| 1 匿名さん ID:7mmafhto |
2007/05/27 21:44 |
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クリスチャンの方をどう責めるわけではありませんが、一方的な教義にとらわれて、他の宗教や、他の考え方をもっている人を受け付けないような、堅苦しいイメージがないわけでもありません。
仏教徒や、無宗教の人とは、どのようにかかわっていますか?
またどのように関わるべきだと思われますか?
相手の立場をある程度受容することはできますか?
異宗教間交流会みたいなのは受け入れられますか?
また、宗教戦争をどう捉えますか?
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| 2 とあるクリスチャン ID:Ek4U1iZs |
2007/05/30 17:18 |
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基本的に神さまを信じていない人が信じてくれるようになってくれればと思います。
仏教を信仰しておられる方は、それなりの考えがあって、神さまを信じているのでしょうし、イスラム教を信仰しておられる方は、それなりの考えがあってイスラム教の神を信仰していて、それなりに何らかの形で神さまを信仰している人を迫害するようなことはまっとうなクリスチャンならしないと思います。
ただ、神さまを信じているだけなら害はないのですが、中には「過激派」がいて、自分の思う通りに相手が信じてくれないなら、迫害するというような人間が現れるのが問題だとおもいます。それさえなければ、異宗教間でも神さまを信じる良い兄弟として接しあえると思いますし、宗教者は結局平和を願っているのですから、「平和」を共通課題になにか話し合えるのではないか、他宗教を知ることでより自分の宗教について深く知ることにも繋がると思うし、そういう交流会はもっとあってもいいんじゃないかな、と思いますね。クリスチャントゥディとか、そういうの取材してくれないかな。。
他宗教をむやみやたらと迫害するのは良くないと思います。そこから宗教戦争が始まってしまうのだと思います。宗教に、人間の欲が絡んだり、信仰の人をサタンが誘惑してつまずかせるんですね。
どの神さまがもっとも信じたい神さまか、それは個人が心で決めるものです。その手助けのために宣教できればと思っています。 |
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| 3 ホッチキチ ID:KUdwvSLs |
2007/06/05 22:29 |
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もちろん、他宗教の信徒を迫害するのは悪いことですし、事実、「キリスト教徒」と名乗る人々がユダヤ人、イスラム教徒を迫害したり、一部で強制改宗させるなどしたのは、個人としても残念です。
でも、他宗教そのものに対しては、やっぱり妥協はできません。あえてこんなことを書くのは、最近世界のグローバル化とともに「世界中の宗教は全て正しい」とかいって、宗教をぜーんぶ1つにまとめちゃおうとする人がいる、らしいからです。日本人がよく譬えて使う、らしい、「どこから富士山を登っても、必ず頂上に着く」といったところでしょうか(「らしい」ばっかり…)。
キリスト教以外の宗教のほとんど(特に、イスラム教を含む古代宗教)は、自分で努力して天国に行くものです。
キリスト教は、他の宗教とは明らかに異なっています(まあ、みんな自分の信教についてそう言うのかもしれないのかもしれないけどね)。それは、性悪説を唱えていること(とり方によっては性善説だけど…)です。そして、神様のほうから人間のほうに近づいてきて、手を差し伸べていることです。
どういうことかといいますと、アダムとエバが最初に、そして僕ら自身が、神様との間につくってしまった亀裂の間に、十字架のあがないによる架け橋をつくってくれたことです。その架け橋を渡って、神様のところに帰ることを選んだのがクリスチャンなのです。
だからって、どうして宗教を一つにできないのかといえば、それは亀裂の人間サイドで「そんな架け橋なんか渡らないで、こっちで仲良く楽しくやりましょうよ。」と言われるようなものだからです。
「他人を中傷している」ととられないか心配ですが、上記のようなことを言う人は、むしろ、架け橋を渡ろうとする人を「非寛容だ」とかいって、非難することがあるのです。「『寛容』という名の非寛容」といったところでしょうか。
つまり、誰が何を信じようと自由ですし、それを非難することはしないつもりです。
よって、宗教戦争にはもちろん反対です。ただし、これまでの「宗教戦争」と呼ばれる戦争のほとんどは、半ば政治的な動機に絡むものが多いです。さらに細かくいえば、個人や特定の人々の欲望によるものがほとんどです。もちろん、神様の望みどおりだったとは、到底思いません。
僕は、相手の立場はなるべく尊重したいです。異宗教間の交流会も悪くないと思います。やっぱり、人間同士で全く交流していないと、お互いに偏見ができてしまいますから。
僕の学校の友達にも「うちは創価学会だよ」っていう人もけっこういます。でも、宗教の話でけんかすることはありません。それはそれでいいのですが、同時に、「もっとイエス様のことを伝えたい」という気持ちもあります。
