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CHRISTIANTODAY フォーラム
原罪
1 とあるクリスチャン ID:llNJqLOI 2007/08/17 15:12
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけではく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2章)

 アーメン。

 要するに、信仰においての戦いは、「高慢」という原罪との戦いであるということを最近深く実感するようになりました。そして、クリスチャンが高慢になることほど、神様が嘆かれることもないと考えるようになりました。

 伝道の際に、問題となるのは、やはり私たちクリスチャンが真理を知った気になって高慢に振る舞うことかもしれません。第1ペテロ3章に「みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです」と書かれてありますが、これより説得力のある伝道方法はないかもしれません。

 結局パリサイ人やアテネの哲学者のように議論することによって、相手を打ちのめすのではなく、愛によって相手に救いの手を差し出すことが私たちクリスチャンに任されたミッションなのです。

 国旗国歌、同性愛、異宗教、、すべて共通のものが見える気がしてきました。クリスチャンの高慢です。結局は、相手の立場を尊重することから相手を招かなければ、私たちは真理を知っているからといって、クリスチャンではなく国を愛する人に「偶像崇拝やめなさい」といったり、同性愛者に「精神病です」と言ったり、異宗教と論議を交わしても、キリストの宣教において結局のところ敬遠されるだけで、なんにもならないのではないのでしょうか。

  私たちは、議論家ではなく、真の愛によって、十字架にまで従われたイエス様のあがないによって救われたクリスチャンなのですから、同様のイエス様が示された愛において人たちを救わなければならないのでしょう。

 まずは、異邦人においては、相手の立場をとりあえず認め、まずはそのような人にもすべての人に対してのクリエイターであられる神の愛が施されているということを知って頂き、聖書を読んで頂くことに謙遜な姿勢で取り組むことが宣教の一番の近道だと思います。

 すべての人々に宿る魂があること、全ての人々の魂が神様を求めていること、そして我々日本人であるクリスチャンは、この戦後62年を迎えた日本の地に対して、いったいどれだけ切ない神様の愛があられるのか。自分の知識で宣教するのではなく、いつも深く神様に祈り求めながら、キリストのへりくだれた愛を実践している自分であるのかどうか、点検していく必要があると感じています。

 結局は人生は「高慢」との戦いなのだと思います。世の中では、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する」(第2テモテ3章5節)様な人はたくさん見られますが、私たちは主イエス・キリストにあって、本当の意味での敬虔さ、自分を無にすることから与える愛を実践できているかどうか、いつも悔い改めながら生きて行く必要があると感じています。

 クリスチャンが高慢に宣教しても、世の中の人は受け付けてくれないでしょうし、きっと一人一人のクリスチャンとしての姿勢のあり方が今後の日本でのキリスト人口拡大に大きく影響を与えるのだろうと感じます。いつも、どんなときも「恐れおののいて自分の救いの達成」に努めることで、そのような私たちの聖さ、真の愛、無言の振る舞いを通して人たちが救われて行くのではないでしょうか。

 いろいろな日本のキリスト教に直面している問題を考えるにあたって、自分の中の「高慢」という原罪をいつも悔い改めながら、敬虔さを身につけて行くことがもっとも大切なことだ、と思う様になりました。
48  mei-mei ID:/qdW7.7E  2009/01/28 10:13
主の御名を賛美します。
ひょんなことからこちらにお邪魔し、この書き込みに辿りつきました。
感謝します。
ここにもまた、クリスチャンであるがゆえに苦しんでいる方がいるんですね。
aeonさんの悩みはわたしにも覚えがあり、とても辛く、頼るべきものもなく、きっと心細く感じているに違いないとお察しします。
辛い境遇に自分を追いこんだ全て、それも自分自身を許せないでいるんですね。
全部は拝見していないのですが、どうしても神様の御言葉を伝えたいので聞いてください。

aeonさん、どんな時でも神様はあなたを愛し守ってくださっています。
わたしたちみんな、どんな罪をおかしたとしても、その過去を悔い改め、主を信じることで赦されるんです。

神様は、思い煩うなと仰います。
それは悩むなという意味ではなく、辛いこと・悲しいことをただの重荷にするなという意味ではないでしょうか。
悩みが解決しないのなら、まだ時がきていないだけです。
そんな時は、主イエスは重荷を負うた者は自分のもとに来たら休ませるとおっしゃってくださいます。
主イエスの御名によって、aeonさんの重荷をどうかおろしてください。
あなたを覚え、祈ります。アーメン
49  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 12:11
結局人は自分が人に認めてもらいたくて良いことをしようとする、
偽善をするにすぎないんじゃないか。そして自分のキャリアを積み上げ、他人に対して「高慢」でいられる自分を保持しようとする。。

どこに自分を無にできる人なんていようか。

>>人間の罪の根本をつつくところですね。結局、それをどう、おろしていくことができるか、「高慢」な自分を下ろし、状況に合わせて、相手に権限を譲る、そういう柔和で謙遜な姿勢がない限りは、個々人がどんなに自分磨きを頑張っても、全体では平和はなされない、そういう世界を主が十字架をもってどん底まで自らを低くされた姿で示されたのですね。

人間は本来肉的な存在ですから、そういう「高慢」な自分というのは自然の状態に放っておけば、そうなってしまいます。だからこそいつも、聖書の御言葉にしっかりと結びついていることが大事なのですね。

「高慢」な自分を下ろし、低い位置にいる自分を認めることができるとき、すべての人の心を抱くことのできる広い胸が出来上がるのだと思います。

だから結局キリスト教というのは「幼子」「貧しいもの」「弱い者」が救われると説くのですね。

自分の誇りを捨てて、自分が高められるためではなく、本当に世界の平和を望むなら、どれだけ自分を謙遜に無にしていくことができるか。。それが試されているのでしょうね。
50  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 12:22
しかしカインとアベルの話は深いですね。

自分より年下の弟の捧げものが神様に評価されて、自分の捧げものは無視されたカインの中にある弟に対する激しい憎しみ・怒り・・・これをどう抑えるか。。そうではなく、自分より年下の弟から、なぜ神様に評価されたのか、その良さを見習っていこうとする姿勢をどうしてみせることができないのか・・・と考えると、つくづく人間とは生まれながら肉的な存在であると思ってしまいます。

結局私たちもこのカインの姿と同じですよね。自分が評価されたい、自分が高められたい、そういう感情を抑えて、自分が評価されず他人が評価されているのなら、その人に嫉妬することなく、どこまでその人が自分よりどういう点で優れていて、それをどう吸収していけるかと、自分より評価されている人に敬意を示し、どこまで自分を低くし、そして柔和な心で接することができるか、そうすることで最終的に自分が高められるようになるということ、そういうアイデンティティを一人一人の人間がもつようにならないと、決して平和はやってこない、深い深い神さまの願う愛の世界・・。

偽善ではなく、真摯な姿でこの問題に私たちクリスチャンは立ち向かっていかなければなりませんね。
51  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 12:54
 ただ「女は子を産むことで救われる」と書かれてありますが、「女」っていう存在は元来男より「高慢」に作られてしまったのかもしれませんね。だから、蛇がその「弱点」を攻撃して知識の実を食べるように誘惑した。「そうすれば神のようになることができる」という誘惑にエバはのってしまったわけですよね。。

 確かに子を産むと、一番大切なものが、自然の状態にあっても自分ではなく、自分の子へとベクトルが移りますし、子へ向ける愛や苦労の中からもっと犠牲する愛の尊さを実感することができるのかもしれませんね。。
52  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 14:16
女は子を産むことで救われる、って、「子を産まないと救われない」のか、と呪われたような見方で見るのではなく、人間は「高慢」という罪を打ち砕く努力をしていかなければならないが、女という人間に限っては「子を産む」ことで、犠牲する愛は何か、謙遜・柔和になるとはどういうことかが自然にわかるようになるという特権が与えられている、と考えることができますよね。

以前友達で、赤ちゃんを育てている母親の家に遊びにいったら、せわしく御飯を散らかす赤ちゃんの世話をしながら、「息子は我が家の王様のようだ」と話していました。ただの赤ちゃんで、何の能力も力もないけれど、その赤ちゃんに食べ物を与えて、愛を与えて、泣きわめかないように、細部までケアして育ててあげなければならない、まさに「弱いものに仕える」姿を母親というのは自ら自然に積極的に行えているのですよね。。やはりこれぞ真実の愛だな、と思わざるを得ないですね。
53  むにゅむにゅ ID:svxDmcMc  2009/08/04 17:09
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嘘による自信までは。高慢とかなんとかというより。犠牲にしたり殺したり信仰から遠ざけようとしたり、嘘のため・・・・・だったらやはりどうかと。過剰な嘘・・・・・があると嘘をつかれた方達はそれだけでも病気になっていくこともよくあるのです。社会というのは嘘を取り入れようとするところもあるので社会の通念だけでも決められないと思います。



