15 矢島 ID:7jURA2Qk |
2008/06/17 06:23 |
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ワタシんちさん
居直らないで下さいよ。
例をあげろとおっしゃるから、あげてるのであって・・・
まず、「欠いてる」ことはどうなんです?
他の訳は(英訳やフランス・ドイツ訳も)聖句を抜いてはいませんよ?
ちゃんと解説はしますが、もう少しキチンとした受け答えをお願いします。 |
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| 16 矢島 ID:7jURA2Qk |
2008/06/17 14:32 |
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参考として・・・英訳各種の平行箇所を見てみます。
The sabbath was made for humankind, and not humankind for the sabbath; 【so】 the Son of Man is lord even of the sabbath. (NRSV)
The sabbath was made for man, not man for the sabbath. 【That is why】 the Son of Man is lord even of the sabbath. (New American Bible)
The sabbath was made for man, not man for the sabbath. 【So】 the Son of Man is Lord even of the sabbath. (NIV)
Der Sabbats ist um des Menshen willen geschaffen und nicht der Mensh um des Sabbats willen. 【So】 ist der Menshensohn ein Herr auch uber den Sabbat. (ルター訳:ドイツ語)
このように、いずれも「それだから」を訳出している。
なぜ、<新改訳>だけが、ここを削除しているのか?
「聖書は誤りのない神のみことばであることを信じる学者によって原典に忠実に翻訳された・・」(新改訳HPより)
はずなのに、なぜ、このような箇所が有るのか?
もうひとつ・・<新改訳>は、刊行するにあたって資金援助を受けたというロックマン財団が発行する「New American Standard Bible」の翻訳方針に倣ったというのだが、あいにくこれが見つからない。
いま、持っている方がいないか探してるところです。 |
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| 17 ハレルヤ太郎 ID:sAF2/XmQ |
2008/06/17 20:05 |
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矢島さん、分かり易い説明ありがとうございます。
多くの問題を抱えている新改訳聖書を礼拝などで朗読しないように、各方面で話し合いましょう。
ハレルヤ。
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| 18 矢島 ID:7jURA2Qk |
2008/06/17 20:19 |
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ハレルヤ太郎さん
ボクはカトリックでしたので、プロテスタントの方は疎いのですが、福音派や聖霊派以外の教派の礼拝でも<新改訳>は使われているんですか?
通常の使い方(読み方)なら、それほど問題とも言えません。
全く違う話が書かれているワケでもありませんから。
でも「良い翻訳」とは、どういうものか?
と考えた時には、やはり選ばれるべきものが決まってくると思いますし、研究となれば尚更です。 |
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| 19 ワタシんち ID:/IoW2QTw |
2008/06/18 02:29 |
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矢島さん
すみません。ワタシは、居直ったつもりはなかったです。
矢島さんの冷静かつ適切なアドバイスに、注目するあまり少し文章が乱雑になりそういう印象を与えてしまい申し訳ないです。
新改訳聖書が他の聖書と違った点を明らかにしてくださり、よく理解できました。ワタシが、「結局、その訳の違いが、解釈にどう影響しているのですか?偏狭というだけの影響があるのですか?」と問い直したのは、ハレルヤ太郎さんが反応したように、新改訳聖書が要注意なのか?そして、「多くの問題を抱えている」のか?もっと突っ込めば有害なのかを知りたかったのです。それは自分達の信仰に関わってくるからです。それに、ワタシやハレルヤ太郎さんが、感じた反応は、これを読むすべての人に影響を与えることになるから、確認しておきたかったのです。
16と18で一応納得はしています。矢島さんからすれば悪くはないが良いとはいえないという判断でよろしいでしょうか。
ワタシは、これからは、教会でのメッセージで取り上げられた箇所を、Jバイブルを使い口語訳と新共同訳とを照らし合わせて読みたいと思います。
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| 20 ワタシんち ID:/IoW2QTw |
2008/06/18 02:35 |
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矢島さんへ
プロテスタントでは、けっこう幅広い教団教派で、新改訳が使われているというワタシの認識は、間違っていると思われますか?大手のキリスト教書店を傘下に持つ出版社から出ていることと、超教派の集会でも用いられていたこと、旅先で立ち寄った教会で、けっこう幅広く使われていたので‥‥これは、聖歌についてもいえることです。 |
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| 21 矢島 ID:Qfsc9z0Q |
2008/06/18 06:29 |
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ワタシんちさん
ご理解いただいて感謝します。
プロテスタント系諸教会にうち、どのくらい<新改訳>を使用しているのか、ボクには判りません。
ボクも二十歳の頃、カトリックで<新改訳>の新約だけですが、使っていましたので、ケッコウ普及しているのではないかと思います。
(旧約は新改訳には第二正典が含まれないため、新共同訳が用意されていました)
もちろん書店ルートに乗った販売ですから(いのちのことば社)普通の書店にも置いていますし、カトリック系の書店にもあります。
この<新改訳>の特質を知った上で読まれる分には、なんの問題も無いと思います。
これから初めて読まれる方には、適切ではないということです。 |
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| 22 矢島 ID:Qfsc9z0Q |
2008/06/18 08:33 |
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それで・・・
<解釈にどう影響しているのか・・偏狭というだけの影響があるのか・・有害なのか>
ということですけど、さすがに有害とまでは言いません。
この削除箇所が、どういう意味かは以下で説明します(ただし私見)。
27節と、28節は実はこの削除された「それだから」が繋いでいます。
そのキーワードは「人の子」です。
2:27また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
2:28それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
この聖句の箇所を読むと、イエスはかなり投やりな、というか手厳しく撥ね付けています。
歩きながら傍らの麦の穂を、手で摘んでつまみみ食いした弟子を咎められた時のイエスの切り返しです。
このあとの3章のあたま、(別のエピソードですが)安息日に手の不自由な人を治す場面があります。(マルコ3:1~5)
ここでもファリサイ派はイエスの行動をうかがっている。
そこでイエスは「安息日に善を行うことと、悪を行うことと、また、命を救うことと、殺すことと、どちらが律法にかなっているか」と質問します。
これはゴチャゴチャ言うな、ちょこちょこ出てきちゃ律法律法、ウルセェな・・・そんなニュアンスでしょうか。
そもそも、安息日に病人を手当てしたり、出産の介助をすることは認められていました。
そりゃ、ユダヤ人だって産まれそうな子に「安息日だから明日にしろ」とは言わないですから。
なので、この麦の穂のつまみ食いを「収穫した」と非難する者に、かなり激昂して答えている様子が読み取れます。
「別に、カマ持って刈り入れてるワケでも、担いで倉に運んでるワケでもないんだから、そんなに堅ッ苦しいこと言わないでよぉ」と言ったって良かったかも知れないのに、ちょっとムカッときたイエスはビシッと言ってしまうわけです。
「人間のために安息日は作られたんだろうが?」
「人間が主であって、安息日が従なんだよ・・バカ」
つまり、27節の「人」と28節の「人の子」は、同じです。
それを繋ぎ、文章的に連絡するのが「それだから」です。
では、この「それだから」をカットしてしまうとどうなるか。
27節と28節は分離されてしまいます。
「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」
で、終わってしまって、次の・・・
「人の子は、安息日にもまた主なのである」
は、独立した聖句になってしまう・・・というか、そう読み替えることが可能になります。
この場合、28節の「人の子」は「一人の人」からダニエル書からの解釈である「人の子=メシア」と解釈できるわけです。
メシアである、遣わされた人の子は安息日(律法)の主である・・・と。
どうして、これが福音派的解釈なのか、という点について、英訳聖書の中でも「根本主義に著しく偏った翻訳」と定評(?)のある「The Living Bible」では、どうなっているか見てみます。
But the Sabbath was made to benefit man, and not man to benefit the Sabbath. 【And】【 I, the Messiah,】 have authority even to decide waht men can do on Sabbath days!