長くなってしまったのでまとめると、
・他の宗教の教えは受け入れられないけど、それを信じる人間 は大切にする。そして、違う教えだからといって、力をもっ てそれをつぶしたり、その他の方法で圧迫したりしない。
・キリスト教はユニークな宗教である。よって、他の宗教とは 一緒にできない。そして、全ての宗教が正しいとはいえな い。
といったところでしょうか。
排他的に書いたつもりはありませんが、そうみえてしまったらごめんなさい。 |
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| 4 宗教者の卵 ID:dW1HM.L2 |
2007/06/06 17:36 |
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私の思いです。
どの宗教、宗派に於いても右から左まで様々な考えの方が居るように見受けられます。
生きていくということは忙しく、人生という時間が限られ、体力も衰えて精神的にも弱くなるのか・・・
故に焦りというものが物事を簡潔化させてしまうのか・・・
ごく一部の宗教の先生に多い気がします。(どの宗教、宗派でもです。)
形式的な思想の枠に入り、生き方を決め付けてしまうのは楽なのかもしれません。
でも、そこが怖い気がしてなりません。
決め付けて行くということは排他的ということが言えます。
いくら素晴らしい教えであったとしても その個人が排他的で他を許せない考えであれば、争いを生み、生命を脅かす危険性を孕んでいるということです。
そういったことを自分自身の問題としてとらえていかないと平和な世の中にはなりませんよ。
極楽しかり、天国しかり、
人と人が手を繋いでいく世界でしょ。
手を繋げないということは
その先に世界は無い、真っ黒な地獄でしかないですよ。
嫌味ですが他宗を論ずるとうことが、自らの宗教が
カルトな宗教に転じて行くポイントのような気がしてなりません。 |
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| 5 あんしん ID:I1a0ONk2 |
2007/06/08 10:47 |
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主イエスさまは「わたしは門である。わたしを通ってはいるものは救われる。(ヨハネ10:9 新共同訳)」とおっしゃいました。
わたしたちはこれを信じるか信じないか、ただそれだけです。
ですから、狂信的な人たちは、「信じなければ『ならない』!」とさえ言いますが、イエス様は「わたしを信じなさい」と派おっしゃいますが、「信じなければならない」とはおっしゃっていません。
「信じるものは救われる」。
これが、キリスト教の、イエス・キリストの救いです。
仏教で平安を得ている人もあるでしょう。
それは尊重しなければなりません。
クリスチャンたちが、わたしたちの救いこそ絶対!と信じるのはかまいませんし、わたしもそう信じています。
がしかし、他の宗教で平安を得ている人があるのなら、その平安をわたしたちが乱すとしたら、それは越権行為でしょう。
確かに、わたしたちの周りには「救い」があることを知らずに生きている人たちがたくさんいます。
皆がみんな、お金持ちになることが救いだと、簡単に答えを出しているわけではなさそうですが、でも結局のところ、「とりあえずお金は無くっちゃ何も出来ない」というところのようです。
でも、お金も、人も、家族も、愛するものも、わたしの人生を、わたしを救ってくれるものではない、と気づく瞬間があります。
そのときが救いが必要なときです。
実は、本当は皆どこかで気がついているんです。自分に救いが必要なことを。
でも、学歴だったり体力だったり、立場だったり、お金だったり、今自分の身の回りにあるすべてのもので、その救いが悲痛様な状況をごまかして生きている・・・。そんな気がします。
本当に自分の丸裸の、救われなければならない状況(状態)を知ったのなら、生きていくことなど出来ない、とわたしは思います。
その中で、さまざまな宗教で平安を得ておられる方もあるのも事実でしょう。
それに対して、「キリストの救いこそ絶対。君は救われない!」などどいえるものは、何もないと思いますよ。
ホッチキチさんがおっしゃるとおり、わたしたちは、キリストの十字架という架け橋で、帰る道を知りました。
そして、もう一面、十字架は、わたしたちに向いている方向と、もひとつの方向があります。
それは、神に対する面です。
キリストの十字架は、わたしたちだけの十字架ではなく、神ご自身の十字架であった。
ヨハネの黙示録21:3に、こんな言葉があります。
「見よ、・・・神が人とともに住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。」
十字架は、人が神の元へ戻る架け橋でありますが、同時に、むしろその主体的なのは「神が人のもとへ来る」ということにあったようです。 |
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| 6 てしちゃん ID:VnU.plhI |
2007/06/10 11:45 |
