f
CHRISTIANTODAY フォーラム
原罪
1 とあるクリスチャン ID:llNJqLOI 2007/08/17 15:12
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけではく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2章)

 アーメン。

 要するに、信仰においての戦いは、「高慢」という原罪との戦いであるということを最近深く実感するようになりました。そして、クリスチャンが高慢になることほど、神様が嘆かれることもないと考えるようになりました。

 伝道の際に、問題となるのは、やはり私たちクリスチャンが真理を知った気になって高慢に振る舞うことかもしれません。第1ペテロ3章に「みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです」と書かれてありますが、これより説得力のある伝道方法はないかもしれません。

 結局パリサイ人やアテネの哲学者のように議論することによって、相手を打ちのめすのではなく、愛によって相手に救いの手を差し出すことが私たちクリスチャンに任されたミッションなのです。

 国旗国歌、同性愛、異宗教、、すべて共通のものが見える気がしてきました。クリスチャンの高慢です。結局は、相手の立場を尊重することから相手を招かなければ、私たちは真理を知っているからといって、クリスチャンではなく国を愛する人に「偶像崇拝やめなさい」といったり、同性愛者に「精神病です」と言ったり、異宗教と論議を交わしても、キリストの宣教において結局のところ敬遠されるだけで、なんにもならないのではないのでしょうか。

  私たちは、議論家ではなく、真の愛によって、十字架にまで従われたイエス様のあがないによって救われたクリスチャンなのですから、同様のイエス様が示された愛において人たちを救わなければならないのでしょう。

 まずは、異邦人においては、相手の立場をとりあえず認め、まずはそのような人にもすべての人に対してのクリエイターであられる神の愛が施されているということを知って頂き、聖書を読んで頂くことに謙遜な姿勢で取り組むことが宣教の一番の近道だと思います。

 すべての人々に宿る魂があること、全ての人々の魂が神様を求めていること、そして我々日本人であるクリスチャンは、この戦後62年を迎えた日本の地に対して、いったいどれだけ切ない神様の愛があられるのか。自分の知識で宣教するのではなく、いつも深く神様に祈り求めながら、キリストのへりくだれた愛を実践している自分であるのかどうか、点検していく必要があると感じています。

 結局は人生は「高慢」との戦いなのだと思います。世の中では、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する」(第2テモテ3章5節)様な人はたくさん見られますが、私たちは主イエス・キリストにあって、本当の意味での敬虔さ、自分を無にすることから与える愛を実践できているかどうか、いつも悔い改めながら生きて行く必要があると感じています。

 クリスチャンが高慢に宣教しても、世の中の人は受け付けてくれないでしょうし、きっと一人一人のクリスチャンとしての姿勢のあり方が今後の日本でのキリスト人口拡大に大きく影響を与えるのだろうと感じます。いつも、どんなときも「恐れおののいて自分の救いの達成」に努めることで、そのような私たちの聖さ、真の愛、無言の振る舞いを通して人たちが救われて行くのではないでしょうか。

 いろいろな日本のキリスト教に直面している問題を考えるにあたって、自分の中の「高慢」という原罪をいつも悔い改めながら、敬虔さを身につけて行くことがもっとも大切なことだ、と思う様になりました。
35  ん?は? ID:nRvnD6mc  2008/10/15 11:53
 Sdkfz191さんとライフさんの壮絶な非生産的なカキコバトルは本当に
面白く勉強になります。これからもお二人さんで徹底してバトルされることをご期待申し上げます。
 いいですねぇ、感情と偏見と鞭いや無知をお互い、動物のようにさらけ
だして、とても素敵です。できれば、少し、信仰の成長に役立つような側面も、申し訳程度で結構ですから、是非、期待しています。
 とあるクリスチャンは、女性クリスチャンの観点から大変・ご意見・参考になります。ありがとうございます。
36  sdkfz191 ID:1TJqV1YM  2008/10/16 00:04
この書き込みは自分の感想を淡々と語るものです。過度な期待はしないで下さい。心を暗くして、パソコンから300メートル離れて読みやがれ。(元ネタbyアニメ「みなみけ」オープニング)

ちなみに「豚のような悲鳴をげろ」はヘルシングのコミックではなくアニメ化時のCMで使われたコピーなので「それコミックじゃなくてアニメじゃね?」と言うのが正しいツッコミです。

>>35

このやりとりは自分にとって意味あることです。
http://www.carview.co.jp/bbs/
の「交通違反・取り締まり 」で2007年10月頃に「1キロでもスピード違反」シリーズのスレでのなめ、という投稿者に対して全く同じ事を言っています。特に「愛してるよ」あたりが(;´Д`)。結局の所、自分がやろうとしていることは精神医学や心理学でやってはいけないことをやる、一種の暴力であると考えています。ま、彼らはいつも「傷ついていない」振りをするので表面的には問題ないんですがね。


全国1千万のだめクリスチャンのみんな!元気にしてたかい!( ゚∀゚)ノィョ―ゥ

>>16
それでは、マタイ25章31~46・・・いわゆる「最後の審判」の件は如何に考えられますか?