ビックリしますね。
削除ではなく・・・「それだから」は「そして」に変えられ、「人の子」は「メシアである私」に変えられています。
これはもはや訳の良し悪しではなく、改竄です。
ボクは英語は堪能じゃないのですが、読める方には、イエスが安息日に対しても権威有る者と語られていませんか?
このあたりが、「聖書信仰」と言いながら聖書に書かれた意味よりも、自らの信仰を上に置く【偏狭】な翻訳と言ったワケです。
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| 23 矢島 ID:Qfsc9z0Q |
2008/06/18 11:08 |
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口語訳の翻訳が優れているのではないか、という一例ですが・・・
これはボクのノンクリスチャンの友人が教えてくれたものです。
ルカの11章41節において・・・
<口語訳>ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。
<新共同訳>ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
<フランシスコ会訳>ただ中にあるものを施せ。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとって清いものとなる。
<新改訳>とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
口語訳だけが、内側も「清めよ」と訳し、他の三つは共に「施せ」としています。
少しこの前後を(38節くらいから)読まれると解かると思うのですが、これはどうみても「清めよ」とした<口語訳>が正しいように思います。
他の三つの「施せ」は、文脈からみて唐突です。
ですけど、ギリシャ語では間違いなく「施せ」なのです。
それでこの友人の考えにボクの考えを加えて解釈してみます。
ルカが福音書執筆にあたって、先行する「マルコ福音書」や原始資料を参考にしたとされますが、そのなかにいわゆるQ資料(語録資料)もあったと考えられています。
このQ資料の一部には≪アラム語≫による資料があったはずだ、ということが、マタイ23:26とルカ11:41の比較でわかるのだそうです。
≪アラム語≫による資料はもちろん確認されていませんし、通常、ギリシャ語であったと考えられていたQ資料自体も現存するワケではありません。
しかしギリシャ語版とアラム語版の両方があって、ルカがそれを使った可能性が考えられると。
アラム語の表記において、「zakkau=施す」と「dakkau=清める」はよく似ているのだそうです。
可能性のひとつには、その資料には実際に、「zakkau=施す」と書かれていた場合。
もうひとつは、本当は「dakkau=清める」と書かれていた場合です。
アラム語資料に「dakkau=清める」と書かれていたのをルカが読み違えたのかも知れませんし、資料製作者の記録ミスも考えられますが、信頼できる新約聖書学者のひとりは「ルカはアラム語もヘブライ語も話せなかった」といいます。
ギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスタイ)のグループに居ましたからね。
そうすると、ルカは「dakkau=清める」を読み違ってギリシャ語で「施す」と書いてしまった可能性が高くなるのではないでしょうか。
<新共同訳>その他が、「施す」と訳しても、間違いではありません。
ギリシャ語でそう書いてあるんですから。
しかし<口語訳>編纂チームは、上記の可能性に辿り着き敷衍して訳出したのかも知れません。
じつはこうした作業がなければ、聖書の世界を活き活きと描き出すことは出来ないと考えます。
もっと言えば、あらゆる学問の力を借りて、更には優れた小説家の想像力をも動員して当時の人々の生きた暮らしに迫らなければ、本当の言葉は伝わらない・・・そう考えています。
教会が伝える教義だけでは・・・彼らの思いは我々の中に蘇えらない。
翻訳はその最初の入り口を担う大事な役割があると思います。
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| 24 横槍権左右衛門 ID:xkrQthuM |
2008/06/18 13:58 |
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矢島さんは、あたかも新改訳だけが特異な訳出をしているかのような書き方をされておりますが、新改訳だけではないでしょう?
接続詞が訳出されないことは、諸訳にしばしば見られることです。
矢島さんはマルコ2:28のhwste(ホーステ、それだから、so that)が新改訳で訳出されていないことを指摘しておられますが、一方、新共同訳ではマルコ2:12のhwste(ホーステ、それだから、so that)が訳出されていません。
<口語訳>すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行った【ので】、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
<文語訳>彼おきて直ちにとこを取り上げ、人々の眼前いで往け【ば】、皆おどろき、かつ神を崇めて言ふ『われら斯くの如きことは断えて見ざりき』
<新改訳>すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。【それで】みなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。
<岩波訳>すると彼は起き上がり、すぐに寝床を担いで、皆の前から出て行った。【そこで】皆の者は正気を失うほど驚き、神を賛美して言った、「こんなことは、俺たちは今まで見たことがなかった」。
<フランシスコ会訳>すると、その人は起きて、すぐ寝床を持って、すべての人が見ている中を出て行った。【それで】すべての人は驚嘆し、神をほめたたえて、「このようなことは、今までに見たことがない」と言った。
<共同訳>すると、その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。【それで】、人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
<新共同訳>その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
ちなみにアメリカの福音派の翻訳であるNIVでは訳出されておりません。NRSVでは【so that】と訳出されています。
おそらく矢島さんは、「マルコ2:12は訳出されていなくても影響は無いが、2:28は影響ある」と言うでしょう。しかしそれほど決定的なものでしょうか?