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| 話の内容はそれてしまいますが、過去において父親の死期が近くなったときに、家の宗教が神道で、父親が亡くなる直前に洗礼を受けたものですから、家庭のなかは大変な最中において、信仰的にはとても受け入れられないと姉と口論になり、プチ家出もしたりして一時本当に最悪な状態になりました。その後、祈りの中で、父親がなくなる直前まで父親の魂の救いを祈らせていただいた折に、聖書の御言葉をもって確信と励ましをいただいて、イエス様のお許しの元に、実際の父親の葬儀の時は神道にならってその礼式に倣いました。その後、牧師婦人の御指導を頂戴して、仏式などの葬儀の場合は、礼式に倣いながらもお線香は形式にとどまらせて貰うなどの知恵を戴いて、配慮を示しながら今日に至っております。本当は、声を大にしてクリスチャンであることを訴えて、葬儀などの際は、裏方などの御奉仕をもって誠意を示すなどの配慮を示したいのですが、葬儀の流れの中において、お参りは避けられない状態においては、各々の礼式にのっとって対応させて頂いております。このように書くと、宗教の妥協だとか言われても仕方がないことですが、日本人の精神の土壌においては、キリスト教そのものの教えは非常にマイノリティで、理解してもらえないのが通常です。そんなことで、人生の節目において、親族の理解を得られない現状を今回はお話させて戴きましたが、御質問の本質からは外れてしまったことを、お詫び申し上げます。しかし、一信徒の姿勢から、少しでも質問者の方に参考になればと思いまして、思い切って人生の体験談を語らせていただきました。お粗末な内容ですみません。 |
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| 7 とあるクリスチャン ID:/wtpClsI |
2007/06/10 17:37 |
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宗教者の卵さま、こんにちは。
嫌味ですが他宗を論ずるとうことが、自らの宗教が
カルトな宗教に転じて行くポイントのような気がしてなりません。>他宗教の悪い所を批判するのではないですね。そういうのは私も良くないと思います。例えば世の中の学会などでは、論文の穴を見つけて批判しあいますが、宗教間の交流の場合は、なんというか、もっと互いが共通に有している課題を発見し、互いの信仰の姿をみならいあう。「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい(ピリピ2章)」の御言葉に従って、互いの良さを認めあうことで、改めて自身の信仰のあり方を点検することができるのではないか、と考えています。
現代のキリスト教という宗教が抱える問題点は、「熱さ」がなくなってしまっていることではないかと思います。何か、形式化して、冷め切ってしまってはいないだろうか。個人だけに閉じこもった信仰になってしまっていないだろうか。毎日一人でも多くの人を救おうという情熱が冷めてしまっていたり、あきらめてしまってはいないだろうか(私も含めて)、と懸念し、日々悔い改めています。
かえって、そのような「熱さ」がイスラム教とか、ユダヤ教など、他の宗教に見られたり、心の柔和さが仏教に見られたり、することもあるのではないかな。と思います。特にユダヤ教徒の皆さんは、聖書を読むのに熱心なお方が多く、聖書からはなれ、日常の業務に追われがちな、世俗的なクリスチャンがはっと気づかされるところもあるのではないかな、と思います。
そうやって、学会かなにかのように互いが互いの欠点を批判しあうのではなく、相手に敬意を示して互いの良さと共通点を認めつつ、自らの信仰を顧みられれば良いのではないかなと、
なんとなく思ってはいます。
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| 8 ブロード ID:W1vFF2l6 |
2007/06/12 08:04 |
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キリスト教にも幅があります。
日本で「福音派」と呼ばれている人たちは、他宗教に対して非寛容な方が多い。
それどころか、同じキリスト教に対しても、自分たちとは異なる立場の信仰に対して、とても非寛容です。
一方、「リベラル」と呼ばれている人たちは、他宗教に対して寛容な方が多いように思います。
ところが、リベラルなキリスト教は、キリスト教の独自性を損なってしまう危険があります。
つまり、キリスト教のようであって、キリスト教ではなくなる。
キリスト教が一神教である以上、他の宗教も認めなくてはならない、と思います。
なぜなら、一神教が成立可能なのは、他宗教があるから。
他宗教が無くなれば、一神教そのものの意味が無くなります。
だから、キリスト教は他宗教を認めつつも、それとは妥協しない、と言う態度がよりベターなのではないでしょうか。 |
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| 9 一神教主義者 ID:zTxPDJCY |
2007/06/12 23:00 |
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>全ての宗教が正しいという人間の感情自体が主観であり、正当性がまなぜなら、一神教が成立可能なのは、他宗教があるから。
他宗教が無くなれば、一神教そのものの意味が無くなります