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54  とあるクリスチャン ID:heeLIfas  2009/11/07 11:48
 そういえば以前、とある自然科学者さんにお会いしてお話をしたことがありました。そのとき、とある自然科学者さんはいきなりポンっと足で床を蹴り、「今このように床を蹴った瞬間にも、どれだけのバクテリアが死んだかわからない。・・・人間はこうも罪深い生き物なんですよ」と暗い顔をしておっしゃいました。

 その自然科学者さんは、ノンクリスチャンだったのですが、彼の発言を聞いて、世の中の自然科学者さんが、実は一般的なクリスチャンよりいろいろなことで敏感に罪というのを感じているのではないか、この全くのノンクリスチャンだと思っていた自然科学者さんの中にある罪に対する敏感性に大きな衝撃を受けました。そのとき、私はそのとある自然科学者さんにキリスト教についてお話しようと思っていたのですが、私よりも敏感に罪を感じている謙虚な姿勢をみて、その人の前でクリスチャンであると自称する自分がとても恥ずかしく思えて、それ以上自分からキリスト教について語ろうとは思わなくなり、急遽別の話をしたという思い出があります。

 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。(詩篇51:17)

 とありますが、私は、あのとき、ノンクリスチャンのとある自然科学者さんが自分がこの瞬間にバクテリアを虐殺したことへの罪深さを告白したことで、この神様が人間に求める「砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」とはなにかを深く黙想する機会が与えられたことをとても感謝しています。

 実際、「罪」というのは、世の中の社会システムの仕組みや地球の生態系の仕組みを知れば知るほどささいなことにも「罪深さ」を感じるようになってくるものだと思います。知らなければ平穏に生きることができたことも、そのプロセスのすべてを知ってみれば、人間の高慢による罪深さを実感せざるをえないことばかりなのが、現代の文明でできた先進国で生きる人々の日常の姿なのではないかと思います。

 またイエス様のこの御言葉も思い出されました「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカ18章)」

 私の信仰のひとつのターニングポイントであったと思いますが、自分の中にこのパリサイ人のような冷めきった心があるのを感じました。「私はいつも礼拝に参加している。十分の一をささげている・・・」お決まりの感謝の祈りでそこに「砕かれたたましい」がなかったのではないかと感じました。一方、そのノンクリスチャンの自然科学者の中に、イエス様の話に出てくる取税人のような砕かれた心が見出されたのです。足で目にも見えないバクテリアを殺して、そこにさえ罪を感じる砕かれた姿・・・。その自然科学者さんの発する発言の中に「私はかれこれ自然科学について研究してきたけど、結局人間は罪の中で生きるしかないどうしようもなさを見出しただけだった」というような空虚感と、あらゆる罪に対する非常なる敏感さを感じました。一方で、これはプロテスタントの諸教会でたびたび問題視されることではありますが、キリストに救われた恵みばかりを強調し、罪に対して鈍感になっていたクリスチャンである私の姿を恥じるに至りました。。

 クリスチャンとしてのターニングポイントはまさにここにあると思います。そういうあらゆる罪を敏感に感じ、本当に今となっては人間の存在そのものが大いなる罪の中に存在するしかないものたちであるにもかかわらず、世の中がかつて神様がその不徳の故に滅ぼされたソドムとゴモラの町以上に不徳に満ちているにもかかわらず、今もその憐れみにより世界を滅ぼさずに保っておられる神様の慈愛と寛容さに感謝し、この取税人のように「このようなどうしようもない社会のなかで、罪を犯しながら生きるしかない私をあわれんでください」と自分の胸をたたいて祈る、「砕かれた姿」。それが神様がまさに私たち一人一人のクリスチャンに求めておられる「悔い改めの心」であり、そのような真なる悔い改めの心が生じたとき、神様がその魂に向けて聖霊を通して深い憐れみを下さり、より深い霊的な世界へと導いてくださるのだと思います。

 このスレの場をおかりして、私に信仰のターニングポイントとなる重要なことを気付かせてくださった「とある自然科学者さん」に心から感謝を伝えたいと思いました。

 ピリピ書2章に、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」と書かれてありますが、まさにその通りだと思います。

 キリスト教を宣べ伝えるときにも「自己中心や嘘栄」から一方的に伝えようとするのではなく、へりくだって、相手を自分より優れた者と思い、他の人のことを顧みる心をもつとき、私たちクリスチャンに人たちを通してより深い信仰の姿を悟る機会を神様が授けてくださるのだと思います。人間のあらゆる罪の根源である「高慢」の罪・・・これからも、このピリピ書2章の御言葉を深く胸に刻み、謙虚で砕かれた魂をもって祈りを捧げられるクリスチャンとして信仰の道を歩んでいければと思っています。
55  はじめまして ID:LenQEdAw  2009/11/07 17:13
ひとことだけ

聖書的
あるいは
公教会の教えとしては
殺生は罪ではないです
それはヒンドゥーや仏教や神道などの教えではないでしょうか

罪とは私たちの存在が神さまの想像の目的から逸脱すること 的外れになってしまうこと
つまり神様に背くことで(神様のご意志に背くことが罪)
ただ単に殺生することが罪であるとは思えません
バクテリアを知らずに殺したり くうために人間以外の被造物を殺すことは罪ではありません

神への背きという点を押さえることが重要だと思います
 
56  矢島 ID:E.5qZCt6  2009/11/08 03:40
このスレッドにあっては・・・54:とあるクリスチャンさんの感性に賛同します。

(ただし54に限ってですが・・・他はまた他ということで・・・)
57  はじめまして ID:V9Y2asP6  2009/11/08 16:46
日本の文化風土からすれば共感できるかも、ですが.
キリスト教的な罪の概念とは符合しないでしょう

人祖もおそらくバクテリアは殺していますし
信仰の父や預言者たちも家畜などを殺生していますが神からとがめられていません
ヒンドゥーから神道に至るまでの殺生や血などの穢れを忌む宗教的枠組みと聖書の信仰はまったく別次元だと思います
58  megu ID:64HzSF.o  2009/11/08 16:57
>>57 はじめましてさん

視点はそこにあるのではないのではないでしょうか?

そういうところにすら罪を見出す敏感性が世の中の人にはあるということだと思います。

私たちの存在そのものが感謝♦感謝。。
59  はじめまして ID:V9Y2asP6  2009/11/08 17:11
>58 megu ID:64HzSF.o さん
いえ、わたしはそうは思いません
まず日本人の宗教観の根底のにある殺生への忌避は じつはヒンドゥー&仏教から来た因果応報の理論 自分の行ったことが自分に返る それを避けるために殺生をしない といった自己防衛的な価値観があると思います
そして残念ながらその価値観はインドより東の地域に呪いのように広がり おおくの苦悩を生み出しました
ですから日本人がかかえる殺生への忌避をキリスト教の罪の概念に結びつけることには異議を唱えざるをえない

確かに主がおられた当時のユダヤ地方にも因果応報のように誤った罪の認識がありましたが
それを打ち砕いたのが福音 主の十字架の犠牲と御復活 想像を絶する真の愛なわけでして
チンケなヒンドゥーやある種の仏教の呪いを ユダヤ地方のそれのように打ち砕いてしまう
罪には必ずそれを許す救いがある
私たちクリスチャンは日本にいまだ作用してる呪いを砕くために心すべきことですし それを伝えることが宣教であると思います
60  megu ID:64HzSF.o  2009/11/08 18:03
>>59 たしかに恵みを伝えることは大事ですが、それとはまた別の話として、私たちが日常存在していることへの感謝を感じるためにも罪とは何かを改めて認識したり、罪(→相手にとって悪いこと)を犯さざるを得ない存在であることを認識した上で、感謝の祈りや悔い改めの祈りをするのが大切なんだと思う。

 生きものを殺すとかそういう罪から解放されたわけですが、しかしそれは事実として生きていくに不可欠にしていく行いなわけですし、そういうことへの感謝を忘れないことが大事なのでしょう。

 そういう感謝とか罪の意識が薄れると、だんだんと高慢の罪がやってくるのだと思いますね。
61  megu ID:64HzSF.o  2009/11/08 18:09
>>55 それとはじめましてさん、

公教会の教えとしては
殺生は罪ではないです

本当ですか?