質問の意味しているところがあまり理解できなかったので、それなりに答えます。

私達は天国と地獄というとどんなことを思い出しますか?死後の世界ですよね。日本はその思想の土台が仏教ですので、何かの時点で世界がリセットされることはありません。死んだ人は順次天国か地獄に行くとされています。ですが、仏教の場合、死んで49日で霊から仏になるので本来なら地獄に堕ちる人は皆無のはずです。もし、地獄に堕ちる人がいたとしても肉体を持たないで地獄に行ったとしても、肉体的苦痛は被ることは絶対にあり得ません。仏教の・・少なくとも日本人の言う地獄論はよく考えると矛盾があります。

ひとつ前提条件があります。私達の世界には色々な言語があり、したがって色々な言語で訳された聖書があります。ここまではいいですか?ですが神のみ言葉を知るにはその翻訳ではなく、その意味を「正しく」知ることが大事だと思っています。もし、矢島さんの言葉通りでしたなら私達はルターの時代をさかのぼって、クリスチャンの聖典はギリシア語かヘブライ語又はヘブル語の聖書でなくてはなりません。時には正確な翻訳を求めて原典に立ち返ることは重要ですが、いちいち翻訳の誤差を求めるのは意味のないことだと思っています。

さて、私達が天国に行く時の状態はどのようなものでしょうか?霊体だけでしょうか、肉体を伴うのでしょうか。使徒の働き1章9節~11節を読んでで下さい。
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

神の国は肉体を持って上がっても良いようです。例としてウルトラマンを思い出してください。ウルトラマンがM78星雲「光の国」に帰る時、肉体を伴って帰って行きます。イエスキリストの場合は変身もないし、ベーターカプセルもありません(;´Д`)。そして、ウルトラマン同様(?)、イエスキリストも帰ったままの姿で最後の審判の日にあらわれる、と記されています。

>全ての・・ですから、その中には人間が地上に生まれ出た頃の者も居れば、太平洋の小島で産まれて僅かの間に死んでしまった幼子も居ます。

意図するところは理解できます。答えは3つあると思います。
1.分からない
私達は神のご計画は知っていますが、神の判断や考えについては知りません。2010年の1月にマイクロソフトからWindows7というOSが発売されますが、どのように開発されているのかほとんどの人が知らないのと一緒です。この答えは実は大事です。私達は洗礼を受け信仰を保っていれば天国に行けると思っています。それならば、最後の審判の日に「裁き」を受けることなく、顔パスで神の裁きをスルーできそうです。ですが使徒信条にもあるように神は最後の日で「すべての人を」裁くことを約束しています。裁いて判断するのは神であって、決めつけている我々人間ではないことを、忘れないべきです。
2.何となく想像する
ローマ人への手紙2章14節~15節
「――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」

>イエスのイの字も知らぬ者の方が多いのです。

その人達は地獄行きですか?私達の信じる神は0か1か、天国か地獄かではないと考えます。先の掲示版版のように「1キロでもスピード違反」ではないと思います。もしそうなら創世記4章でカインがアベルを殺した時点で、神様絶望!人間皆地獄行き決定です。もちろん、救い主を遣わすという約束はスルーの方向で。
3.聖書から想像してみる
マタイの福音書18章2節~3節
「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」

ひるがえって幼児洗礼は無効でしょうか?イエスのイの字も知らない者が洗礼を受けるのは無効でしょうか?
聖書ではありませんがアウグスブルグ信仰告白によれば
9条 洗礼について
洗礼は救いに必要である。
子供も洗礼を受けるべきである。
子供の洗礼を許さず、受けなくても子供は救われると主張する者を、われわれは異端とする。

マタイの福音書18章10節
「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。」
とあります。

幼児、子供は知能は大人より低いですが、大人のように自分の都合のいい理屈や理性はありません。そういう意味では(聖書にもあるように)子供の方が大人より天国に近い存在だと言えるとおもいます。
38  sdkfz191 ID:1TJqV1YM  2008/10/16 00:20
補足

痛い人たち

自分の群れの中で1人の牧師が夏期聖書勉強会(夏季キャンプ)で
「天国に行ける人間は決まっている。先ずカトリックは偶像崇拝だからだめ。プロテスタントも長老派、改革派もだめ・・」ということを延々と言って、まぁ・・つまり自分たちが聖書の言葉を正しく教えているから天国に行ける、みたいな超痛い牧師がいました。パウロ(だけ)を超人扱いしたり、とにかく痛かったデス(;´∀`)・・・いたいなぁ・・・ 。

神の僕・・とか、あと約1名、結果論で「誰々は神に裁かれた」みたいな痛い人がいます。彼らを見ると神戸大震災の時に「これは天罰だ!」という新聞を読んでホルホルしていた、某民族を思い出します(絵文字がヒント)。痛い、痛杉ます。
39  sdkfz191 ID:1TJqV1YM  2008/10/16 00:23
補足のお詫び

どうもこの掲示版は造船半島関係の絵文字はフィルタリングされているようで・・ええ、その国とは大韓民国です。
32  ん?は? ID:4HNRsOG.  2008/10/17 14:06
ライフさん、SDKさん!もう、あなたたちのバトル・・・たまらないですね。 うんぬ!おもしろくて仕方がないのです。
 派手にドンパチしてけらいんね。
でも、羽目外しすぎないようにね。クリスチャン同士なのですからね。
でもやっぱり、きたいしちゃいますよー。
33  sdkfz191 ID:L0w.rbio  2008/10/17 23:03
「雪がとけたら・・・春になります!」(byコミック「フルーツバスケット」)

いあいあ、昨日書き込みして「あれ、どうやったら朝までに消えるかな」と考えていたんですが削除してくれて助かりました。管理人さん(*^ー゚)b グッジョブ!! でも、ナンバリング変なことになっていますね。削除中に投稿があるとこうなっちゃうんでしょうか?DBのlogとか見てみたいですね。デッドロックが起きていなければいいんですが。