他宗教は、悪霊のいどころである。認めるとどうなるか? 答えは簡単。 一神教は意味を失い、神の目的を消失する。
誰が地球を作ったか? この答えが全てである。 しかし現実他宗教は、ただの哲学または、商売である。そのようなまがいものを認めることは、社会上や法的上、ありえても、個人としてはありえない。それは教義の消滅である。
たとえで言えば、結婚後のいろんな異性との性的交流のようなもので、いなごも稲も一緒にしましょうというのと同意語である。これが正しいわけがない。 |
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| 10 あんしん ID:mlZ6LAsE |
2007/06/13 15:57 |
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寛容と非寛容ということですが、
意見が違う、ということと、他を廃絶し認めず攻撃さえしかねない、というのでは違うと思います。
てしちゃんさんの場合では、意見の違いを認めつつも、他の宗教、むしろその方のことを考えての方法を見出したわけですよね。感謝でした。
使徒言行録でも、福音が異邦人のための福音でもあったことを使徒たちが認め、異邦人(簡単に言えば他の宗教)への福音宣教を始めました。
キリスト教という宗教カテゴリーからすると、ユダヤ教を基礎としていますから、排他的なのは当然です。
しかし、先ほどのとおり「異邦人に対する宣教」が始まってから、福音は「すべての人の福音」になったのです。
あの内村鑑三先生も、たいへんお堅い人物でしられていますが、
しかし「他の宗教者を大切にする」という寛容さもお持ちでした。
意見の違いをはっきり知ることは、
むしろ自分が何をどう信じているのかということを問われていると思います。
「あなたは間違っている!」
というわたしが
「間違っている」
のかもしれません。
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| 12 とあるクリスチャン ID:6WNmTmJk |
2007/06/14 10:38 |
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一神教主義者 さま
他宗教は、悪霊のいどころである。認めるとどうなるか? 答えは簡単。 一神教は意味を失い、神の目的を消失する。
誰が地球を作ったか? この答えが全てである。 しかし現実他宗教は、ただの哲学または、商売である。そのようなまがいものを認めることは、社会上や法的上、ありえても、個人としてはありえない。それは教義の消滅である。
たとえで言えば、結婚後のいろんな異性との性的交流のようなもので、いなごも稲も一緒にしましょうというのと同意語である。これが正しいわけがない。
>考えはわからないでもありませんが、これは非常に危険な考え方だと思います。キリスト教が高慢になり、堕落する要因となる考え方ではないでしょうか。過去のキリスト教の歴史でも、カトリックの堕落、十字軍や植民地政策などで、そのような過ちをしてきました。そういう過ちを繰り返してはいけないと思います。
使徒パウロは、第1コリント9章19−23節あたりで、自分はすべての人の奴隷となった、と強調しています。
宗教間の交流を性的交流にたとえるのはちょっと間違っていると思います。そこで、異宗教に影響を受けて、教義をねじ曲げたり、妥協してしまうようであれば、「性的交流」とも言えるかもしれませんが、互いに互いのスタンスを認めあい、自らの信仰を告白することによって、より自分の信仰の核心がはっきりするし、他者の信仰についても理解することができる。他者の信仰を理解することで、より自分の信仰を深く理解することができるのだと思います。そして堕落していたり、高慢になっている信仰の姿があれば悔い改める機会になるし、やはりキリスト教はすばらしいと思う機会になれば、それはそれで、信仰が高まる機会になると思います。
宗教者は、みな、なんであれ、「真理とはなにか」「神とはなにか」、そして究極的な平和を求めていると思います。そういう点で皆共通していると思います。なんとなれば、異宗教間の交流をすることで、私たちがキリスト教の信仰のすばらしさを証できれば、異宗教者がキリスト教の信仰のすばらしさに気づくチャンスにもなるのではないか、という期待もあります。 |
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| 13 のざる ID:tkq6OZTg |
2007/06/14 10:43 |
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あまり単純に簡単に答えを出さずに、実際にいろんな人と話してみながら考えた方がいいんじゃないでしょうか。
わたしは地方で宗教者九条の会に連なっています。お坊さんとよく話しますが、「殺さない」という姿勢など、接していて敬服することがよくあります。平和のために、一緒にできることはしたいと思っています。
かといって、わたしは仏教に改宗する気はありません。イエスさま一途です。 |
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| 14 ブロード ID:snZy5/.Y |
2007/06/15 09:28 |