旧約聖書のときから、殺してはいけない、と教わってきたのでは?

私も自分のうちにある生まれてこの方までのいろいろな罪を考えるとき、はじめてそれらがすべて許されたキリストの恵みのすばらしさがより深く感じられるし、大きな喜びへとつながると感じています。

そういう、大きな喜びへつながるためにも、罪って実はよく考えてみる必要があるのではないかと私も思います。。
62  はじめまして ID:V9Y2asP6  2009/11/08 19:43
えーと
人間を殺すことは罪です
生き物を理由無く苦しめることも罪です

しかし殺生=罪という教えは無いですね

繰り返しになるけど 私たち自身に刷り込まれた文化的基盤を見直さないと。。。私自身もね
63  あるある ID:qfw1QqhU  2009/11/08 20:03
すり込まれた文化的基盤を見直す?
どうして??日本文化の何を見直すの??
ちょっと、日本的感覚から微妙にずれた表現ですねー??
ふーん。おかしいなあ・・・・?
64  はじめまして ID:UeNHI/PA  2009/11/09 07:07
カルト批判に犠牲して韓国・朝鮮の人々への差別を書き込む63 あるある ID:qfw1QqhUには回答いたしません

また明らかに間違った異教の強い影響を受けた日本文化の基盤に疑問を持たない人間はちゃんとしたクリスチャンではありませんね
65  さて本題に戻って。。。 ID:UeNHI/PA  2009/11/09 07:25
>60 megu ID:64HzSF.o さん
はたして意識せずして行うバクテリア等への危害は罪でしょうか?
ひいては人間の生存活動 その行動にまつわる殺生はキリスト教の立場からして罪でしょうか?

ノアの律法と呼ばれるもの、モーセの律法 などには人間に危害を加えることについての戒めが明記されています
また食肉処理などで必要以上に苦しみを与えることへの戒めが聖伝などに存在するようですが
殺生それ自体が罪であるという規定は無いように思えます

日本において福音を理解し広げていく上で そういったずれ 文化的な枠組みでの偏向はよくよく留意しなければなりません
聖書的に 公教会の教え的に罪でないものに罪責感を持つ
それが躓きとなることもあるのですから.。。。
66  ないない ID:VAXmk1.g  2009/11/09 08:56
 どうも64と65の、同一カキコ人物のお方は、文化云々、民族差別云々などど、普通の日本人があまり、普通すぎて関心のないことに、異常に執着する傾向がありますね。民族差別????普通、日本人は使わないよねー、こういうフレーズはねー?罪の意識以前の問題だよねー???
 あなたは、だあれ??不思議な感性の持ち主ですねー。
67  罪は罪 ID:5Oa/kN0c  2009/11/09 10:02
罪は罪と自覚すべきだと思います。
僕も罪とは何たるか知らなかった5才くらいのガキのころは、
生きものに対する慈愛の心よりも好奇心の方が強く、たとえば、道端で歩いているアリを好き勝手に踏みつぶして遊んでみたり、あるいはアリをつかまえて、その足を一本一本ぬいてみたり、あるいは、アリの胴体を切断してみたり、トンボをつかまえて、「シーチキン」を見てみたり、した罪深い姿があります。

そして、とある日に、母親が見ているところで、「わらじむし」をつかまえて、つまようじで串刺しにして遊ぼうとしたときに、母に「やめなさい。生き物には痛みがあるんだよ。自分がされていやなことはやめなさい」と言われて、初めて虫を意味なく殺すことに「罪悪感」を覚えるようになりました。

子どもっていうのは、無邪気なものですが、ある意味「性悪説」というのも当たっていて、だれかが教えさとしてあげないと、何が良いことで悪いことなのか、「好奇心」が「慈愛」に勝ってしまうと、子供は判断がつかなくなり、ときに大人には考えられないような残虐なことを考えたりしてしまいます。

だからこそ、聖書が必要で、罪とはなにか、悪とはなにかを知る必要があり、教え諭す必要があるのだと思います。
それから、今まで僕は「殺生」はいかなる生き物に対しても悪いことだと認識しています。

旧約の「スケープゴート」がそれを物語っているんじゃないですか。ヤギに人間の罪を負わせて、獣に食い殺させる。そうやって罪ない動物に人間の罪を負わせて殺させる、その犠牲に申し訳なさと感謝の心をもって人間は悔い改められるんじゃないですか。そしてそういう習慣の最終点となったのがイエスキリストの十字架の犠牲なんだと思います。そういうあらゆる生きものの命の尊さに感謝して生きることはすべての人間にとって大事だと思います。
68  はじめまして ID:UeNHI/PA  2009/11/09 10:14
>67 罪は罪 ID:5Oa/kN0c さん
こだわるようですが

>「殺生」はいかなる生き物に対しても悪いことだと認識しています

は罪は罪 ID:5Oa/kN0cさんの個人的な信条ですね?
少なくともいわゆるキリスト教の教えではない
アザゼルのやぎの犠牲はそれによって罪が清められる 
それは十字架の犠牲の予告であり 旧約の捧げものなどと同じように 殺生がすくいにつながり 喜びの導入になる
つまり
日本の 殺生は無条件に悪 といった意味合いではないということですね
ここをまず踏まえる必要があるかと思います

ちなみに日本の文化風土では殺生=悪といった価値観のため 殺生に関連する職業やその従事者を蔑視差別するという紛れもない罪を生みました
69  矢島 ID:8BDem7YU  2009/11/09 13:06
このスレッドでは、質問に該当者からの回答が無かったので、[39]のコメントで停めておいたのですが、そもそも罪というものは<感性>で捉えるものだろうと考えていましたので、一言だけ[56]でコメントしました。

キリスト教も二千年・・・ユダヤ教時代から数えても約三千年の歴史の中で多少の進化を遂げてきています。
いま現在、天動説を唱えるクリスチャンはたとえ「根本主義者」であっても皆無だと思います。
これは完全に、地球が円く太陽の周りを周回していることが解明されていて、抗いようが無く、万人が認める<事実>だからです。
しかし、多少でも謎を残す部分・・・たとえば<ノアの洪水>なんかだと、執拗に伝承伝説にしがみつこうとする者も、未だ僅かに存在します。

だが、おおかたは客観的事実に正対した知性と感性の良識的働きに従い、教会も神学も遅い歩みを進めてはいます。

オックフォード大学神学部教授のリンゼイも、自著でこう書いている。
   ++++++++++
しかし、キリスト教思想は、変化し得るし、また変化する。
まだ百五十年ほど前、キリスト教神学者たちは未だに奴隷制度を弁護していたし、百年以内においても、植民地政策を弁護していた神学者を発見することは可能である。
そして五〇年前に至るまで~今日にいたるまで~神学者は、女性は男性に従属していることを弁護し、未だにそうしているのである。
多くの過ちや、誤った方向性にもかかわらずキリスト教神学は、新しい未来の世界についての神中心のヴィジョンを明確にすべく、緊急、かつ継続的責任をもっているのである。
   ++++++++++

多くの過ちを犯してきた教会は・・・(と、ひとことで語るには余りに大きすぎる罪過だが)・・・それでも、長い時間をかけて是正してきた。
我々、一般の眼からは<遅すぎる歩み>ではあっても、社会の急ぎすぎる部分のブレーキ役も兼ねながら、文化文明に追いつこうとしてきた<近代期の教会>の努力もある。

現代の日本のクリスチャンは、その歴史を踏襲していないので・・・つまり、アメリカ経由という迂回した経路を辿っている為に、特にプロテスタントの方々は教条主義に陥っているところが目立つ。
同じプロテスタントでも欧州ではもっともっと先に行っている。

<殺生>というのは元々は仏教用語といっても良いだろうけれど、既に<現代日本語>でもある。
ひとつには、日本がケモノを食べる文化ではなく、長い間、魚介類と菜食の文化であったことも、その感性に影響しているだろうけれど、その分、動物に対する認識が遅れているのも事実。
西欧が狩猟民族であった分、キリスト教の影響下にあってもなお、生きものに対する感謝の念は古代から現在までも生き続けている様で、動物愛護の認識の深さと理念、またそれにかける努力の大きさも、常に欧州文化が主導してきている。
日本は常にそれを追いかける立場に立たされている。

さて、日本におけるキリスト教宣教は、既に失敗している。
結果は出ている。
しかも4たび、失敗を繰り返している。

もし、少しでもキリスト教の文化を根付かせようと思うなら、まず日本の文化を受け入れることです。
あれは仏教由来、これは儒教由来、それはアミニズム、道教・・・と排斥否定していては、キリスト教の方が日本海域からも摘み出されるだけです。
日本ではキリスト教の方が遅れてきた<異文化>であることを認識しなくてはダメです。
日本人の意識文化と精神文化に寄り添わせていただく謙虚さが必要です。