ちなみに、ヨハネ3:16のgar(ガル、なぜなら、for)は口語訳や新共同訳では訳出されていません(フランシスコ会訳、共同訳も訳出していません)。文語訳では「それ」、新改訳では「実に」。新改訳の「実に」という訳はgarの意味からは支持されないと思います。岩波では「つまり」。これがまだまともかな。
ヨハネ3:16は15節との強い関連の中で語られるべきですから、gar「なぜなら」を訳出しないのは問題があります。この箇所のgarを訳出しない考え方の背後には、3:16を孤立して暗唱聖句的に理解する傾向があるからではないでしょうか。マルコ2:28の接続詞を翻訳しなかった新改訳同様、ヨハネ3:16の接続詞を翻訳しなかった新共同訳も、問題があると言わざるを得ません。
ほんの一例ですが、訳出されていないことの是非論は別としても、諸訳には訳出されていない箇所が少なからず存在するわけです。どの翻訳にも一長一短があるわけですから、互いに虚心坦懐に認め合うことが大事ではありませんか。私は個人的には岩波訳を好んでいますが、だからと言って他訳を否定するつもりはありません。
矢島さんが、(おそらく)「新改訳は福音派の聖書だから嫌いだ」というのはよく分かりますが、だからと言って、新改訳だけが、翻訳上の問題があるというのはいかがなものでしょうか。その点だけは、一言いわせていただきます。横槍、失礼いたしました。 |
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| 25 矢島 ID:Qfsc9z0Q |
2008/06/18 15:18 |
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横槍さん
<どの翻訳にも一どの翻訳にも一長一短があるわけ長一短がある>というのは、その通りだと思います。
ただ、同列に一長一短ではないとも思います。
やはり、優劣はあるでしょう。
協会訳をメインにするのは、それが委員会訳であり、複数の専門分野に分かれて、また合体してという仕事だからです。
やはり研鑽の水準は高いと思いますよ?
だからといって、他訳を否定はしていません。
フランシスコ会訳も用いるのは、それがカトリック訳だと解かった上で、しかも教派に寄り過ぎてはいないと思われるからです。
(分冊の訳注も欲しいしね・・・でも少ししか買えてないけど)
既に書いていますが、<新改訳>には、時間的に言えば他の訳より数倍長く馴染んでいますから、日本語のリズムとしては、むしろ一番好きかも知れません。
ここで言っているのは(実際は前のスレですけど)ひとつの教派の信仰ベースで翻訳されたものは、初めての方に適切ではないということです。
もちろん<新世界訳>だって、ひとつの教団の教義ありきで作られていますから、初めての方には勧めませんが、これは一般では出回っていませんから、それでいいのです。
ヨハネ3:15~16は見落としていましたが(というか、全部を検証しまくってる訳でも無いですが)
ここは、問題ないでしょう?
むしろ、文節を開けても良いくらいじゃないかな?
(正直に言うと、ボクはヨハネが得意じゃない^^)
横槍さんは、ずっとこのHNで行くのかな・・? |
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| 26 矢島 ID:Qfsc9z0Q |
2008/06/18 15:29 |
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すみません^^;
一行目がディレイしてしまってます。
なんでだろ・・コピペが飛んだみたいな感じだな・・・
失礼しましたm(_ _)m |
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| 27 ハレルヤ太郎 ID:UWZx/bxg |
2008/06/18 16:01 |
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新改訳聖書は多くの教団、教派からソッポを向かれ始めています。
それは時代の必然といえましょう。
新改訳聖書から新共同訳聖書に切り替えている教会が増えています。
逆に、新共同訳から新改訳聖書に切り替えている教会の話はあまり聞きません。
それはなぜか、勿論、新改訳聖書の訳に多くの問題があるからです。
どういう問題があるかは、ここで矢島さんが説明してくれたことでお分かりいただけると思います。
これだけ人気薄になると、近い将来、絶版ということも考えられます。
多くの人が、新改訳聖書を離れ、新共同訳聖書に切り替えることを祈っています。
既にカトリックや日本基督教団、聖公会、ルーテル教団は新共同訳聖書以外は朗読されていません。また、それ以外の多くの教団でも正式に新共同訳のみを選択しています。
恐らくこれらの信者だけで、日本のクリスチャンの約9割ほどになるはずです。
まだ、新共同訳を正式に礼拝の朗読として定めていない所は、早急に対応した方がいいでしょう。でないと、時代に遅れます。
時代は常に流れています。その流れに乗り遅れることは、恥ずかしいことです。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
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| 28 横槍権左右衛門 ID:xkrQthuM |
2008/06/18 17:43 |
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矢島さんへ
レスを下さりありがとうございます。
細かいところに噛み付いて申し訳ございませんが、また一言、横槍を入れさせてください。
委員会訳だから研鑽の質が高い、のでしょうか。
そうであれば、岩波訳とか田川建三訳というのは研鑽の質が低いということになるでしょうか。そんなことはないでしょう。個人訳であっても研鑽の質が高いものは高いわけです。逆に言えば、新改訳なんぞも委員会訳のわりにあの程度といわざるを得ない。
まあ岩波訳や田川訳が教会の礼拝で朗読されるとは思いませんから、あくまでも礼拝に資するという範囲での評価ということかもしませんが、それでも五十歩百歩だと思いますよ。
結局のところ、原語で読める人は何訳であろうと翻訳聖書を相対化できるわけです。一方、原語で読めない人は、ただ一つの翻訳聖書だけが頼りというのでは困る。やはり諸訳を並行して読むようでないと。
異なる背景を持つ諸訳が互いに競い合いつつ多様性を持っているほうが、我々にとって好ましい状況だと思います。新共同訳がより良い訳になっても、それでも完全な翻訳はありませんからね。
新改訳の背後にある思想を受け入れがたいというのはよく分かります。私も同様です。しかし背後にある思想と、翻訳の優劣はまた別問題なのではないでしょうか。私は上に挙げているように岩波訳を好んでいますが、それは彼らのスタンスが教会から距離を置いているからです。しかしそういう思想を持っているからこそ、別の背景から生まれた翻訳聖書が必要なのです。より偏らないために。
ヨハネ3:15と16に文節を入れるは結構ですが、そうであれば、なおさらgar(なぜなら)を訳出しなければいけないのではありませんか?garを訳出もせず、文節も入れなかったら、garの存在を無視することになりはしませんか?