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一神教主義者様
誰が地球を造ったか?と言うよりも、この世界の全て、宇宙も含めた創造主は、どなたなのか?これが全てである、と言うご意見には、大賛成です。
と言うことは、つまり主がお造りになっておられない被造物は、一つもないわけです。もちろん、「悪霊」も、他宗教も。全ては、主なる神の御栄光のために創造されたと、私は信じています。
アマレク人もペリシテ人も、ヘロデ大王も、全ては神のご計画に用いられました。
そのことを思うとき、他宗教も主が用いてくださる、と確信しています。他宗教が裁かれるとき、主は栄光を受けられるでしょうし、他宗教を用いて、私たちの信仰を金よりも尊く練り清めてくださるでしょうし。 |
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| 15 とあるクリスチャン ID:nltx9OHY |
2007/06/15 09:58 |
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私は常々、異宗教を信じている人こそ、実はキリスト教を知る機会に恵まれれば、尊いクリスチャンとなられるのではないかな、という期待をしております。
本当の真理とは、本当の愛とはどのようなものなのか、イエスキリストを神の御子として受け入れることの恵みがどのようなものなのかを、どうにかして、異宗教を信じている方々に知って頂ければと思うし、そういう機会がもっとあるべきと思っています。
神を信じない人より、むしろ神を信じる異宗教の信者の方の方が、キリスト教を偏見によるものではなく、正しく理解していただいたとき、世の中に大きな変化が起こるのではないかと思っています。 |
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| 16 ホッチキチ ID:moWyv71Y |
2007/06/19 22:33 |
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「一神教主義者さま、」というのが、やたら目立っていますね…。
性的交流にたとえるとしたら、それは唯一の神様以外の、偶像なんかを拝むことをたとえるほうが、適切だとは思います。
ついでに、サタンというのは堕落した元天使ルシファーで、「悪霊」は、それに従って一緒に堕落した元天使たちなんですよね?神様がわざわざ悪いものを創ることはないと思います。ただ、その「元天使」に、自由に選ばせているのだと思います。もちろん、その収穫も彼ら自身がすることになるのでしょうけど。
このトピックを見ていて、確かにみなさんの意見にそれぞれ一理あると思います。「他宗教は悪霊の居場所」という意見も、ある意味では正しいと思います(それは無宗教にもあてはまりうるのですが)。最近のトルコでのクリスチャン惨殺の事件も、「イスラム教に熱心な人たち」が起こした事件でしたし、その詳細を知って、恐ろしくなりました。本当に「悪魔に脳みそのっとられちゃったんじゃないか…」と思いました。
かといって、他宗教とその信者を憎んだりするのには反対です。その人が何をを信じていようと、その人は神様に造られ、神様に愛され、今活かされようとしているからです。
他宗教の信者と話し合うのも、自分の信仰を妥協しないことと、相手とその考えを尊重し、自分の信仰を押し付ける形にならないように気をつければ、いいと思います。
「私が真理を知っていて、他のみんなの考えは間違っている」という態度で対話することになったら、ずばり最悪です…。きっと相手も「これだからキリスト教は…」と、敬遠してしまうでしょう。
上記のトルコでの事件ですけど、それで殉教したドイツ人宣教師の奥さんは、その事件の詳細を知った後、「彼らは何をしているのかわからないのです。」と、犯人たちを赦しました。これが、僕たちクリスチャンのあるべき姿じゃないでしょうか。
事件の詳細については、英語ですが、下のホームページで。
http://www.persecution.org/suffering/ICCnews/newsdetail.php?newscode=5103&title=turkish-believers-satanically-tortured-for-hours-before-being-killed |
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| 17 とあるクリスチャン ID:RuigqGj2 |
2007/06/21 13:04 |
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余談ですが、以前、尼僧の瀬戸内寂聴さんが出家に至るまでを綴ったドキュメンタリー番組を見たことがあるんですね。そのとき、異宗教者にキリスト教をわかってもらう必要性を切なく感じたんです。彼女の世の中での生き様が、自分の生き様ととても似ていて、出家に至る道と、私がキリスト教に至る道もそっくりで、もし、私が聖書に触れる環境になければ、私も彼女と同様にあのとききっと仏門に出家の道を選んでいただろうなあ、と思い、思わずテレビを見ながら涙したことがありました。