そもそも、そうやってキリスト教は発展拡大してきたんじゃないですか。

この日本では、キリスト教の教理に合わずとも何の問題も無い。

ついでに現在も存在する「文化融合」の例として。
メキシコの「グアダルーペの聖母」というのがありますよね。
有名です。
これはカトリックでは、現在は否定しているマリア信仰にアステカの(古代宗教的)習慣が融合した「マリア参拝」が公然とカトリック教会で行われている例です。
司祭もお手上げ状態ですが、最近では司祭がそのフォローにまわっています。
70  匿名さん ID:mQUayhio  2010/01/21 12:53
>>69 謙遜に異邦の文化にアプローチする必要はあるかと思いますが、異邦の宗教にキリスト教を融合させるのは違うと思います。

 ガラテヤ書にも「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」とパウロ使徒が警告しています。

 各地の文化や歴史を尊重しながらも、聖書の御言葉の内容は曲げてはならないと思います。クリスチャンは他の混ぜ物を入れずに福音をつたえてこそ、聖霊の働きによる本当のリバイバルが実現するのだと思います。
 
71  矢島 ID:HpG4Gwcg  2010/01/21 17:45
70:匿名さん
(できれば、なんかテキトーな名前を名乗っていただけると助かるんですが・・・
 ここでは、匿名という同姓同名の方が非常に多くてヤヤコシイ)

≪各地の文化や歴史を尊重しながらも、聖書の御言葉の内容は曲げてはならないと思います≫

ボクはそういったことは云っていないはずですが・・・

<あれは仏教由来、これは儒教由来、それはアミニズム、道教・・・と排斥否定していては・・・>

というのは、たとえば「七夕祭り」、たとえば「正月飾りや鏡餅やおせち料理」、たとえば「お月見」「精霊流し」・・・など。
こういった今や単なる日本の風習、慣例、文化として存在するものを、異教由来として排斥するべきというような依怙地で偏狭でガチゴチな信者さんがおられるでしょう?
そんなもん通用しないっていう常識くらい理解されてないと、とてもとても日本宣教なんて夢のまた夢・・・ですよ?と申し上げています。

しかし・・ね。
≪クリスチャンは他の混ぜ物を入れずに福音をつたえてこそ・・・≫

と、云われましても、既に膨大な<混ぜ物>で出来上がっているんじゃないですか?・・キリスト教は。
あなた方はクリスマスはお祝いしないのですか?
イースターも?

その、最初期からいろんな近隣からの混ざり物が・・・とか云いながら、では<混ざり物>のない純粋なキリスト信仰とは?・・・と云ってみても、新約自体が大別して4つ~5つの思想によって書かれてますようなので、どうにも仕方の無いハナシではあります。
72  現在 ID:mGxqsnIQ  2010/01/21 19:50
現在はあのり原罪について論じていませんね。
原罪は2010年です。
73  とあるクリスチャン ID:WlQxUTyU  2010/01/22 10:09
>>71 世の学者とキリスト者の価値観の違いかと思いますが、聖書は霊性によって書かれた書物です。
 もちろん、世の初めからイエスキリストの誕生以降まで生き続けられる人間はいませんから、書き手は様々だったでしょう。
 しかしその内容は聖霊による啓示を受けたもの、聖霊の働きを中心とした人類の救いの歴史が書かれています。

 ヨハネ福音書および、ルカ・マルコ・マタイの共観福音書はそれぞれ記者は別別ですが、みなイエスキリストの生についてそれぞれの価値観で書かれていることで、読む人があらゆる角度からイエスキリストを見れるようになっていると思います。一度はイエスを裏切ったペテロが改心した後にのべ伝えた福音、そして以前はキリスト教の熱心な迫害者だったパウロが聖霊の働きを受け、イエスの使徒となって伝えた福音、それぞれがそれぞれの人間性を反映しながら聖霊による御言葉をのべ伝えているところが面白いです。

 しかしながら、聖書を世の中的な文献を読むような読み方で読むと、すぐにつまらなくて飽きてしまうと思います。私も以前は英語の勉強のために良いことを書いている部分だけ暇つぶしに読むような読み方しかしていませんでした。。

 -聖書は、イエスキリストへの愛があってこそ、初めて読む価値の十分ある意味深い書物となるのだと思います。世の中の人は、クリスチャンが毎週礼拝に行って、讃美歌をうたっているのを馬鹿にしたりしたがる人もいますが、そもそもなぜ、聖書のみことばを聞くのにその前に歌を歌うのでしょうか。それは、歌が愛の感情を呼び起こさせるからです。その歌を歌うことによるイエスキリストへの愛の心が十分満たされたところで、聖書のみことばを聞くから恵みがあるのだと思います。そして、そのイエスキリストへの愛をもって聖書を見るとき、それぞれの福音の記者は異なれども、聖書はひとつの神による霊性によって書かれた一貫性のある書物であるということを実感できるのだと思います。

 そうして、聖書というのは、この随分前に自分が立てたと見られるスレを振り返るとつくづく思うのですが、私のような罪人・病人を救うための書物なのだと思います(マルコ2:17)。まるで論文でも読み進めるかのような、あまり平常な精神で読んでも恵みを感じないかもしれません。本当にイエスキリストが必要で、それ以外に救いはない、という心で読むときに、その中に書かれた内容の霊性による一貫性が心に響くものなのだと思います。もちろん、それを導く牧師の存在がとても重要なのは、言うまでもありません。

 -良い牧師とは、自分の知識や経験、職位あるいは世の中的な富の力によって高慢になることなく、ひたすら自分を無にして弱くして、神様の力を受けて御言葉を伝える牧師のことを言うのだと思います。そのような牧師の姿を見て、「人間の能力によらず、聖霊の働きが大胆に働かれている奇跡」というのを聞く人が実感することができるのだと思います。そうなるためには、聖霊の力を大胆に働かせることができるためには、「自分」を壊さなければなりません。これが要するにガラテヤ書2:20節に書かれている奥義-「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」-なのであると思います。

 また、第2コリント12章には、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」とありますが、このように常に自分の「強さ」ではなく「弱さ」を誇り、神の恵みを受けようと祈り求める姿、常に聖霊の働きに満たされている姿が特に教会で御言葉を伝える牧師には必要だと思います。牧師というのは決して職業などという括りに収められるものではなく、その人の人生そのものがまさに「生ける神殿(ローマ12:1)」となっているような、そのようないつも聖霊に酔いしれているような姿が必要なのだと思います。そういう「自分」というものを全く誇らないで、神の御業のみを誇る牧師の姿を見て、信者の信仰も高まり、人間的にはとても弱い姿を隠せない牧師を通してまさに聖霊による力強い働きがなされるために、もっと牧師の働きのために祈り、そして助けになろうと思うようになることで、教会全体の勢いが高まり、リバイバルが起こることにつながるのだと思います。

 そういう自分の弱さを誇り、その弱さを通して神様の恵みに十分に満たされて大胆に主の御業を伝える牧師さん達の存在が、もっともっと、クリスチャントゥディのようなキリスト教新聞で光が当てられて伝えられていくと良いと思います。そういう牧師さんに出会えるか出会えないかでも、聖書の見方が随分違ってくるのではないかと思います。そう考えると、キリスト教の新聞というのはその「伝える視点」が人類の救いのために本当にとても重要ですね。

 それで、原罪についてですが、このような観点から見ますと、結局「高慢」という罪に陥ってしまったがために、本来は神の器として神様の御業が聖霊の働きを通して十分になされるように人間を創造されたにもかかわらず、この「高慢」という覆いによって、せっかく十分な器があっても神様の御業を働かせることができないのが、「高慢」という世の中的な罪を負う私たちの姿なのだと思います。

 -教会の牧師を見る目が、世の中の学者や政治家、起業家を見る目とは異なる必要も私たちにはあります。結局ある牧師が何か要職に選ばれたり、なにか誉れあるものを受け取ったりしたときに、「その人が(世の中的な価値観で)自分よりどう優れてそのようになったのか」を見るのではなく、また伝える方もそのような世の中的な業績を伝えるのではなく、「その人を通してどのような神の御業が成し遂げられるのか、どうしてその要職に就くにふさわしい人格なのか」が報じられる必要があるのですね。キリスト教の新聞が事実をどのように伝えるかでまたキリスト教に対する読者の印象や見方も大きく異なってくるように思えます。まだまだそういう意味で日本のキリスト教が1%未満なのは、キリスト教の新聞がまだまだ未熟であるというのも大きな原因の一つであるのではないかと思いますが、これからは本当に聖霊の働きを伝えるキリスト教の新聞が大いに活性化していってほしいものだと思います。

74  矢島 ID:AIZo5XFU  2010/01/22 10:16
72:現在さん
そうでしょうか・・・?
ボクは[コメント:1]に対しても、応答しているつもりですが?