もうこれで私の横槍は終わります。
大変失礼いたしました。 |
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| 29 矢島 ID:Qfsc9z0Q |
2008/06/18 19:22 |
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横槍さん
これで終わりということなので、レスはいりません。
確かにボクも岩波訳はよく用いる方ですし、すぐれていると思います。
全部、揃ってないのが残念ですが・・・
関根正雄訳は、教文館からも出てますが、岩波の方が注解つきで使いやすいようです。
教文館版は読んでいませんので・・・メチャ高いし。(旧約)
しかし、田川先生も指摘されておられるように、その人生の大半を旧約聖書に捧げられたからこその大仕事であったと思います。
この個人訳で大変な成果をあげられた無教会系の聖書学者たちですが、時代の流れというか・・・塚本・関根、両先生もすでに他界されていますし、後継の手により、岩波が全巻揃い踏みということには、どうも成りそうに無い。
やはり無教会の礎の上に、これからは協会訳に期待するのが最善と思われますよ。
そりゃ原語で読みたいのはやまやまですがね。
聖書の場合、ビートルズの詞を英語でとかいうのとは、ワケが違って、ギリシャ語、アラム語、ヘブライ語の三つが必要なのと、かなりの水準で読みこなせなければ意味が無いので、ふつうは無理です。
だからこそ、翻訳の限界はあるとしても優れた訳を求めるわけでしょう?
田川先生も、協会委員会訳の水準は評価されていると思いますよ?
そういえば、田川先生の『マルコ注解』がそろそろ出ますので、心待ちにしているところです。
ボクの住んでるところは、幸い、田川先生宅に近いので、また「私塾」の企画があがれば嬉しいなと期待してます。
しかし、横槍さんのご意見は全体に、原意を読み込んでいこうとされる方むけの見方であり、それはそれとして有り難く受け止めておきます。
ボクのこれまでの意見は、教会礼拝用というのでもなく、あくまで<初心者に推薦できる>聖書ということです。
ありがとうございました。 |
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| 30 匿名さん ID:Acyl00ig |
2008/06/20 15:35 |
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原語で読みたい方へ
「旧約聖書ヘブル語大辞典」
「新約聖書ギリシア語小辞典」
どちらも教文館から出版されてます。 |
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| 31 横槍権左右衛門 ID:RXZIx3zA |
2008/06/20 19:00 |
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これで終わりますと言っておきながら、追加を書いてすみません。
私の言う岩波訳とは関根訳のことではなく、1995年の新約聖書翻訳委員会訳の新約と、1997年の旧約聖書翻訳委員会訳のことです。○○委員会訳となっておりますが、「最終的には個々の訳者が文責を負う」となっております。
さらに、岩波訳は新共同訳に対して「重要ないくつかの箇所において、カトリック神学の影響を強くにじませている」と批判しております(「はしがき」より)。私もこの批判に同意します。
ですから、新改訳が福音派の神学の影響を強くにじませているという矢島さんの批判は(その批判はそのとおりですが)、そのまま同じ理由で、新共同訳にも当てはまるということです。
神学的に無色無臭な聖書翻訳はありえません。
新改訳は福音派の色や臭いがする翻訳、新共同訳はカトリックとメインラインの色や臭いがする翻訳、そう割り切って使うならどれを使ってもいいんじゃないですか。
なお、初心者がはじめて買う聖書だったら、「新共同訳・旧約聖書続編つき」をお勧めします。理由は、続編がついている、というただそれだけの理由です。 |
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| 32 ハレルヤ太郎 ID:TX4cSQik |
2008/06/21 12:57 |
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さて、ここで、中間のまとめをしたいと思います。
現在、日本のキリスト教では正統的なキリスト教会のみならず、約90パーセント以上の教団やグループがミサや礼拝で新共同訳聖書を使っています。
そのことからも、やはり新共同訳聖書が最も良いという意見がこの掲示板でも多く見られました。
それに比して、新改訳聖書に関しては、正統的なキリスト教会や日本基督教団などではただの一度もミサや礼拝の中で使われたことが無い歴史的な事実を踏まえて、その存在自体を疑問視する声が続出しました。
また、訳に問題があることも指摘されましたね。そこには、福音派と呼ばれるキリスト教界の中にあって極少数にしか信じられていない限定的な教義を背景に翻訳が行なわれた事実が原因とされているわけです。
そこで、この掲示板では多くの人が、新改訳聖書に異議を唱え。
初めて聖書を読む人にはお勧めできないということで、多くの意見が書かれました。
全くハレルヤです。
新改訳聖書を使うことは、エキュメニカルな立場からも疑問ですね。
今、多くの教団やグループは新改訳聖書にソッポを向いています。
そこに歴史の必然、神の力を感じます。
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| 33 矢島 ID:UjqYDGL. |
2008/06/21 13:35 |
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あ~委員会訳・・・のことね。
てっきり一般的な塚本・関根訳のことだと思っていました。
しかし、委員会訳をいったい何人の人がメインに用いているのか・・・ということはさておいて。
委員会訳はあいにく読んでいませんので、それに対しての評価はここでは出来ませんが、教会から距離をとったスタンスというのは、そのとおりだとしても、必ずしも文献学的にも「良い評価」ばかりを聞くわけでもありません。
フランシスコ会訳分冊には及ばずとも、それに次ぐ訳と註は評価されているようですが。
<岩波訳は新共同訳に対して「重要ないくつかの箇所において、カトリック神学の影響を強くにじませている」と批判しております>
聖書はそもそも、原始教団の信仰ベースで書かれた物ですから、ある種の神学の影響は当然あって然るべきです。
「重要ないくつかの箇所」とは、具体的に何処でしょうか?