宗教者同士で敵対するのは絶対に間違っていると思います。むしろ友好関係を積極的に築いて行くべきです。宗教者が宗教者となった所以を問えば、皆似たような人生経験を通して宗教者になっているのではないでしょうか(お金儲けとかを目的にしたカルト指導者を除けば)。
私は少なくとも、どの宗教に属するひとだろうと無宗教者だろうと、とりあえず一人一冊、聖書をもっていてほしいと思いますね。人生でなにか自分がどうしても理解できない納得いかないことが起こったときの解決法がそこに書かれているのですから。そしてそのようなことは誰にでも長い人生のうちに一度や二度あるいは幾多も起こりうるものだと思います。 |
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| 18 一神教主義者 ID:hAzHbjl6 |
2007/06/22 22:55 |
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>これは非常に危険な考え方だと思います。キリスト教が高慢になり、堕落する要因となる考え方ではないでしょうか。
それは、宗教と人間の混合です。他の人が占いや偶像崇拝を信じようとどうでもいいことですが、信者として、それをすることは、ありえない。
残念ながら、世界のキリスト教は、悪霊が侵入しています。
欧米の戦争思想は、オカルトと企業との問題が大きいです。 |
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| 19 愛心光道 ID:lFBvlsPY |
2007/06/30 21:42 |
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終末の時代には、人はそれぞれの気づきの程度(カルマの内容)に見合ったカタストロフィーを体験していくことになるが、
わが国の神道系の予言によれば、気づきを深めることによって大難を小難に変えることもできるという。
しかし、最終的には、人類は新しい時代に必要な気づきを得た人(光の子)とそうでない人(獣)に分かれ、「神の国」や「ミロクの世」と呼ばれている新しい世界に再生(次元上昇)できるのは「光の子」に限られるという。
愛心光道は貴方の幸せ作りをお手伝いします。宗教ビジネス希望者大募集中!
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| 20 匿名さん ID:WNlNednE |
2007/06/30 22:14 |
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>>18
「他の人が占いや偶像崇拝を信じようとどうでもいいことですが」
キリスト教に本当に救いを見出すとしたら、自分が占いや偶像礼拝によって受ける罰を知っているはずです。そうすれば、聖書の言葉「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)とあるように、相手が受けるであろう罰、苦しみを思って憐れみをもって忠告してあげるべきではないでしょうか?
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| 21 匿名さん ID:WNlNednE |
2007/06/30 22:20 |
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| 寛容、非寛容を人が考える時、自分を相手が受け入れてくれるかどうかで判断していないでしょうか。とすれば、寛容・非寛容の基準は常に個々人にあり、絶対的な評価にはならないものだと思います。基準が定められませんから。基準が変動する「寛容度」とでも言えばよいのか、その尺度で正しい判断は出来ないと思います。 |
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| 22 不思議大好き ID:kGnaC0oc |
2007/07/01 00:13 |
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| ここでは、他宗教について意見を交えているようですね。一神教であれ、多神教であれみなさん自分の信仰を大切にしていらっしゃるんですから、他をどうこう言う必要はないと思います。信仰は、個人的なものですから‥‥。他に対して寛容か非寛容か問うたり、リベラルか福音的か問うよりも、自分自身が信じるものの本質にいかに迫っているかですよね。わたしは、真の神の前で恐れ多くも人間が作り出した教派や教団組織の考えを盾にして、信仰の本質をゆがめることはできません。皆さんが、正しいと思うものを信じお互いの救いのために祈れば、唯一の真の神は、答えて下さると信じております。 |
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| 23 一神教主義者 ID:JzcQuDfk |
2007/07/02 22:59 |
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>「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)とあるように、相手が受けるであろう罰、苦しみを思って憐れみをもって忠告してあげるべきではないでしょうか?