>>32
今日は風浦可符香のテイで
風浦可符香
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%F7%B1%BA%B2%C4%C9%E4%B9%E1

「バトルなんて、いやだなぁ!あれは、二人の愛の営みですよ。
二人とも恥ずかしがり屋さんだから、本当の言葉が言えないだけなんですよ!」
→以上、このセリフは脳内で声優野中藍さんの声に変換してお読みください。
(しかも笑うところです。マジになって納得しないよう・・)

>>1
原罪について調べました。(参照元は「新聖書辞典」です)

■げんざい 原罪 このことばは,全人類の生れながらの性質の腐敗を意味する教理用語である.
(1)人類の始祖アダムとその妻の,神に対する不従順のゆえに,通常の出生による彼のすべての子孫は,母の胎内から,その本性において汚されている(「ベルギー信条」15条,創2:16‐17,3:1‐7,詩51:5,ロマ5:12以下).この根源的な腐敗のゆえに,人間は善に対して全く無能力となり,あらゆる種類の罪を生ぜしめるように,悪に傾いている(「ハイデルベルク信仰問答」8,「ウェストミンスター大教理問答」25,「第2スイス信条」8:2等).したがって,人間の現実の思いとことばと行いにおける罪は,この根源的な腐敗から生じる.
(2)この深い本性の腐敗は,「いかなる理性もこれを知ることなく,聖書の啓示によって知られ,信じられねばならない」(「シュマルカルト条項」第3部),聖霊の働きによって再生しないかぎり,きよめられることはない.霊的に新生した者にも,地上の生涯の間中,この腐敗は残存しており,聖化の恵みは地上においては未完成である.この腐敗した性質を持つ,生れながらの人のことを,新約聖書は「肉」と呼ぶ.そして,信仰者の生涯においては,この肉が常に霊に逆らうので,霊的な戦いの人生を生きることになると述べ,御霊に従って歩むよう勧めている.

要約
(1)→生まれながらの罪で赤児も持っている罪。
マタイ15章19節にあるような「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」
とは違うようです。要するに「高慢という原罪」は正確には存在しません。また、このような理由から幼児洗礼は有効です。
(2)→この原罪は「聖霊の働きによって再生しないかぎり,きよめられることはない」とあるように、これは人の努力では解決できず、信仰によってもたらされる聖霊の働きによってきよめられるとされています。

信仰生活において、パウロが語るように信仰という武具をまとい戦う事は大切だと思いますが、戦う意味が違うと神様はお喜びにならないのではないでしょうか?

信仰を通してあなた様に神の恵みがありますように。

アーメン
34  んはんは ID:4pp7CLA6  2008/10/18 09:27
この危急存亡の現在は「原罪」について論じるときだ。ライフ君とSDK君
の、この懸案についての、壮絶なバトルを期待する。
 お二人とも、もっと徹底してお互いを論破すべくがんばりたまえ。アダムとエバから遡ってね。マケイン君とオバマ君のネガティブ・キャンペーンを参考にするといいよ。
 ま、僕はどっちかというとSDK君のご意見の方が面白いなと思いますけどもね。いずれにせよ、大変興味深いやりとり、注目しているよ。
35  sdkfz191 ID:mT3kOG4g  2008/10/18 12:19
「人間は、他人のささやかな皮膚病は気にしても、自分の重病は目にはいらない」(古い格言)

原罪というものを根本的に間違っていて誰か突っ込んでくれるかなぁー、と思っていたら矢島さんもスルーしてポチっと投稿。
自分がここに介入してきた1つの訳が・・


聖書をトンデモ解釈している人の投稿にツッコミを入れる


ということ。なぜなら間違っている解釈の方が正しそうだから(例:神の僕・・)。それを読んで聖書を間違って解釈する人が増殖するとそれはそれで不幸だし、それを見て見ぬふりをすることはそれも罪です。いつになるか分からないけど神の僕・・の投稿も埋める予定。

>>34

sdkfz191の略仕方が以前の北海鱈さんと同じなのは気のせい?マケイン君とオバマ君のネガティブ・キャンペーン?あなたはワシントン州に住んでいるから毎日、ニュースで見ているだろうけど、日本じゃ大統領選挙の詳細な情報は入ってきてないんですよ。それに私はネラー語、ヲタク語は分かるけど英語はだめなんです。
36  ニュータイプ ID:KGcJPG5k  2008/10/18 22:18
原罪は アダムは キャプテン エバは日本 なんて 
だから 日本はキャプテンに 貢がなくてはならないのだ!

なんて 誰がつくったのよ、ん?
37  匿名さん ID:vIIJDx0E  2008/10/20 07:51


「人間には、裏切ってやろうとたくらんだ裏切りより

 心弱きがゆえの 裏切りのほうが多いのだ」

                  by ラ・ロシュフーコー

38  sdkfz191 ID:JYNMKLT2  2008/10/21 00:02
自分は求道者の身にあって小教理問答書の学びをしていてますが、洗礼にとって原罪と実罪とを洗い流すことが出来る(すべての罪を洗い流すことが出来る)と牧師に教わりましたが本当でしょうか?