なぜなら、神学的影響は「在る」としても、それは現代と言う(学究的成果を踏まえた)時代感覚に応答するものであるべきだと考えます。
つまり・・・程度問題。
カトリック神学に寄り過ぎたものであるならば、それも問題ですが、今のところ度を越したものを<新共同訳>に見つけていませんので、ぜひ、お知らせください。 |
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| 34 横やり第二号 ID:AFTNnqto |
2008/06/21 13:57 |
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ご参考までに。
新共同訳と新改訳の普及率ですが、
結論を言いますと、新改訳は新共同訳の足元に及びません。
新改訳は、そのほとんどを「聖書信仰」を標榜する教派の教会のみでしか用いられていません。
ところが、新共同訳は、プロテスタントのみならず、カトリック、聖公会の教会でも使用されています。
さらに、教会だけではなく、キリスト教主義学校で用いられている聖書と言えば、おおむね新共同訳です。
もっと言いますと、一般の出版物等で引用されるのは、間違いなく新共同訳です。
このように、新共同訳聖書の一般社会における浸透度は、新改訳の比ではありません。 |
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| 35 横槍権左右衛門 ID:UnBibhS. |
2008/06/21 16:54 |
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矢島さんとの対話がかみ合っていないことを憂慮しつつ、質問に対して分かる範囲でこちらの見解をお示しいたします。
その前に。私が指摘したかったことは、翻訳の限界を知った上で使うならば何を使ってもよいのではないかということです。翻訳の限界を示したまでに過ぎず、新共同訳を否定しようという意図ではありません。
>カトリック神学に寄り過ぎたものであるならば、それも問題ですが、今のところ度を越したものを<新共同訳>に見つけていませんので、ぜひ、お知らせください。
まず岩波の委員会訳の委員の方々(佐藤研氏や月本昭男氏など、日本聖書学研究所の方々)が、どのような点で新共同訳のある箇所にカトリック神学の影響を見て取っているのかは彼らに尋ねるしかありません。私には答えることができません。
とりあえず、私が気になる箇所は、
ローマ1:17a「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」
特に「初めから終わりまで信仰を通して実現される」の部分。
原文 ek pistews eis pistin
口語訳「信仰に始まり信仰に至らせる」
新改訳「信仰に始まり信仰に進ませる」
岩波訳(青野太潮訳)「それは信仰から〔出て〕信仰へ〔と至るのである〕」
直訳すれば「信から信へ」(神の真実・忠実か、人の信仰かはさておき)となるでしょうから、岩波訳のようにそれ以外の部分は括弧に入れておくか、せいぜい口語訳や新改訳のような表現どまりでしょう。
それを新共同訳が「初めから終わりまで信仰を通して実現される」と訳すのはどのような根拠があるのか。パウロの信仰義認論を弱めようとしているのか。などといろいろ勘ぐりたくなります。
この点を田川建三氏の批判を引用して私の指摘の代わりとさせていただきます。田川氏の批判は直接は共同訳へのものですが、その批判は新共同訳にも当てはまります。というのは共同訳も新共同訳と同じく「初めから終わりまで信仰を通して実現される」と訳しているからです。
田川建三氏「「初めから終わりまで信仰を通して実現される」も、相当に行過ぎた「解釈」である。原文は単に「信より信へ」とあるだけである。「初めから終わりまで」などと補うのも「訳」としてどうかと思うが(これはTEVの直訳、from beginning to end。原文を訳さないで、TEVを訳している!むろんそんな句は、原文にはどこにも見当たらない)、「実現される」という動詞を補うのは、いくらなんでもパウロ神学を知らなすぎる(神の義が人間の信仰を通して実現される、などと言われたら、パウロはひっくり返って驚くだろう)。」(『書物としての新約聖書』p.659)
「翻訳者はうそつきだ」というイタリア語の格言にもあるように、異なる言語間で、完全に同義な翻訳はありえませんし、であればこそ、そこに翻訳者による恣意的な判断が入る余地があるわけです。
私はローマ1:17aの新共同訳のような翻訳もひとつの訳としてありえると思いますし、同様に、矢島さんが指摘したマルコ2:28の新改訳のような翻訳もひとつの訳としてありえると思います。その妥当性を私は論じることができません。初心者が読むに当たって、そんなに青筋を立ててまで否定すべきものではないと思いますがいかがでしょうか。
なお「新共同訳がプロテスタントのみならず」という横やり第二号さんの指摘は、いわばトートロジーであって、新共同訳が諸教派の共同作業から生まれたことを知っているなら言わずもがなですよ。
それとマジョリティーだから良いという意見に私は賛同できません。どの翻訳に限界がある以上、諸訳を読めるほうが良いと思います。私は多様性を認めたほうが良いと思います。
個人的には、初心者には、新共同訳・旧約聖書続編つきをお勧めいたします。理由は上述したとおり、続編が読めるからというただそれだけの理由です。矢島さんが別スレで述べているとおり、大は小を兼ねますから。その点は私も全く同感です。 |
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| 36 横やり第二号 ID:AFTNnqto |
2008/06/21 19:29 |
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横槍権左右衛門さん、
>それとマジョリティーだから良いという意見に私は賛同できません
このレスが、もし私へのレスだとするなら、あなたは間違っています。
なぜかというと、私は「マジョリティーだからよい」とは、一言も言ってはおりませぬ。
それから、これも。
>なお「新共同訳がプロテスタントのみならず」という横やり第二号さんの指摘は、いわばトートロジーであって、新共同訳が諸教派の共同作業から生まれたことを知っているなら言わずもがなですよ。
私は、上の方にあった、新改訳と新共同訳の普及率について、ほんの少しだけその方面の事情を知っている者として、参考までに書いたまでです。
つまり、「新共同訳が、教派を超えて幅広く使われているので、その普及率は新改訳の比ではない」と言うことを言いたいわけです。
私の書き込みの最初に、ちゃんと断ってあるでしょ?
おわかりいただけましたでしょうか? |
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| 37 ワタシんち ID:YfGdL.ec |
2008/06/21 20:28 |
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ハレルヤ太郎さん
なぜあなたが、中間のまとめをなさるのか訳が分かりませんが、ここは、特定の訳の聖書を糾弾し排撃する場なんでしょうか?
○現在、日本のキリスト教では正統的なキリスト教会のみならず、約90パーセント以上の教団やグループがミサや礼拝で新共同訳聖書を使っています。⇒この数字の根拠は?
○そのことからも、やはり新共同訳聖書が最も良いという意見がこの掲示板でも多く見られました。⇒多く見られたって一体何人?
○それに比して、新改訳聖書に関しては、正統的なキリスト教会や日本基督教団などではただの一度もミサや礼拝の中で使われたことが無い歴史的な事実を踏まえて、⇒日本基督教団で新改訳を使っている教会はありますよ。ちゃんと調べられたんですか?正統的ではなく、主流派ならわかりますが、正統的教会には福音派も入りますよ。
○その存在自体を疑問視する声が続出しました。⇒続出ってどこに続出しているんですか?