「自分達が無知」なことに気づかない人にどうやって、忠告しろというのでしょうか? そういうことは、個人差のあることです。会う人全てに忠告しろなど理想論にもほどがあります。ただでさえ、日本人は、「先入観の塊」なのに。自分が「先入観の塊」ということに気づいてる人は、正常でしょう。正しい判断の基準を持っていないため、全て拒絶して自己神格化しているのが日本人。そのせいでカルトのほうが蔓延しています。 |
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| 24 匿名さん ID:6EdRXRRs |
2007/07/03 00:40 |
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>>23
そうですね。実際に神様を伝えてみると、「先入観の塊」という感じで応じられてしまうことも多々あります。その点で、苦労されたのだと思います。ですけど、もちろん違う人もいます。話していくうちに信頼が生まれて聞いてくれる人も多いと思います。ですが、日本人をそう考えるのも、ひとつの先入観になってしまうと思うので、あの時はだめだったけどと思いつつも、自分がこうあるべきだ、またこうしたほうが良いのではと思うことは、他の人にも声をかけてあげればよいのではないでしょうか。言い方にも工夫をこらしながら。イエス様も、反発する多くのユダヤ人にも御言葉をまったく伝えなかったわけではなかったのですから。 |
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| 25 一神教主義者 ID:/cUqrwYM |
2007/07/03 20:25 |
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>24
日本では、神という言葉が神道の影響を受けている。
神道の神は、霊。悪霊でも神になっている。その証拠が占い、霊能力。
創造主を日本語で言えば「天」のほうが近いだろう。
よって正しい神観を最初から持っている人は、まずいない。
これは、実際の体験や意見から、そういえる。 |
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| 26 せいっの! ID:eDr9WCrc |
2007/07/13 09:05 |
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>>25
占いって日本以外にもあるんじゃないの?
そしたら、証拠にならないんじゃない。 |
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| 27 一神教主義者 ID:JQJdEePY |
2007/07/13 20:02 |
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>26
占いが世界に存在するのは、世界の多くの国が、政教分離しているから。
神道や仏教の場合は、宗教的にもありとなっている。
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| 28 イレブン ID:jKxT.rRk |
2007/07/14 22:18 |
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>>27
政教分離をしているから、世界に占いが存在するということですが、この場合は、占いを「政治」と「宗教」のどちら側で捉えているのでしょうか?今の社会で、政治で占いを用いるところは少ないと思うのですが、そすると、占いは「政治」か「宗教」で言えば宗教に入りますよね。
さらにそうなれば、世界の宗教においても「占い」ということがあるわけですから、占いは日本の神道や仏教以外の世界中の様々な宗教で用いられているものとなると思います。
そうなれば、やっぱり、占いは日本以外の宗教においても見られることであり、占い、霊能力が、「日本では、神という言葉が神道の影響を受けている」ということの直接的な証拠とは不十分になるのではないかと思います。
ただ、実際に私も日本人の「神」観は神道などの影響があると思います。
ユダヤ系日本人?というべきか分かりませんが、生まれも育ちも日本という珍しいユダヤ人が書いた本を読んだことがありますが、その人は、日本人はやっぱり日本人だと言っていました。キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、いろんな宗教を信じている人であれ、いわば日本人といわれる中の一派と表現できるように見えるとその人は言っていました。それも一意見ですが、その人が住む文化、慣習、考え方の習慣というのが強いのだと感じました。
創造主を信じる一神教というのは、私が学校などで学んだ範囲では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教で、他は区別すれば多神教(または無宗教)です。また、キリスト教もユダヤ教を土台に据えたといえばよいのでしょうか、歴史的に見ればつながりがあるので、ここではそのように表現しますが、そのようなことを踏まえれば、ユダヤ人を除くほとんどの人が正しい神観というのをもっていなかったのだといえると思います。
しかし、今ではイスラエルから遠くはなれたこの日本でも、私を含めて創造主を信じる者がいますし、世界的にもクリスチャンとして多くの方が信じているわけですから、先入観が多くて、説明しても疲れてしまうような日本人にも、諦めずに積極的に教えてあげる必要があると思います。 |