洗礼、こわいなって思ってます。
39  矢島 ID:rbQYMTVI  2008/11/09 10:35
あれあれ・・・[24]を書き込んだアトは、数回覗いたんだけれど、なんだかワケの解からない遣り取りが続いていたので、このスレッドは死んだのかと思っていました。

いつの間にかsdkfz191さんが[16]への回答をくださってるので、もう少しコメントしておきます。

[36]sdkfz191さん・・・
まず前置きとして、ボクはコミックの現場には長いこといましたが、アニメオタクでもゲーマーでもないので、その手の引用は理解しませんし、引用されるなら、どなたにも解かる様に「引用文」を作る必要があります。
また、他の掲示板での遣り取りも同様です。

さて、ボクの[16]での質問ですが、これはsdkfz191さんの[12]での・・・
<と、信仰によって「のみ」義認があることは旧約も新約も一緒です。>
という部分に対するもので、それならマタイ25章31節以下の 『世の小さきものに成したる者』が義とされ神の国を受ける(若しくは入る)と簡潔に、しかしハッキリと明瞭に断定しているこの個所はどう理解、整合されるのでしょうか?
・・・という質問です。
(ただし、ボク自身はこのマタイ的救済論を採りませんが・・・)

ボクの書き方が曖昧だったので、なにか違う方向へ行かれたようで申し訳ない。

それから本題とは別のことになりますが、2点・・・
<時には正確な翻訳を求めて原典に立ち返ることは重要ですが、いちいち翻訳の誤差を求めるのは意味のないことだと思っています>
・・・という部分ですが。
誤解があるかも知れませんが、ボクはここでは「翻訳」の問題ではなく「正文批判(若しくは本文批評)」に照らして「原義ではない」ことを申し添えたのです。
つまり、<「私の兄弟である」という形容を含まないものが原義である>と書いたのは・・・かなり後世の写本に現れる「私の兄弟である」という但し書きは「全ての民族」とは、キリストを信じた者(私の兄弟)だけなのだと言い募るための改竄個所であるということです。
すなわち、キリストを信じた者も、そうでない者も、イエスを知る者も知らない者も、洗礼を受けた者もそうでない者も、みな等しく蘇えり主にあって裁かれる・・・と、マタイの著者は書いているということです。

もう1点、アウグスブルグ信仰告白の9条を提示されて、尚且つ・・・
<そういう意味では(聖書にもあるように)子供の方が大人より天国に近い存在だと言えるとおもいます>
と、書かれていますので、必ずしもアウグスブルグ信仰告白の<断定>は正しくないと言うことでしょうか?

(しかし、この回答でsdkfz191さんがボクの大嫌いな「根本主義者」ではないことが解かり、それは幸いでした)
40  北海鱈 ID:y07IaCtU  2008/11/15 17:50
洗礼は僕の経験では怖くありませんでした。
 耳に水が入ったけれどもね。
41  aeon ID:GBv6RlfE  2009/01/12 02:58
 ひとの心の中から、罪は決してなくならない。
 高慢という原罪。
 この罪が消えうせることはない。
 だから悲しみも消えない。決してこの世から消えることはない。
 消えることがあったとしたら、それは世界が滅びるときだ。

 見せかけの希望を抱いて無為な人生を生きて後に絶望するより、
 希望をもって死にいたる方がいい。

 ときに絶望の世の中に希望を見せる指導者が現れることがあるが、それも一時的なもの・・・。

 結局人たちの罪が、心の根っこに根付く罪が、決して消えないために、せっかく現れた希望も絶望のうちに葬り去られる。

 そのようにしてキリストの復活以後の歴史は流れてきた。

 ひとの中から罪が消えることがあるのか。

 そんなことは決してないだろう。私のなかからも、罪の根っこは決して消えない、私が死なない限り、決して消えない。。

 だから、キリストの救いも、一時的に人に希望を与えるだけで、
結局は世の中をとりまく「悲しみ」に消されて絶望に陥る。

 救いの歴史がなんとむなしいことか・・・。だからサタンは人間を誘惑し、世界を滅ぼしてもう一回作り直すことを望んでいる。

 人間がサタンの誘惑を断ちきり、心を完全に清くすることなど、果たして可能なのか。聖書のみことばが、其処まで人間を変える力があるのだろうか。

 人は何を望んで生きるのか。人ときの人生の楽しみか、永遠のいのちか。永遠の命を得るために、心の罪を全部消し去り、清くすることなどできるのだろうか。。


42  aeon ID:GBv6RlfE  2009/01/12 03:10
私の心はいま、深い絶望のうちにある。

結局聖書を学んだのに、心の罪が消えない。

嫉妬・憎しみ・敵意・悲しみ・・・・どれも全く消えないどころか
高まってくるばかり。

キリストイエスの救いも、空しいまやかしに聞こえることがある。

本当にクリスチャンとして生きることで、罪に打ち勝つことができるのか。

結局一生懸命頑張って主のために生きたところで、結局はサタンに打ち勝つことなどできないのではないだろうか。。

深い罪と悲しみのなかに、荒野に疲れ果てて死に絶えるのではないだろうか。すべて私の罪が消えないがために・・人の罪が決して消えることがないために・・・もうすでに神様が思われる以上に罪が深刻に人の心の中に根差され、救いようのないレベルに達しているのではないだろうかと思わざるを得ないことがある。

暗いこと書きこんですみません。。
43  ハレルヤ太郎 ID:3YmOi9rw  2009/01/12 04:48
↑暗いな。
人間なんだから、罪くらい犯すだろ。
人は罪を犯さないために生まれてきたんじゃないよ。
良いことをするために生まれてきたんだよ。

一日一善 人類はみな兄弟   by 笹川会長&高見山大五郎
44  aeon ID:GBv6RlfE  2009/01/12 06:31
良いことをするために・・・