○福音派と呼ばれるキリスト教界の中にあって極少数にしか信じられていない限定的な教義を背景に翻訳が行なわれた事実が原因とされているわけです。⇒数の上からは、劣勢かもしれませんが、伸び率では優勢とウィキペディアにも書かれていました。
○そこで、この掲示板では多くの人が、新改訳聖書に異議を唱え。
⇒多くの人って延べ人数で言っているんですか?新改訳聖書に異議を唱えてるのではなく初心者にお勧めはしないといっているだけではなかったんですか?飛躍もいいところです。
○新改訳聖書を使うことは、エキュメニカルな立場からも疑問ですね。
⇒エキュメニカルな立場の正当性は何ですか?これはひとつの考えであって
ワタシは、反対の立場からではありますが、真のエキュメニカリズム(神の愛に根ざした一致)を賛同します。ハレルヤ太郎さんの言動からは、少なくとも違う教派を排除しようという圧力しか感じられません。
○今、多くの教団やグループは新改訳聖書にソッポを向いています。
⇒あなたは、意識的に新改訳聖書を拒絶したように書きましたが根拠は?
あなたの、狙いは何ですか?キリスト教界から新改訳聖書を追放しようとされているんですか?ワタシは、別に新共同訳でもいいですが、新改訳をそこまで糾弾する必要あるのかなぁって思います。
マルチン・ルターが「聖書のみ」「信仰のみ」の信仰で対抗し、かつて、サタンは中世のカトリック教会に腐敗を起こさせることを邪魔さされた。今クリスチャンが聖書信仰に熱心になれば、サタンは困るんでしょうね。
今、サタンを喜ばせることは、教会の対立、分断、真のエキュメニズムは、聖霊の力によって感性されると信じています。
あなたが望むのは分断ですか一致ですか
一致する前には、お互いを批難しあうのではなくて受け入れることから始まると思います。カルト・異端でない限り、お互いに分かち合うことが出来ます。真の神の存在を信じるクリスチャンが存在する限り、可能だと思います。もし、そうでなく、神の存在を迷信ととらえ既成宗教のひとつであるキリスト教ブランドの主流派を守るためだけのクリスチャンなら、数で優位に立っても天国の門をくぐれるかどうかは?です。私たちは、まことの神を信じ従うものとして分かち合うべきだと思います。
どうしても、ハレルヤ太郎さんが、福音派や新改訳を攻撃することを、盛り上げたいんなら、ご自分でスレを立ち上げてなさってください。少なくともスレを立てた、ワタシの思惑から大きく外れています。ここでは、訳の特長に対するご自分の感想・意見にとどめて置いてくださいませんか? |
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| 38 横槍権左右衛門 ID:UnBibhS. |
2008/06/21 20:40 |
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横やり第二号さん
どうやら横やり第二号さんの書き込みを何らかの評価が込められているものと誤解したようです。大変失礼いたしました。
ところで普及率とはどのようにして調査されるのでしょうか?
というのは頒布数に関してですが、2000年時点で、新共同訳は400万冊、新改訳は1200万冊頒布されたそうです。頒布数では新改訳のほうが新共同訳の約3倍多いわけですが、どうなのでしょう。
以下、その記事が書いてあるリンクです。
新共同訳→http://www.bible.or.jp/soc/soc03.html
新改訳→http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=762
普及率というのはどういう数字なのでしょうか。横やり二号さんは、「ほんの少しだけその方面の事情を知っている者」だということなので、教えていただけますでしょうか。 |
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| 39 横やり第二号 ID:wlu2mQmE |
2008/06/22 20:26 |
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私は、参考にしていただくために書き込んだだけですので、
これ以上の書き込みは、控えることにいたします。
さて、普及率のことですが、正確な調査はない、と思います。
ただ、そういうことにほんの少し関係している立場から申し上げますと;
聖書の場合、頒布数がそのまま普及率にはなりません。
前にも書きましたが、新共同訳聖書の場合、
まず、主なキリスト教主義学校への納入実績があります。
それから、キリスト教系の各種団体も、その多くが新共同訳聖書を採用しています。
たとえば、YMCA,YWCAなどです。
学校と団体だけでも、実は相当な数が入ります。
つまり、新改訳聖書が、主に教会を中心に採用されているのに比べ、
新共同訳聖書は、教会以外のところでも、広く普及している、ということです。
これも前に書いたことなのですが、一般の書籍、雑誌類、その他のマスコミで聖書が引用される際には、そのほとんどが、新共同訳聖書です。少なくとも、日本聖書協会の聖書が用いられています。
ついでに言いますと、セブンスデー・アドベンチスト教会には、伝道社という出版社があるのですが、ここが、自分たちの教派のために出している聖書の本文は、新共同訳聖書です。横組みで、結構読みやすいものですよ。
本文は新共同訳聖書なのですが、日本聖書協会が出している横組みとは、全く違う版です。
ただ、値段が・・・かなりお高くて・・・
一方、新改訳聖書は、教会がほとんどです。しかもその多くが、福音派と呼称されている教会でのみ、用いられているというのが現状でしょう。
福音派は、聖書信仰ですから、やはり聖書に親しむ人が多く、それで、頒布数が多いのではないか、と思っています。
あるいは、一人が何冊も聖書を買い、寝室や、職場といったところに、聖書をおいているのではないでしょうか。
おそらく、一人のクリスチャンが持っている聖書の冊数は、福音派の信徒の方の方が、新共同訳聖書を読んでいる人よりも多いような感触があります。
いずれにせよ、頒布先から考えますと、日本の社会の中に「広く浅く」浸透しているのは、新共同訳聖書の方だと思います。 |
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| 40 北海鱈 ID:DInXo0Wg |
2008/06/22 21:04 |
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北海鱈です。
このスレにカキコされている、諸教派の牧師たちの書き込み意見を興味深く読みました。今の狭い小さい日本の教会でごちゃごちゃ言わんと、自分の使用している聖書を黙って読んでいなさい。どうも、牧師はへりくつにたけていかん。信徒の目線で議論しなさい。理屈はだめよ。 |
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| 41 ワタシんち ID:.2IJHdYU |
2008/06/22 23:49 |
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北海鱈さん
あなたの言うことがすごくわかるような気がします。
わたしも、別にまちがいでなければ、それぞれの私用する聖書を読めばいいと思います。聖書の訳にまで優劣をつける必要ないと思います。 |
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| 42 野次馬 ID:peXIWkXY |
2008/06/23 19:15 |
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「聖書と言語」という題で、
http://www.geocities.jp/kuwaei2000/Essay.html
に、比較的信者の目線に沿った小論があるのを見つけました。 |
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| 43 ワタシんち ID:bwMiC4.U |
2008/06/23 20:07 |
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野次馬さんありがとう。
たしかに!なっとく!めからうろこです。!