ただし、大方の部分で[コメント:1]は支持できますが・・・
≪まずは、異邦人においては、相手の立場をとりあえず認め、まずはそのような人にもすべての人に対してのクリエイターであられる神の愛が施されているということを知って頂き、聖書を読んで頂くことに謙遜な姿勢で取り組むことが宣教の一番の近道だと思います≫
という個所は、もひとつ・・・ですね。
【とりあえず認め】るのではなく、全面的に完全にスッカリ認めなければ意味は無いし、相手にも通じない。
また、それ(相手の存在を受け入れる行為)が宣教のためであってはならないし、他の何かのためであってもならない。
全てに先んじていなければ、そのアトはない。
宣教・伝道など、必要ならアトから勝手に着いて来る。
75  矢島 ID:AIZo5XFU  2010/01/22 18:31
73:とあるクリスチャンさん
(時間が無いので、ひとことだけ前振りしておきます)

≪聖書は霊性によって書かれた書物です≫
と、お考えにならないほうが(クリスチャンとしても)実りは多いと思います。
ボクらは、<聖霊の働き>とか<神は何でも出来る>とかいう、オールマイティなカードを持ちません。
また持たないようにしています。
矛盾は矛盾のままに、なぜ矛盾しているのかを考え、判らない部分は判る時まで、判らないままにしておきます。
<人間には解からないが、このように信じろ>なんていう乱暴なことは、とてもとても・・・出来かねます。

しかし、あなたがたの(他の誰であっても)信仰を否定するものではありません。
(ただし、もし行為として社会に害になる部分があれば、その部分を取り去る必要はあるでしょうが)

76  矢島 ID:DfoUXwu.  2010/01/24 18:20
75のつづきです。

≪世の学者とキリスト者の価値観の違いかと思いますが≫
ボクは学者ではありません。
元クリの・・・ただの貧乏な労働者です。
よって、聖書学、神学、文献批評、正文批判、などについても素人の読み齧りに過ぎません。

さて・・・前段部分について。
≪ヨハネ福音書および、ルカ・マルコ・マタイの共観福音書はそれぞれ記者は別別ですが、みなイエスキリストの生についてそれぞれの価値観で書かれていることで、読む人があらゆる角度からイエスキリストを見れるようになっていると思います≫
これは、そういう風にお考えになるので、のちのち三位一体説などが生み出されることになる。
ご存知のように、福音書に先立つものは、パウロ書簡類です。
このパウロ存命中に、あらかたキリスト信仰は出来上がっているわけですけど、マルコ、マタイなど、あからさまなパウロ主義批判で書かれていますよね?
有名ですが、ヤコブ書など真っ向からパウロに反論しています。

エクレシア時代から、どうもいくつかのグループに分裂していたようです。
パウロ主導のアンティオケア派、いわゆるマタイ学派(エルサレム教団)、そして長老ヨハネ教団・・・更には洗礼者ヨハネを信奉する教団(後のマンダ教団)と、そこからの改宗者などなど。
キリスト教は、その出発点から既にお家芸の「分派」が始まっていたわけです。
更には各福音書は、それぞれにアンチを投げかけている形跡もあります。

≪聖書を世の中的な文献を読むような読み方で読むと、すぐにつまらなくて飽きてしまう≫
いえいえ、とんでもない。
ますます興味深く読んでいます。
非常に困難ではありますが、イエスという若者の残した驚天動地な革新性、人間社会の根源的問題に独り立ち向かう先駆的行動は、眼を見開かされるものがあります。

最近どうも、キリスト教徒という方々は、教派教義上のキリストを信じる方々であって、実際のイエスの言葉なんぞはどうでもよい人たちなんだと解かってきました。
イエスがこうしろと命じたことは行わず、するなということは飽きず繰り返す。
そして、出来ない自分たちを赦し招いてくれるのが神の子なんだと、恥知らずな詭弁を垂れる。
やりもしないものが出来るわけもないが、それなら、するなと云われている事くらいは、しないでおくことも出来るだろうに。
77  悩めるクリ ID:cnOHwsdw  2010/03/06 15:51
-高慢-と言う罪は、決して人の中からなくならないだろう。

人は皆関係性の中で生きている。

無にして、低くして、世に評価されることなく、だれにも評価されることなく、どうしてこの世に存在している生きがいが見出せようか?なにが私の本当の「生きがい」となりうるのか?

私は今とても苦しんでいます。

非常に苦しんでいます。

自分がクリスチャンとして適切なのか。

自分がクリスチャンであることで、キリスト教の発展を阻害しているのではないだろうか?

一体私は何のためにこの世に生れてきたのか?

このようになった原因は「どこ」にあるのか?

・・・結局は自分の罪を観るのではなく、このような原因を創った源に理由を問い詰めてしまう自分がいる。

 神は本当におられるのかもしれないが、ひとついえるのは、今の私は誰にも好かれる存在ではない。みなから煙たがられている。

 そんな孤独な存在。自分の属している共同体から消え去ってしまいたい。自分の中だけでひっそりと生きていたい。

 神と人間、男と女、人と人-すべて「ひとつ」になるなんて絶対に不可能だと思う。この不可能の壁をどのようにして崩すことができるのだろうか。内的要因だけではなく、外的要因も必要だろう。

 必要だろう!!その外的要因とは・・・

ーおお!神よ!!!この哀れな人たちをお救いたまえ!!!!

 アーメン!!!!!!
78  a drop of river ID:SPqZm8zg  2010/03/19 16:56
 結局人は「大河の一滴」にすぎない。

 この考えがキリスト者にも重要だ。

 どうしても肉に覆われているうちは、霊的な世界が見えない。

 愛の本体であられる神様が、より近くに置こうとするのに、

 高くなること、高くなりたいと思う欲求が邪魔して

 霊的に神様と近くにあることができない。

 その欲求を利用してサタンが信仰の道を妨害する。

 高慢という原罪に打ち勝つ力は、実は日本人のような集団としての和を大切にする民族にこそもてるものではないだろうか。

 本当に聖霊の働きを信じるなら、低くなることで高くあげられる逆説の世界、肉が離れた後に訪れる霊的な世界でのまったく肉的な世界とは異なる逆説の価値観が支配する世界に至る真理を知るなら、今の時の困難など取るに足りない(ローマ8:18)ということを悟ることができるのだと思う。

 自我から離れ、無の境地に至るーここまでだと仏教でしかない。本当にそんなことができる偉大な聖人はまれにしかいない。

 キリスト教は仏教と何が違うのか?そこに正に「神の愛」が働かれるということ。聖霊の働きがあるということ。自分の力のみで無の境地に至り聖人になろうとすると大変だし、信仰が苦しくなるだろう。しかし、すべて自分の強さを捨て、弱さを神の前で素直に告白し、すべてを主により頼み祈るとき、神がその人の足りなさを覆ってくださる。聖霊と愛のうちに招き入れ、より深い霊的な世界に導いて下さる。

 -たまに黙想してみようではないか。私たちの背後で働かれている「御使い」たちの存在を- 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。(ヘブル1章)-大河の一滴にすぎないようなはかない命で尽きる人間達に比べれば、遥かに偉大である御使いが決してこの世界ででしゃばろうとせず、人間の影に隠れて仕えている。この深い愛の世界を良く黙想すること、そして御使いの中で堕天使となったサタンの誘惑に陥らないように、常に高慢という原罪を避け、神に祈り求める謙遜で真摯な信仰の姿を私たちひとりひとりの魂を迎え入れられる全能なる愛の神様は望んでおられるのだ。

 -全能主の望まれることは真なる無にする愛であり、この世で名誉を得ることではない-大河の一滴でしかない我々がこの世で名誉を求めたところで、やがては朽ちる。常に私たちの背後で働かれている聖霊の力にすべてをより求めて生きる信仰の姿を養うことさえできれば、何も思い煩わなくとも主がその人に最もよい道を与えてくださるだろう。
79  匿名さん ID:BKHxi7Lw  2010/05/05 13:45
 「自分の思う自分」と「他人が思う、期待する自分」と、「神様が思う自分」。これを一致させるのが至難の業だ。