結局人は自分が人に認めてもらいたくて良いことをしようとする、
偽善をするにすぎないんじゃないか。そして自分のキャリアを積み上げ、他人に対して「高慢」でいられる自分を保持しようとする。。

どこに自分を無にできる人なんていようか。

そしてたとえどんな良いことをしても、イエスキリストが十字架につけられてまでその愛を示しても、それを覆い尽くしてしまう世の悲しみ・絶望・・・。

これはもうどうしようもないところまで達してしまっているような気がする。イエスキリストには悪いが、もう人類は救われないんじゃないかと思う。

いつまでたっても人たちはいがみ合い、争いが絶えない。自分を下ろせない。光が見えない・・・。こんな人間はきっとこの世からいなくなった方がいいんだろうね。。。


45  ハレルヤ太郎 ID:3YmOi9rw  2009/01/12 06:36
人に認められたくて、、、、て。
この人、病んでるね。
書いている内容が病んでる。
人は善意から、善を行ないます。

笹川先生は言ってます。
一日一善 人類はみな兄弟(aeonは除くなり)
高見山大五郎にハレルヤだ。
46  aeon ID:GBv6RlfE  2009/01/12 06:58
結局ね、イエスキリストがどんなにすばらしいお方であってもね、

それを受け入れる人間の心がすさんでいたんじゃどうしようもないんだよ。もうそのなれの果てまできてるわけ。

イエスキリストは救い主、天の御国がやってくる、悪者は裁かれる、アーメン♪

 ところが救われたにもかかわらず、人の心は罪にとらわれ、自分にとらわれる。私はね、もう本当に世の中に絶望を感じざるを得ない。というか、自分自身に絶望を感じざるを得ない。

 PS もしこの文章をイエスキリストが読んでいたらとても悲しまれるだろうね。でも、それが今の人の世の現実。。
47  おちこぼれ ID:VXvqv9XQ  2009/01/15 08:39
言える者ではありませんが・・・
僕も同じ?似た所を通りました。光のない、出口の見えないトンネルでした。
しかし、いつまでもそのままではありません。
天の光はどんな暗闇でも突き通す力を持っておられます。
48  mei-mei ID:/qdW7.7E  2009/01/28 10:13
主の御名を賛美します。
ひょんなことからこちらにお邪魔し、この書き込みに辿りつきました。
感謝します。
ここにもまた、クリスチャンであるがゆえに苦しんでいる方がいるんですね。
aeonさんの悩みはわたしにも覚えがあり、とても辛く、頼るべきものもなく、きっと心細く感じているに違いないとお察しします。
辛い境遇に自分を追いこんだ全て、それも自分自身を許せないでいるんですね。
全部は拝見していないのですが、どうしても神様の御言葉を伝えたいので聞いてください。

aeonさん、どんな時でも神様はあなたを愛し守ってくださっています。
わたしたちみんな、どんな罪をおかしたとしても、その過去を悔い改め、主を信じることで赦されるんです。

神様は、思い煩うなと仰います。
それは悩むなという意味ではなく、辛いこと・悲しいことをただの重荷にするなという意味ではないでしょうか。
悩みが解決しないのなら、まだ時がきていないだけです。
そんな時は、主イエスは重荷を負うた者は自分のもとに来たら休ませるとおっしゃってくださいます。
主イエスの御名によって、aeonさんの重荷をどうかおろしてください。
あなたを覚え、祈ります。アーメン
49  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 12:11
結局人は自分が人に認めてもらいたくて良いことをしようとする、
偽善をするにすぎないんじゃないか。そして自分のキャリアを積み上げ、他人に対して「高慢」でいられる自分を保持しようとする。。

どこに自分を無にできる人なんていようか。

>>人間の罪の根本をつつくところですね。結局、それをどう、おろしていくことができるか、「高慢」な自分を下ろし、状況に合わせて、相手に権限を譲る、そういう柔和で謙遜な姿勢がない限りは、個々人がどんなに自分磨きを頑張っても、全体では平和はなされない、そういう世界を主が十字架をもってどん底まで自らを低くされた姿で示されたのですね。

人間は本来肉的な存在ですから、そういう「高慢」な自分というのは自然の状態に放っておけば、そうなってしまいます。だからこそいつも、聖書の御言葉にしっかりと結びついていることが大事なのですね。

「高慢」な自分を下ろし、低い位置にいる自分を認めることができるとき、すべての人の心を抱くことのできる広い胸が出来上がるのだと思います。

だから結局キリスト教というのは「幼子」「貧しいもの」「弱い者」が救われると説くのですね。

自分の誇りを捨てて、自分が高められるためではなく、本当に世界の平和を望むなら、どれだけ自分を謙遜に無にしていくことができるか。。それが試されているのでしょうね。
50  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 12:22
しかしカインとアベルの話は深いですね。

自分より年下の弟の捧げものが神様に評価されて、自分の捧げものは無視されたカインの中にある弟に対する激しい憎しみ・怒り・・・これをどう抑えるか。。そうではなく、自分より年下の弟から、なぜ神様に評価されたのか、その良さを見習っていこうとする姿勢をどうしてみせることができないのか・・・と考えると、つくづく人間とは生まれながら肉的な存在であると思ってしまいます。