無知の知ということばがあります。知ったかぶりをするものほど、大言壮語を吐き、本当によく知っている人ほど謙虚なんでしょうね。
ワタシは、お調子乗りだから、気をつけなければ… |
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| 44 oxlos ID:BljA3PiY |
2008/06/29 22:54 |
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新共同訳は 完全な未完です。16億円投じましたが、もうお金が続かなくて、途中で出しているのです。各訳者にゆだねられていて、どの先生も有名な大先生ですから、相互批評なんていい加減と言うよりもほとんどしていません。新改訳は逐語的ですし、口語訳は各訳者の神学が強く入り込んでいます。むしろ原語から自分で訳してみて、それぞれの聖書の言葉と比較してみたらいいのです。ヨハネ伝1章1節から5節などしてみると面白いです。
以下に日本語の聖書がいい加減かよく分かります。
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| 45 oxlos ID:BljA3PiY |
2008/06/29 22:59 |
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付け加えておきますが、
ものみの塔や統一協会は かつて 口語訳聖書を
自分たちの 聖書として読んでいました。 |
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| 46 矢島 ID:RP0dfh1w |
2008/06/30 21:31 |
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35の横槍さん
遅くなってしまいました。
いろいろ野暮用で、名古屋行ったり、広島行ったり、神奈川行ったりと放浪してました。
さて・・・
≪矢島さんとの対話がかみ合っていないことを憂慮しつつ≫
これは、再三申し上げている通り、ボクのコメントが『初めて聖書を読もうとする人』という<初心者>よりも更に限定的な対象に対して、勧められる聖書という観点からに終始しているのに対して、横槍さんが≪翻訳の限界を知った上で使うならば何を使ってもよいのではないか≫と、新共同訳にも【いくつかの】欠陥があるのだから、翻訳意図全体が偏った新改訳と同様に【不完全】であると、回答の幹が違っているためです。
≪まず岩波の委員会訳の委員の方々(佐藤研氏や月本昭男氏など、日本聖書学研究所の方々)が、どのような点で新共同訳のある箇所にカトリック神学の影響を見て取っているのかは彼らに尋ねるしかありません。私には答えることができません≫
これは、まったく無礼な反駁・・・というか、反駁にすらなっていない。
岩波の翻訳委員の新共同訳への批判がもっともだと思われるなら、なぜそう思えるのか<尋ねられて>答えられないのは、ただ単に≪33:岩波訳は新共同訳に対して「重要ないくつかの箇所において、カトリック神学の影響を強くにじませている」と【批判しております】≫と、彼らの詳細を含まない批判そのものでさえなく、伝聞によるものを、鸚鵡返しにコピーしただけで、横槍さん本人が理解も租借もしていない<他人の言>を以って、無責任な反論の片棒担がせようとしているからに他ならない。
≪とりあえず、私が気になる箇所は、
ローマ1:17a「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」
特に「初めから終わりまで信仰を通して実現される」の部分。≫
ここは、全体が田川先生の「書物としての新約聖書」からの引用ですが、ボクも同書を所有していますので、ご指摘の箇所は知っています。
(ですから、新共同訳が完全訳と言ってるワケではないのです)
あくまで、一般に求められる聖書のウチ、無難なものという選択です。
新改訳や文語訳や欽定訳を勧められないのは、それぞれ理由が違います。
だからと言って「これから聖書を手にする」人に、たとえば田川訳を勧められますか?
もっとも、まだ「マルコ」すら完成していませんし、または高価にしてまだ新約全巻が揃っていませんが「新約聖書・訳と註」は、その名の通り訳と註ばかりで、すぐに放り投げてしまいます。
引用は結構ですけれど、もう少し自分のものにして使用しなければ、引用先の意図さえも変えてしまいかねません。
つまり「パウロ神学を知らなすぎる」という田川先生の指摘と<信仰義認>は無関係です。
むしろ「信仰義認論を弱めようとしている」・・ではなく「信仰義認を強調している」と読めるというのなら、まだ解かりますが。
以上、相手のコメントが何を語ろうとしているのか・・くらいは読み解かれてから反論すべきです。
意味が無いから・・・
横槍さんのお気に入り「岩波委員会訳」は、自分が読んでいないことと、田川先生も生憎、刊行日時の関係で言及を避けておられるため、概要すら判らないためこれに触れないのです。
聖書にまるで知識の無い友人に、書店で「彼にとって最初の一冊になる、できるだけ安価な聖書を選んであげる」という光景をアタマの片隅にでも置かれていれば、このような的外れなコメントにならずに済んだのにと思います。
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| 47 聖書初心者 ID:ESIJAkUE |
2008/07/06 00:43 |
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横槍、失礼いたします。
皆さんの論議を興味深く拝見いたしました。また皆さんの聖書に関する深い知識にも感銘を受けました。
さて、初心者ならではの質問なのでしょう。教会では、信者の方に笑われてしまいましたが私には少しの疑問があります。
様々な翻訳の長短をみなさんはご存知だと思うのですが、聖書にとって(というよりも聖書を読む私にとって)一番大切な聖書の音信は何でしょうか。
私は、マタイ伝6章にある主の祈りだと思っています。その中で主は“天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。”と祈られました。
主の父のお名前は重要でしょうか。ものみの塔の人たちは“エホバがそれ、主に置き換えるのは不敬”と教えていると聞きました。しかし、私が所有している聖書にはその名前は出てきません。
皆様はどうお考えでしょうか。 |
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| 48 ワタシんち ID:psBmw5vs |
2008/07/06 07:53 |
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わたしの名前をみだりに称えてはならないという主の命令ですから‥
イスラエルの人々は、神聖4文字で表現しました。だから、本当はどう読むのか分かりません。ヤーウェもエホバもこう読むのではという推測の域を出ないと思います。 |
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| 49 聖書初心者 ID:ESIJAkUE |
2008/07/06 13:06 |
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>ワタシんちさん
返信ありがとうございます。よく言われる反論ですね。
でもイエス様は
「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」
と祈られたと読みました。
イエス様の時代は神のお名前は使われていたと言うことではないでしょうか。
原文に近い本文に使われている接続詞を省くことが御言葉に対する不敬なら、神様のお名前を置き換えることは不敬に当たらないのでしょうか。
YHWHなりJHWHなりに表記するとか… |
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| 50 野火 ID:Rw7YcX/s |
2008/07/06 15:44 |
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聖書初心者さん
すごいですね。初心者ではないでしょう?