 たいていの人間は私も含めて自分など神様に用いられるような人間ではないと思う。熱心なクリスチャンはそういう「神様に用いられるような人間ではない」と思っている人間を無理やり神様に用いられる人間にさせようとする。神様もそのようになることを願われると聖書のそこここを見れば書かれている。

 神様がこのように思われる。兄弟姉妹もあなたのことをこのように思う。しかし自分はちっともそのように自分のことを思えない。

 この「自己の壁」を壊すのが難しいし、この壁の外と内にある思いが全く異なるときに、半狂乱状態になる。

 しかしこれも考えてみれば「高慢の罪」なのだろう。それほど、人間が、アダムとイブが知恵の木の実を食べてしまった罪、自分が思う自分と神様が思う自分に「大きな壁」を創ってしまった罪は深いものであり、堕落の根源であり、あらゆる力を持っても回復の使用のない状態までもっていってしまったということなのだろう。。

 
80  匿名さん ID:BKHxi7Lw  2010/05/05 14:04
 もし日本に契約の箱が運ばれてきたのが事実だとすれば、日本に課された呪いは深い。

「ケハテ族」しか担いではならない契約の箱が、「お神輿」と言う形で、誰もが担ぐようになってしまっている。このようなことを神道に言っても何も始まらないかもしれないが、呪いが呪いを呼び、今のような「厚い壁」を自己の内につくり、最後にはペリシテ人が契約の箱を奪ったときに四肢を切断されたり、「腫物」で打たれたように(第1サムエル記4章)、私たちの最後も血管が切断したりがんで「腫物」ができて苦しみながら死ぬしかないようになっているのだろう。。

 その「呪い」を特には、強固なる「聖霊の力」が必要だ。その力を呼び起こすためには、いったいどうしたらよいのか。「自己の壁」を崩壊するには、神様を素直に受け入れるにはどうしたらよいのだろうか。。クリスチャンの生活はキリストとともに十字架を背負う生き方。その生き方の中で、何かを通してわかってくることを願うのみである。

 
  
81  とあるクリスチャン ID:a8XE.yzY  2010/05/08 12:06
―「原罪」と言う罪、人間が生まれながらに持ってしまっている罪を知るとき、とても深い人生の悟りが得られると思います。

「呪い」と言うものを考えるとき、人間が創造される前に、すでに世界には聖霊と悪霊と言う二種の霊的存在があったという真理が痛感されると思います。

 悪霊は肉なる生き方を助長し、聖霊は霊なる生き方を助長させる。クリスチャンになったから、あらゆる罪を捨て去り、霊的に生きましょう、と言われても、すぐにそれを自分に適用させるのは難しい。それを導くのが聖書の御言葉であり、祈りであるのだと思います。

 ローマ8章「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

 第一コリント13章「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 この二つの御言葉に、人間の高慢の罪を打ち破る秘訣が隠されていると思います。それとともに、高慢に生きるとき、いくら自分の力で努力したとしても「何の役にも立たない」という人生の残酷さとむなしさも知ることができるのではないでしょうか。

 ユングという心理学者によると、人間の意識は「意識、個人的無意識、共通無意識」という順番で三角形に形作られるそうです。人間は精神の根底の部分で共通の無意識というものがあって、それがこれまで世界の人類が共通してもっているといわれるものだそうです。私自身が「自分が自分である」と初めて意識するようになった幼稚園に上がる前の3歳くらいのころ、とても不思議に思っていたことが、そういえばあります。「どうして自分は自分なのか?他人(母や周りの人)も自分と同じような意識の構造があり、物を考え、動いている存在なのだろうか」と。。実は、「自分は自分である」という意識というのは、私たちが外界環境と接しながら植え付けられた意識であり、人の意識というのはその奥底では「ひとつ」の思いにつながっているのではないでしょうか。

 その思いが、天の御国の実現への共通の意識であり、それが覚醒されたのが、私たちクリスチャン、ノンクリスチャンも奥底ではそのような魂の持つ思いがあるのですが、それにまだ気づけていないだけなのだと思います。

 その真底にある共通無意識の上に、私たちが肉を持ち、外界環境と接するなかで「自我」という覆いができ、その上で三角形の一番頂点の小さな部分にあたる「意識」ができてしまったのだと思います。神様は私たちキリスト者を通して働かれるお方ですから、この「自我」の覆いを取り払い、ダイレクトにその思いを伝えたいと思っておられる方なのだと思います。

 神様と私たちが「覆い」をつくることなくダイレクトにつながり、そしてその思いを他のまだ救われていない魂たちに伝えるためにも第1コリント13章に書かれている「愛」が必要不可欠であり、もっとも重要なものなのだと思います。「愛は自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、怒らず、人にした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜ぶ。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」―どれだけ時間が流れても永遠に残るものはこの「愛」それだけなのでしょう。

 愛による神様との結合、すべての人たちの魂の救い―これは「まだ見ていないもの」に値すると思います。この世のどのような偉大な権力や名誉であれ、すでにこの世にあるもの、あったものを追い求めても、歴史は繰り返すだけ。しかしまだ見ていないもののためなら、あらゆる忍耐をもって熱心に待つ価値があるのではないかと思います。そのために、信じるものの弱さを補うために「御霊」がとりなしてくださるのだと思います。だから、私たちはいつも「祈る」必要があるし、その祈りを深くするためにも御言葉を近くにおいて、固い信仰をもって主を愛することが必要なのだと思います。

 狭い視野に囚われるとき、信仰や愛がわからず、高慢の幕屋、自分の狭い「意識」のうちに覆い隠されてしまいそうになってしまいます。それを打破するためにも、「もうわたしは救われた、聖書の内容を知った」などと高慢に考えず、つねに主と思いを一つにする必要があるのだと思います。自分の中で「高慢」の行動が目立つようになってきたら、神様と思いが離れ出した赤信号だと捉え、より主と近いところにいるように心がける必要があるのではないでしょうか。

 無意識のうちに「自分は自分である」と気付き、その結果として「自分は自分のものである」という高慢の意識が私たちを支配するようになってしまいましたが、本来、私たちが創造されるまでに、どれだけの犠牲があり、どれだけの奇跡的めぐりあわせにより誕生するに至ったか、そこに至るまでの神様の創造と愛の犠牲を考えると、決して人間は「高慢」にはなれない存在であると思います。「自分は自分である」→「自分は神によってつくられた」→「自分は自分のものではなく、神のものである」→「神が常に自分の行動を見つめておられ、共にいてくださる」→「神とひとつになる」この過程を常に認識し、自分の覆いを取り払っていくこと―これが高慢の罪を取り除き、主と一つになるに必要不可欠であると思います。そのようにして、すべての人類が共通無意識を自覚し、神とひとつになるとき、世界を創造された神様の御心と、人たちがこれまで様々な願いを抱いて歩んできた世界の歴史が成就し、ついに終末に至るのではないでしょうか。

  マタイ18章に、「1万タラントの借りのあるしもべ」のたとえが書かれてありますが、私たちひとりひとりが、これまでの創造の歴史、人類の歴史の上に成り立っていて、神様や祖先の多くの犠牲の上に生きています。このことだけでも、私たちがさらに犠牲して返そうとしても決して返すことのできない「借り」があるといえるのではないでしょうか。―昔の人がきっと生きたかった「明日」を無条件の恵みにより私たちが生きることができ、以前は自由に聞くこともできなかった真実なる御言葉、知る余地のなかった未来に、多くの犠牲の上に成り立っている―そんな当たり前のことを広い歴史的時間軸をもって黙想するとき、より謙遜になれるのだと思います。

その上で、もし私たちの中に「百デナリの借りのある者」を許せないような、狭い視野に囚われ、「敵」を憎み、愛することのできない偏狭な心がないのか、特に私の中にないのか―「しもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」―世の歴史そのものが、人たちの「許せない姿」のゆえの争いの繰り返しではなかったでしょうか。それでも世の人たちは、「主による救い」を知らなかったのですから、それは仕方がないことだったのかもしれません。私たちもさまざまな世の出来事や人間関係に対して「許せない姿」があるかと思いますが、すべて「主にあって」こそ許すことができ、正しく導くことができ、さらに敵をも「神の愛」により包むことができるのだと思います。―イエスキリストの道とは世の罪を取り除くために、進んで一番低い立場になり、弟子の足を洗い、一番下の立場から世の世界を神様とつながるように導く道。。私自身まだまだ自分の壁が強く、主とひとつになるには問題の多い罪深い姿がありますが、すべてを下ろしてそのような愛を示していくことで、これからも信仰の道を黙々と歩んでいければと思っています。