結局私たちもこのカインの姿と同じですよね。自分が評価されたい、自分が高められたい、そういう感情を抑えて、自分が評価されず他人が評価されているのなら、その人に嫉妬することなく、どこまでその人が自分よりどういう点で優れていて、それをどう吸収していけるかと、自分より評価されている人に敬意を示し、どこまで自分を低くし、そして柔和な心で接することができるか、そうすることで最終的に自分が高められるようになるということ、そういうアイデンティティを一人一人の人間がもつようにならないと、決して平和はやってこない、深い深い神さまの願う愛の世界・・。

偽善ではなく、真摯な姿でこの問題に私たちクリスチャンは立ち向かっていかなければなりませんね。
51  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 12:54
 ただ「女は子を産むことで救われる」と書かれてありますが、「女」っていう存在は元来男より「高慢」に作られてしまったのかもしれませんね。だから、蛇がその「弱点」を攻撃して知識の実を食べるように誘惑した。「そうすれば神のようになることができる」という誘惑にエバはのってしまったわけですよね。。

 確かに子を産むと、一番大切なものが、自然の状態にあっても自分ではなく、自分の子へとベクトルが移りますし、子へ向ける愛や苦労の中からもっと犠牲する愛の尊さを実感することができるのかもしれませんね。。
52  one body ID:NyJQtSuo  2009/08/04 14:16
女は子を産むことで救われる、って、「子を産まないと救われない」のか、と呪われたような見方で見るのではなく、人間は「高慢」という罪を打ち砕く努力をしていかなければならないが、女という人間に限っては「子を産む」ことで、犠牲する愛は何か、謙遜・柔和になるとはどういうことかが自然にわかるようになるという特権が与えられている、と考えることができますよね。

以前友達で、赤ちゃんを育てている母親の家に遊びにいったら、せわしく御飯を散らかす赤ちゃんの世話をしながら、「息子は我が家の王様のようだ」と話していました。ただの赤ちゃんで、何の能力も力もないけれど、その赤ちゃんに食べ物を与えて、愛を与えて、泣きわめかないように、細部までケアして育ててあげなければならない、まさに「弱いものに仕える」姿を母親というのは自ら自然に積極的に行えているのですよね。。やはりこれぞ真実の愛だな、と思わざるを得ないですね。
53  むにゅむにゅ ID:svxDmcMc  2009/08/04 17:09
o



嘘による自信までは。高慢とかなんとかというより。犠牲にしたり殺したり信仰から遠ざけようとしたり、嘘のため・・・・・だったらやはりどうかと。過剰な嘘・・・・・があると嘘をつかれた方達はそれだけでも病気になっていくこともよくあるのです。社会というのは嘘を取り入れようとするところもあるので社会の通念だけでも決められないと思います。



+
54  とあるクリスチャン ID:heeLIfas  2009/11/07 11:48
 そういえば以前、とある自然科学者さんにお会いしてお話をしたことがありました。そのとき、とある自然科学者さんはいきなりポンっと足で床を蹴り、「今このように床を蹴った瞬間にも、どれだけのバクテリアが死んだかわからない。・・・人間はこうも罪深い生き物なんですよ」と暗い顔をしておっしゃいました。

 その自然科学者さんは、ノンクリスチャンだったのですが、彼の発言を聞いて、世の中の自然科学者さんが、実は一般的なクリスチャンよりいろいろなことで敏感に罪というのを感じているのではないか、この全くのノンクリスチャンだと思っていた自然科学者さんの中にある罪に対する敏感性に大きな衝撃を受けました。そのとき、私はそのとある自然科学者さんにキリスト教についてお話しようと思っていたのですが、私よりも敏感に罪を感じている謙虚な姿勢をみて、その人の前でクリスチャンであると自称する自分がとても恥ずかしく思えて、それ以上自分からキリスト教について語ろうとは思わなくなり、急遽別の話をしたという思い出があります。

 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。(詩篇51:17)

 とありますが、私は、あのとき、ノンクリスチャンのとある自然科学者さんが自分がこの瞬間にバクテリアを虐殺したことへの罪深さを告白したことで、この神様が人間に求める「砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」とはなにかを深く黙想する機会が与えられたことをとても感謝しています。

 実際、「罪」というのは、世の中の社会システムの仕組みや地球の生態系の仕組みを知れば知るほどささいなことにも「罪深さ」を感じるようになってくるものだと思います。知らなければ平穏に生きることができたことも、そのプロセスのすべてを知ってみれば、人間の高慢による罪深さを実感せざるをえないことばかりなのが、現代の文明でできた先進国で生きる人々の日常の姿なのではないかと思います。

 またイエス様のこの御言葉も思い出されました「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカ18章)」

 私の信仰のひとつのターニングポイントであったと思いますが、自分の中にこのパリサイ人のような冷めきった心があるのを感じました。「私はいつも礼拝に参加している。十分の一をささげている・・・」お決まりの感謝の祈りでそこに「砕かれたたましい」がなかったのではないかと感じました。一方、そのノンクリスチャンの自然科学者の中に、イエス様の話に出てくる取税人のような砕かれた心が見出されたのです。足で目にも見えないバクテリアを殺して、そこにさえ罪を感じる砕かれた姿・・・。その自然科学者さんの発する発言の中に「私はかれこれ自然科学について研究してきたけど、結局人間は罪の中で生きるしかないどうしようもなさを見出しただけだった」というような空虚感と、あらゆる罪に対する非常なる敏感さを感じました。一方で、これはプロテスタントの諸教会でたびたび問題視されることではありますが、キリストに救われた恵みばかりを強調し、罪に対して鈍感になっていたクリスチャンである私の姿を恥じるに至りました。。