ここは だいたいあまり気にしない箇所で、
そういう意味合いでとらえないところですからね。
神学研究するにはいいかもしれませんが…。
そう質問されるからには…、
聖書初心者さん自身は どうお考えなのですか?
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| 51 ワタシんち ID:psBmw5vs |
2008/07/06 18:37 |
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聖書初心者さんありがとうございます。
私は、神聖4文字への置き換えが妥当とは思っていません。
後世のものが、かえって誤解したり別の文字をはめ込んで無理に解読しようとして更なる過ちを犯す原因になるからです。でも、イスラエルの人以上にその問題に詳しいわけではないですからそこまで強くはいえないです。
「わからない」というのが正直なところですね。
『「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」
と祈られたと読みました。』
この場合の「御名を知らせる」は、神様の栄光や存在そのものを告げ知らせるという意味ではなかったですか?こういう言い回しはよく出てきますよね。「エホバ」あるいは、「ヤーウェ」という名をとは言っていないはずです。ここでも、神の御名を称えることを差し控えたからではないでしょうか?私の思い込みなら、どなたか訂正していただいたらと思いますが‥。
私も素人の浅はかな智恵で喋っていますから、それほどえらそうにいえません。あくまでも個人的な推測です。
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| 52 野火 ID:Rw7YcX/s |
2008/07/06 21:22 |
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ワタシんちさん
あなたは 何回も 書いていますが、
推測でものを書くと見る方は混乱すると思いますよ。
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| 53 野火 ID:Rw7YcX/s |
2008/07/06 21:38 |
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ワタシんちさん
相手がどういう存在なのか
イメージをしてから 注意深く書き込みした方が
賢明だと思いますよ
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| 54 ワタシんち ID:psBmw5vs |
2008/07/06 23:18 |
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野火さん
ご忠告ありがとうございます。
私の考えは、間違っていましたか?
あなたはどうお考えですか?
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| 55 野火 ID:Li7B2uyQ |
2008/07/07 00:31 |
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ワタシんちさん
私も人のことは言えませんでした。
失礼しました。
聖書初心者さんは
私は ものみの塔の方ではないか
と思っています。
理由は
こんな細かな質問を 普通はしません。
聖書初心者さん
間違ったらお許し下さい。
そのときは訂正します。
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| 56 kiyoshi ID:TMZu2wIY |
2008/07/07 19:02 |
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僕はワタしんちさんの考えに近いです。
自分が慣れ親しんだ聖書訳が一番いいと思うのは自然だとは思いますが、批判まではいかがなものか?
最初から気になっていたけれど、「正統派」ってなんでしょうね。
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| 57 チャンプルー ID:YYpyO4uc |
2008/07/17 09:36 |
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新共同訳と新改訳を比べて、
どちらがより適切な翻訳になっているかを
10~15年ほど前に比較し
リポートされた方がいらっしゃいます。
1998年から7年間ほど、
神戸改革派神学校で教授をされていた、
ステュワートさんという方です。
旧約聖書ヘブル語で博士号を持っていらっしゃるはずです。
この方のレポートには、聖書箇所約25箇所を比較し、
新改訳のほうがより適切との結論を出されていました。
この神学校の母体となっている日本キリスト改革派教会では、
新共同訳を使っていますが、ステゥワートさんが開拓した
仙台の北中山伝道所(改革派教会に属しています)では、
いまでもおそらく新改訳を使っていると思います。
このレポートは改革派教会で出されている
定期刊行物の記事として載っていましたので、
北中山伝道所あるいは神戸改革派神学校に
連絡されると入手可能と思います。
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| 58 豚に真珠 ID:YtHBi1qY |
2008/07/17 10:07 |
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| 各教会が 決めた聖書を尊重するのが一番いいですよ。 |
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| 59 匿名さん ID:CMdjljss |
2008/07/19 22:39 |
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どっちかと言えばマルコ2:28の「人の子」を27節の「人」と同じと考えるほうがトンデモな気がします。
1.ここの平行箇所マタイ12:8を読めばイエス様が自分を指して「人の子」と呼んでいることは明らかです。
2.英語ではthe Son of Manと定冠詞つきで固有名詞扱いになっています。つまり人間一般を指す言葉ではありません。
3.「人の子」とイエス様が言った時は常にご自身を指していっています。
つまりイエス様は「すなわち、私は安息日のしもべではなく、主なのだ」と言おうとしていると解釈するのが普通でしょう |
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| 60 匿名さん ID:O3Dk4RTc |
2008/07/20 20:45 |
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訳に関して、興味深いサイト見つけました。
http://bible.co.jp/ |
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| 61 石松 ID:GOrIR3zE |
2008/09/03 22:35 |
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いろいろカキコしてゐるやうだが、何の益にもならんだらう。
新世界訳でも、用ひ方によっては役に立つもの。
自分に合った訳で、むしろ、中身をじっくり読むほうが先決。
重箱の隅を突っつひてゐても、得るものは多くはないだらう。
全体の文脈を重視しつつ、読むがよからう。
アレッと思ったら、いろいろな訳を確認すればいいだらう。
Web にも、多彩な訳はゴマンと在る。
訳の論争など、糞の訳にも立たぬだらう。 |
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| 62 匿名さん ID:3VzaSTgY |
2008/12/05 18:40 |
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教会で新共同訳聖書を使っている所は良くないらしいですよ。
「共同訳の場合は教会が信者に押し付けた経緯がある」と書かれていましたし、
訳が間違っているそうです。
11月28日から始まった、聖書の訳のバトルで新共同訳側が負けて逃げ出しました。
やっぱり、教会は新改訳聖書を使っている所を選ぶべきでしょうね。
ttp://9111.teacup.com/hamiel/bbs |
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