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| 29 匿名さん ID:5/4H8CPk |
2007/07/28 00:16 |
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神道を勉強した者です、というか神職だった者です
「日本では、神という言葉が神道の影響を受けている」
私はこれを「神と言う言葉は長年使われてきた事から自然と神道的イメージが付いている」
と解釈致しました
神道は元々農耕社会だった日本で、イネの実りをお願いし、感謝する宗教でして、嫌な言い方になりますが神は人格的であると言う考えはありませんでした
それは今の日本人にも見られる様で、多くの方は神を人格的とは考えていないようです、日本ではこれがユダヤ教・キリスト教の障害とも言えるような気がします
ただ、全ては主(神)がお作りになられたと言うのは全ての宗教にほぼ共通しますので日本人にお教えするなら
その点をお話になるのがよろしいかと思います。
>>一神教主義者さん
仏教は占いは特に使用しなかったかと思います、第一に彼らは主(神)よりも他の点を信じていらっしゃいます
日本や中国の仏教は少々ズレがあるようですが、基本的にブッダの教えは主(神)とは違います
また神道は悪霊の類は「予めお祭りしてお怒りを静めて頂く」為に祭っているので、神といっても少々性格が違います、例えば「村人が神社を粗末にしたから神のお怒りでイネが取れなくなった」等です、神道は神の御力をそれぞれ別の神として祭っただけです(古事記・日本書紀は後から付け足した物であれを神道の拠り所とは出来ません)それに占いは神のお告げを聞く為の手段として使われておりましたので証拠とするには引っかかります。
上でも書きましたが殆どの宗教は世界の始まりから始まります、その点で私たちと彼らは遠い従姉妹とは言えませんでしょうか
呼び方、主(神)の捉え方、一神教・多神教は違いますが根本的な部分では共通があります
キリスト教だから正しい、あれは違う。 ではなくて私たちはこのように捉え信じており、彼らは捉え方は違うけれども一部同じ考えを持った一つの捉え方、とするのではいけませんでしょうか。(バチカンはダメと言うでしょうが(苦笑) |
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| 30 不思議大好き ID:UUUZUSG6 |
2007/07/28 02:08 |
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匿名さんへ
Q仏教徒や、無宗教の人とは、どのようにかかわっていますか?
A普通に職場の同僚として関わっています。
Qまたどのように関わるべきだと思われますか?
A信仰については、お互いに尊重しあうべきだと思います。
お互いに礼儀を持って相手に敬意を払って言動すべきだと思います。
Q相手の立場をある程度受容することはできますか?
A信仰を強制しない限り全面的に受容します。
Q異宗教間交流会みたいなのは受け入れられますか?
特に異宗教間交流の必要性を感じません。形式だけの交流になりそうだから。個人レベルで異宗教の人もそうでない人も同じようにお付き合いするべきだとは思いますが。
Qまた、宗教戦争をどう捉えますか?
自分の立場を相手に押し付けるために宗教の名を語った、エゴのぶつけ合いだと考えます。つまり不信仰だと思います。特に宗教を語ったテロは許せません。人の命を奪っていいという教えは存在しないはずだと思います。
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| 31 エルサレム ID:41rJ.o1Q |
2007/07/30 15:15 |
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イスラム、キリスト、ユダヤ教の3つはかなり昔から戦争が絶えません。地域により人の考えは多種多様です。テロはサターンでしょうか? 宗教の自由をアフガニスタンでは認めないようです。キリストでもイスラムでも良いのです。無理にイスラム教徒に聖書を勧めることはおろかなことだと思います。また、聖書にはコーランの事が書いてあるでしょうか?つまり現地でイエスの血であるワインを勧めたわけです。洗礼を受けるアフガニスタンの方がいますか?ほかのスリムの方とうまく和解する必要があります。キリストを信じる方、神のメッセンジャーモハメドを信じる方いろいろいますよあ。
この問題はバチカンローマ法王の力が必要でしょう。相談したらどうでしょうか? |
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| 32 友美 ID:9vnwBLww |
2010/02/01 01:47 |
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>>1
Q異宗教間交流会みたいなのは受け入れられますか?
気になりません。個人レベルで異宗教の人もそうでない人も同じようにお付き合いしています。私はイスラム教の友人の出産時には、彼女のために「天の父なる神様、感謝します・・・お祈りいたします。アーメン」と祈りました。(自宅にて彼女の目に触れない場所で)
Qまた、宗教戦争をどう捉えますか?
神様の名前を借りて、「ヒト」が自分に都合のよい理屈を正当化しようとする行為だとおもいます。
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