 クリスチャンとしてのターニングポイントはまさにここにあると思います。そういうあらゆる罪を敏感に感じ、本当に今となっては人間の存在そのものが大いなる罪の中に存在するしかないものたちであるにもかかわらず、世の中がかつて神様がその不徳の故に滅ぼされたソドムとゴモラの町以上に不徳に満ちているにもかかわらず、今もその憐れみにより世界を滅ぼさずに保っておられる神様の慈愛と寛容さに感謝し、この取税人のように「このようなどうしようもない社会のなかで、罪を犯しながら生きるしかない私をあわれんでください」と自分の胸をたたいて祈る、「砕かれた姿」。それが神様がまさに私たち一人一人のクリスチャンに求めておられる「悔い改めの心」であり、そのような真なる悔い改めの心が生じたとき、神様がその魂に向けて聖霊を通して深い憐れみを下さり、より深い霊的な世界へと導いてくださるのだと思います。

 このスレの場をおかりして、私に信仰のターニングポイントとなる重要なことを気付かせてくださった「とある自然科学者さん」に心から感謝を伝えたいと思いました。

 ピリピ書2章に、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」と書かれてありますが、まさにその通りだと思います。

 キリスト教を宣べ伝えるときにも「自己中心や嘘栄」から一方的に伝えようとするのではなく、へりくだって、相手を自分より優れた者と思い、他の人のことを顧みる心をもつとき、私たちクリスチャンに人たちを通してより深い信仰の姿を悟る機会を神様が授けてくださるのだと思います。人間のあらゆる罪の根源である「高慢」の罪・・・これからも、このピリピ書2章の御言葉を深く胸に刻み、謙虚で砕かれた魂をもって祈りを捧げられるクリスチャンとして信仰の道を歩んでいければと思っています。
55  はじめまして ID:LenQEdAw  2009/11/07 17:13
ひとことだけ

聖書的
あるいは
公教会の教えとしては
殺生は罪ではないです
それはヒンドゥーや仏教や神道などの教えではないでしょうか

罪とは私たちの存在が神さまの想像の目的から逸脱すること 的外れになってしまうこと
つまり神様に背くことで(神様のご意志に背くことが罪)
ただ単に殺生することが罪であるとは思えません
バクテリアを知らずに殺したり くうために人間以外の被造物を殺すことは罪ではありません

神への背きという点を押さえることが重要だと思います
 
56  矢島 ID:E.5qZCt6  2009/11/08 03:40
このスレッドにあっては・・・54:とあるクリスチャンさんの感性に賛同します。

(ただし54に限ってですが・・・他はまた他ということで・・・)
57  はじめまして ID:V9Y2asP6  2009/11/08 16:46
日本の文化風土からすれば共感できるかも、ですが.
キリスト教的な罪の概念とは符合しないでしょう

人祖もおそらくバクテリアは殺していますし
信仰の父や預言者たちも家畜などを殺生していますが神からとがめられていません
ヒンドゥーから神道に至るまでの殺生や血などの穢れを忌む宗教的枠組みと聖書の信仰はまったく別次元だと思います
58  megu ID:64HzSF.o  2009/11/08 16:57
>>57 はじめましてさん

視点はそこにあるのではないのではないでしょうか?

そういうところにすら罪を見出す敏感性が世の中の人にはあるということだと思います。

私たちの存在そのものが感謝♦感謝。。
59  はじめまして ID:V9Y2asP6  2009/11/08 17:11
>58 megu ID:64HzSF.o さん
いえ、わたしはそうは思いません
まず日本人の宗教観の根底のにある殺生への忌避は じつはヒンドゥー&仏教から来た因果応報の理論 自分の行ったことが自分に返る それを避けるために殺生をしない といった自己防衛的な価値観があると思います
そして残念ながらその価値観はインドより東の地域に呪いのように広がり おおくの苦悩を生み出しました
ですから日本人がかかえる殺生への忌避をキリスト教の罪の概念に結びつけることには異議を唱えざるをえない

確かに主がおられた当時のユダヤ地方にも因果応報のように誤った罪の認識がありましたが
それを打ち砕いたのが福音 主の十字架の犠牲と御復活 想像を絶する真の愛なわけでして
チンケなヒンドゥーやある種の仏教の呪いを ユダヤ地方のそれのように打ち砕いてしまう
罪には必ずそれを許す救いがある
私たちクリスチャンは日本にいまだ作用してる呪いを砕くために心すべきことですし それを伝えることが宣教であると思います
60  megu ID:64HzSF.o  2009/11/08 18:03
>>59 たしかに恵みを伝えることは大事ですが、それとはまた別の話として、私たちが日常存在していることへの感謝を感じるためにも罪とは何かを改めて認識したり、罪(→相手にとって悪いこと)を犯さざるを得ない存在であることを認識した上で、感謝の祈りや悔い改めの祈りをするのが大切なんだと思う。

 生きものを殺すとかそういう罪から解放されたわけですが、しかしそれは事実として生きていくに不可欠にしていく行いなわけですし、そういうことへの感謝を忘れないことが大事なのでしょう。

 そういう感謝とか罪の意識が薄れると、だんだんと高慢の罪がやってくるのだと思いますね。
61  megu ID:64HzSF.o  2009/11/08 18:09
>>55 それとはじめましてさん、

公教会の教えとしては
殺生は罪ではないです

本当ですか?

旧約聖書のときから、殺してはいけない、と教わってきたのでは?