 ―愛するイエス・キリストが創造の初めからつねに私たちを愛し、側にいてくださる―時を超えて、形を変えて、まだ見ぬ偉大な未来が残っている―それを信じて未来へのまだ見ぬ希望に身を委ねていけますように―(Heaven 作詞:ayumi hamasaki http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND26645/index.html )
82  one in christ ID:SWB6cnbk  2010/05/10 18:26
 神様はただ人間に「愛」をその生において表現することを望んでおられるのでしょうね。

 そのように犠牲する歴史を考えてみれば、世の知恵者のように科学信仰・哲学信仰で考えれば、偉大な科学者、偉大な哲学者には寿命を何百年・何千年あるいは永遠の命を与えて、ずっと生きていていただければ、そして取るに足りない者だけ死ぬようになれば、もっと早く世界は近代化したのでは?と思いますが、神様はそうはなさらなかった。そもそもそういう話なら、神様と御使いという人間よりはるかに優れた(マタイ11:11)存在だけで、未来都市などとっくの昔に実現できていたでしょう。

 人間のようなとるにたらない存在を何度も数十年のスパンで生まれては死ぬ繰り返しをさせられているのは、つまりは神様が私たちの罪を自覚し、自ら悔い改め、主に愛を返すと言う行為を求められているからだと思います。主が私たちに求めているのは「真実なる愛」であり、他のいかなる能力的な自慢・外面的な自慢はまったく天の世界の前には馬鹿げた行為であるのだと思います。

 
83  矢島 ID:fCdz0wSg  2010/05/15 11:52
>>82 one in christさん☆
≪何度も数十年のスパンで生まれては死ぬ繰り返し≫
これは、どちらで教えられている解釈でしょうか?
キリスト教では聞いた事の無い輪廻転生ですけど。
84  one in christ ID:m3zHg2UI  2010/05/15 18:22
>>83 矢島様

 別に何の宗教でもありません。自然の摂理を話しているだけです。人は何十年の寿命で死にます。それを人類全体の歴史で見れば、それが繰り返されているということを述べただけです。前世とか来世等が生じるひとりの人間の生まれ変わりを話しているわけではありません。

85  矢島 ID:fCdz0wSg  2010/05/15 22:46
>>84 one in christさん☆
なるほど・・・わかりました。
でも、それだと、過去の命はダメだったけど、新しい命が神に立ち返れば良い・・・というように聞こえますが?

生まれ変わりではない、別々の命の連鎖では<悔い改め>ではなく、進化というようなことになりますか?
86  シオン研究所 ID:CERXYMz6  2010/06/08 20:48
謎の声が聞こえてこういいます。三ノ宮のカソリック教会に行って
1000円寄付してきました^-^教管区の長と話した。
イエスの言う原罪とは 死ね と言うことだ、
ローマ法王は 童貞で監獄で一生をイエスに捧げる。イエスのために祈り学ぶ、邪心など無い 愛し 信じている イエスをもっと学びたい
でも死ぬ。何も悪いことをしてないのに。それを原罪の寿命だと言うのか?イエスが神なら 不老不死を ローマ法王にくれ!マジで くれ!
褐色脂肪が 人間の電池で BMP-7 PRDM16 で永遠に生きられる。原罪は嘘だ。 ペテン師でカスのイエス イエスは死んで当然
われわれを殺すからだ。マイヤー=岡 は不老不死をデイビッド・ロックフェラーにくれた。ベネヂクトにくれた。マイヤー=岡が神様だ。
不老不死をくれない イエスは ゴミくずだ。 地球は存在するよ。
天の声で、謎の声です。不老不死製作者は神様だだと^-^
辞書から 老いる 死ぬ を消せ。そんなものはいらない。
死は 財産 叡智 権力 努力 愛 技術を 無にする。嫌いだ。
意識も無くなる。嫌だ。受け入れられない。法王でさえ同じだ。
生きてこそ救いあれ これが神の真の言葉だ。イエスは嘘つきだ。
天の声は イエスを憎んでる 死ぬなどとふざけるな 怒ってる。
アメリカ合衆国政府が 責任を持って アガペーな不老不死の薬
聖エリクシール を全人類に配る 今すぐにだ!! マイヤー岡は
神様だ!(訛のある田舎物っぽい声が聞こえてきます。)
超光速航行 時間遡行の理論も持ち。いろいろな理論の提唱者です。
こいつは 266歳 マイヤーアムシェル シオンの長老
1744.2.22生 フランクフルトの出身だ。ユダヤ人が神だった
と言ってます。声が エクセリオン シュッツ ガルドヘイム!!!
87  とあるクリスチャン ID:8Fj.EzhA  2010/06/09 15:07
シオン研究所さん

謎の声に振り回されないように願います。
私もノンクリスチャンだったとき、早朝に謎の声が聞こえてだれにも打ち明けられずひそかに悩んでいたことがありました。その謎の声の言葉によって毎日朝に礼拝と祈りをするように促されていました。謎の声の発信者をあがめるための礼拝をするようにと・・今考えると堕天使による誘惑であったと思います。

 堕天使はそういうことを言います。イエスを馬鹿にしようとします。ちょうど、十字架にイエスをつけたユダヤ人の祭司長やパリサイ人たちがそのようにイエスを扱ったのと同様です。

 世の権力者は肉的な力や人間的な知恵や技術の高尚さを誇ろうとします。ある研究者たちは、この世界のすべてをコンピューターでモデリングしてシミュレーションすることができるという野望を抱いて研究活動にとても熱心に取り組んでいるのかもしれません。そしていつかはこの自然界を人間の知恵と科学技術で支配することができると…そのような謎の声が聞こえていた時が私にもありました。

第1コリント1:18~「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 これは、すべての世の知恵を誇ろうとする人たちへの警鐘となる御言葉と思います。イエス様の御言葉の深い愛の世界は、世の中的な知恵や技術を人間的な力で追及しようとする人たちにはとても愚かな世界に感じます。

マタイ24:34-37~「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」

 しかし、イエス様と心と思いをひとつにして、世界中の魂の救い、今ある天と地の世界が滅び去り、神様と私たちがいつまでも永遠に一つでいられる世界がやがて来ると言う確信に至るとき、そのような肉的な思い煩い、肉的な死は、実際どうでもよくなるのではないでしょうか。なぜなら、肉はただの現世を覆う覆いにすぎず、その内にある私たちの霊こそ神とともに永遠に生きるものだからです。

  ピリピ1:20~「それは、私がどういう場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」

 パウロ使徒もこのように証ししています。生きることはキリストであり、死ぬことも益であると。自分自身でいえば、世を去ってキリストとともにいることの方がはるかに勝っているが、あなたがたのために肉体にとどまっているのだと。真実なるクリスチャンは霊的な世界での永遠のいのちへの確信があるから、肉的な死をさほど恐れないのだと思います。

 堕天使は執拗に人間の信仰を誘惑してきます。所詮人間は肉的な存在、動物の一種にすぎないのだ。霊的な世界などわかるまい、それみろ♪と誘惑してきます。堕天使の声が聞こえてきたら、再度聖書を黙想し、神に祈ることで、「下がれサタン!」とイエス様のように声を出していうことで、信仰を保ってくださることを願います。

 人間は知恵の木の実を食べてしまったがゆえに、「原罪」と言う高慢の罪、神様の愛と自分を切り離して考えてしまうようになってしまいました。創世記を読めば、人間の高慢によりどのような悲惨なことが生じてしまったのかが痛感できると思います。カインがアベルを殺すような罪も、人間が高慢になってしまったがゆえに生じたものであり、今の世界でも実際にその肉体を殺さないにしても、心の中で相手を殺すようなことはよくあることなのではないでしょうか。

 マタイ24:42-51「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 主は私たちが肉的な問題、サタンの声に煩わされて霊的に眠ってしまっているようなときに思いがけなく来られるものです。どうかサタンの誘惑に惑わされず、肉的な世界をはるかに超越した永遠のいのちと天の御国に主イエスにあって確信をもっていただけるように願います。
88  サタン ID:cH6Wg/PU  2010/06/09 17:43
てゆーか原罪そのまんまあらわれてるぢゃんここの大半の人間らw
89  サタン ID:ruFnfeoM  2010/06/10 21:28
うーん今日も原罪凄いね人は人の肉体だけにとどまらず魂までも滅ぼそうとするのは原罪故なのかもな救いに肖ったって悔い改める気すらない事神は嘆いているだろうね「何が望みなのか?」は最早死語!?
90  himawari ID:sftMIY1Q  2010/06/10 22:18
aeonさんへ

高慢な私の姿を見る時、私も絶望感を感じる一人です。私の罪はなんと底抜けに深いのだろうか、そういう自問は日々あります。

しかし、高慢な私たちが、キリストによって無条件に赦され、救われた恵みはあまりに大きいですね。イエス様は、高慢な人々を、まずありのままの姿で受け入れて下さいました。赦せない程の罪を犯した者をかばってくださいました。高慢な罪が抜けたので、抱いて下さったのではありません。高慢な罪があふれているときに、私たちを抱いて下さいました。あまりに醜いので自分自身でも嫌悪する存在だとしても、そんな心も全て慰め、イエス様は抱いて下さいました。ここに救いがあるのです。高慢の罪を自分の力や何かの修行でなくす事は容易ではありませんし、不可能かもしれません。ところが、高慢な醜い私を、ありのまま赦し抱いて下さったのです。それを受け入れさえすれば、その人は救われます。日々の生活の中で自分の高慢に絶望しても、そのたびにイエス様の十字架の愛と救いは限りなく与えられ、永遠に死なない、絶望しても希望を見出せる、その恵みにあずかるようになりました。私は醜いのですが、しかし絶望し続ける事はありません。醜い私をも主は愛して下さったのですから。その愛の中で生きる時、平安が与えられ、高慢の醜さを取り除いて下さる日があるいは与えられるかもしれません。醜い私を愛して下さった主の愛を受け入れる事、そして、あきらめずに自分の罪の除かれる事、キリストに似た者となる事を祈り続け前進し続ける事こそ重要だと思います。あきらめ、絶望すればそれで終わりです。しかし、私たちの回復の道はイエスの十字架によって、毎日開けております。救いは来ました。天の御国の鍵は地上のある者たちにも与えられています。鍵を望む全ての人々に鍵が与えられますように。
91  シオン研究所 ID:ivGBgE26  2010/06/12 16:52
天の声が言う、(天声人語?)
神託は成された。
天の声も こいつの不老不死でイエスに怒りを感じたが
今は平常心だ。イエスへの信仰を捨てる必要は無い。
天の声を聞け、法王の言葉を聴け。
はい は はい、いいえ は いいえ だ。
そのままの意味だ。 天声を聞け。ラジオの雑音だ。

この神は マイヤーアムシェル シオンの長老
30歳の肉体を持つ 266歳だ 
宇宙の開闢 時間遡行に協力しろ 
43億年 直下で 宇宙が終わる。
未来人はこいつの手先 宇宙人はこいつの奴隷だ。
天空神 宇宙神 絶対者 至高の存在 でも 2級神
死んだ人間を生き返らせるのは こいつ以外は無理 約30年後だ。
92  シオン研究所 ID:ivGBgE26  2010/06/12 17:42
そうだ、オラクルである。ミラクルでもある。
U原 嬰子の占いでは、こいつは パーフェクト。
「あなたはすばらしい存在です。」
「何もいうことはございません。」
占い師は、こいつと話すとこう言う。
凶気だ。我々から見てもきちがい沙汰だ。
奇跡か、天変地異か、世界の宇宙の終焉か。
ラグナロック??アルマゲドン???
判らない><天の声の人の言葉><
93  横やりバスター ID:fiiX/.AQ  2010/06/12 18:50
>>92  世界の宇宙の終焉はすべての人類の魂が救われることでやってきます。これほどわくわくすることはないでしょう。複雑に考えないで素直に福音を受け入れてください。
94  シオン研究所 ID:rsK7K2P6  2010/06/13 07:11
天の声「お前は神様や。世界皇帝ロックフェラーとローマ法王ベネディクトは お前を拝んでいるぞ。」私「当たり前だ。不老不死を配っただろ。」 天の声「そのとおりです。」私「稲川会とその親戚を皆殺しにしたか?」 天の声「実行中です。すみません。」私「次の総理は前原にしろ。」 天の声「死ね、殺す。と言う発言を命令するのはやめてください。」 私「超光速航行、時間遡行の理論あるのに資金が無いぞ!怒。」
私「天の声は無能か?」天の声「いくら神様でも無能は暴言です。」
私「ギリシャにイビチャオシムの声を聞かせたのに、負けたのはなぜだ?」 天の声「NHKのせいです。あとギリシャにオシムは向いてませんです。」 私「朝鮮人を殺すか、キムチ チャングム クッパ と聞こえさせろ!」 天の声「やってます。ぺ・ヨンジュンにパスしろといっても聞きません><」 天の声「明らかに、W杯のメンバーにぺ・ヨンジュンはいません。」 私「日本人の人口を半分にしろ。殺せ。電波で殺せ。命令だ。」 天の声「無理です。通訳を拒否します。」私「you must kill jap korea.」 天の声「NO.NO REASON。」私「ORDER!」 天の声「殺す良くない。」私「目の前の自転車を殺せ。」
天の声「理由は何ですか?」私「自転車に乗ってるからだ」
天の声「自転車は犯罪ですか?頭おかしいですか神様?」
私「お前らはくずだ。イエスが不老不死をくれたか?」
私「ローマ法王は童貞で監獄、生涯をイエスに捧げ、祈り愛す、
まだイエスを学びたいのに、原罪で死ぬ。それを救ったのは私だぞ。」
天の声「それは感謝感激雨あられですが、イエスの悪口はやめてください。」 私「ヴァチカンが泥棒しそうだ。不老不死の名誉を!殺すぞ。」 天の声「殺してみろや。」私「宇宙人は超光速航行、未来人は時間遡行。」私「人間は不老不死、死者蘇生に逆らえんだろう。」天の声「泣きますよ。」天の声「266歳の老人はずるいです。」私「黙れカス。」 天の声「あなたと話すのは苦痛です。話しかけるのをやめてください。」私「お前らが勝手に答えてるだけだ。」天の声「豚ー豚ー豚ー。」私「死ねカス。粗大ゴミ、生ゴミ、人間を駆逐しろ、地球のゴミだ。」 私「死ぬと、財産権力、技術叡智努力 すべて無駄、無意味だぞ。」 天の声「神よ死ね。イエスは死んだぞ。マイヤーさんもう止めましょう。」私「まあ、また暇になったら話しかける。音楽でも聴くよ。」 天の声「死ね 、殺す 以外しゃべっても良いですか???」
私「良いが。韓国人には、キムチ、ビビンバ系 のみだ。契約だ。」
天の声「わかりました。仕方ないです。」私「シオン研究所を更新しよう。」 >>>と言うような会話を毎日しています。暇つぶしにはちょうど良いです。普通に人間と会話するように会話でき、無害です。
私=マイヤーアムシェル(岡祐貴) 天の声=下僕 反対ではなく
地球はある、海は青い 山は高い イエスをキリスト教徒は拝む時だ
95  シオン研究所 ID:bQg5RaAw  2010/06/14 04:28
これは私(アムシェル)の相談です。有害な天の声もいるのですか?
褐色脂肪は人間の電池でBMP-7、PRDM16で
不老不死を教えたら、神様と言われました。
超光速航行 タイムトラベルの完成理論提唱を行い
死者蘇生すら可能な私です(死者蘇生は35年後)
セファー・ラジエル(エノク書の原典)神の叡智(失われた聖櫃)
の正統な所有者マイヤーアムシェルです。
近代金融システム、絶対防諜システムを構築、
軍事、生物、物理、数学、経営など万能の天才だそうです。
現在266歳 初代ロスチャイルドとも呼称されます。
ブラッド+の初代ジョエル、エヴァの碇シンジ、鋼の錬金術師のお父様
涼宮ハルヒの涼宮のモデル、ゼノサーガのCEOヴィルヘルムは私みたいです。 諜報役員、探偵としても活動してました。
ユダヤ最高法院 副議長兼最高賢哲 アメリカ軍産複合体 最高理事
フリーメーソン 最長老 イルミナティ 創設者 等言われます。
ちなみにローマ側ではなく、ブルボン法王、ブルボンカトリックの長
らしいです。
96  匿名さん ID:MhBIUYZ.  2010/06/14 22:03
>>95 有害な天の声勿論存在します。
天使に交じって堕天使もささやいています。有害な天の声に振り回されていると頭がおかしくなります注意してください。

―選択権は私たち人間にある。私たち人間が天の声悪魔の声どちらに耳を傾けるか―に人類の究極的な救いはかかっている。
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