私も自分のうちにある生まれてこの方までのいろいろな罪を考えるとき、はじめてそれらがすべて許されたキリストの恵みのすばらしさがより深く感じられるし、大きな喜びへとつながると感じています。

そういう、大きな喜びへつながるためにも、罪って実はよく考えてみる必要があるのではないかと私も思います。。
62  はじめまして ID:V9Y2asP6  2009/11/08 19:43
えーと
人間を殺すことは罪です
生き物を理由無く苦しめることも罪です

しかし殺生=罪という教えは無いですね

繰り返しになるけど 私たち自身に刷り込まれた文化的基盤を見直さないと。。。私自身もね
63  あるある ID:qfw1QqhU  2009/11/08 20:03
すり込まれた文化的基盤を見直す?
どうして??日本文化の何を見直すの??
ちょっと、日本的感覚から微妙にずれた表現ですねー??
ふーん。おかしいなあ・・・・?
64  はじめまして ID:UeNHI/PA  2009/11/09 07:07
カルト批判に犠牲して韓国・朝鮮の人々への差別を書き込む63 あるある ID:qfw1QqhUには回答いたしません

また明らかに間違った異教の強い影響を受けた日本文化の基盤に疑問を持たない人間はちゃんとしたクリスチャンではありませんね
65  さて本題に戻って。。。 ID:UeNHI/PA  2009/11/09 07:25
>60 megu ID:64HzSF.o さん
はたして意識せずして行うバクテリア等への危害は罪でしょうか?
ひいては人間の生存活動 その行動にまつわる殺生はキリスト教の立場からして罪でしょうか?

ノアの律法と呼ばれるもの、モーセの律法 などには人間に危害を加えることについての戒めが明記されています
また食肉処理などで必要以上に苦しみを与えることへの戒めが聖伝などに存在するようですが
殺生それ自体が罪であるという規定は無いように思えます

日本において福音を理解し広げていく上で そういったずれ 文化的な枠組みでの偏向はよくよく留意しなければなりません
聖書的に 公教会の教え的に罪でないものに罪責感を持つ
それが躓きとなることもあるのですから.。。。
66  ないない ID:VAXmk1.g  2009/11/09 08:56
 どうも64と65の、同一カキコ人物のお方は、文化云々、民族差別云々などど、普通の日本人があまり、普通すぎて関心のないことに、異常に執着する傾向がありますね。民族差別????普通、日本人は使わないよねー、こういうフレーズはねー?罪の意識以前の問題だよねー???
 あなたは、だあれ??不思議な感性の持ち主ですねー。
67  罪は罪 ID:5Oa/kN0c  2009/11/09 10:02
罪は罪と自覚すべきだと思います。
僕も罪とは何たるか知らなかった5才くらいのガキのころは、
生きものに対する慈愛の心よりも好奇心の方が強く、たとえば、道端で歩いているアリを好き勝手に踏みつぶして遊んでみたり、あるいはアリをつかまえて、その足を一本一本ぬいてみたり、あるいは、アリの胴体を切断してみたり、トンボをつかまえて、「シーチキン」を見てみたり、した罪深い姿があります。

そして、とある日に、母親が見ているところで、「わらじむし」をつかまえて、つまようじで串刺しにして遊ぼうとしたときに、母に「やめなさい。生き物には痛みがあるんだよ。自分がされていやなことはやめなさい」と言われて、初めて虫を意味なく殺すことに「罪悪感」を覚えるようになりました。

子どもっていうのは、無邪気なものですが、ある意味「性悪説」というのも当たっていて、だれかが教えさとしてあげないと、何が良いことで悪いことなのか、「好奇心」が「慈愛」に勝ってしまうと、子供は判断がつかなくなり、ときに大人には考えられないような残虐なことを考えたりしてしまいます。

だからこそ、聖書が必要で、罪とはなにか、悪とはなにかを知る必要があり、教え諭す必要があるのだと思います。
それから、今まで僕は「殺生」はいかなる生き物に対しても悪いことだと認識しています。

旧約の「スケープゴート」がそれを物語っているんじゃないですか。ヤギに人間の罪を負わせて、獣に食い殺させる。そうやって罪ない動物に人間の罪を負わせて殺させる、その犠牲に申し訳なさと感謝の心をもって人間は悔い改められるんじゃないですか。そしてそういう習慣の最終点となったのがイエスキリストの十字架の犠牲なんだと思います。そういうあらゆる生きものの命の尊さに感謝して生きることはすべての人間にとって大事だと思います。
68  はじめまして ID:UeNHI/PA  2009/11/09 10:14
>67 罪は罪 ID:5Oa/kN0c さん
こだわるようですが

>「殺生」はいかなる生き物に対しても悪いことだと認識しています

は罪は罪 ID:5Oa/kN0cさんの個人的な信条ですね?
少なくともいわゆるキリスト教の教えではない
アザゼルのやぎの犠牲はそれによって罪が清められる 
それは十字架の犠牲の予告であり 旧約の捧げものなどと同じように 殺生がすくいにつながり 喜びの導入になる
つまり
日本の 殺生は無条件に悪 といった意味合いではないということですね
ここをまず踏まえる必要があるかと思います

ちなみに日本の文化風土では殺生=悪といった価値観のため 殺生に関連する職業やその従事者を蔑視差別するという紛れもない罪を生みました
69  矢島 ID:8BDem7YU  2009/11/09 13:06
このスレッドでは、質問に該当者からの回答が無かったので、[39]のコメントで停めておいたのですが、そもそも罪というものは<感性>で捉えるものだろうと考えていましたので、一言だけ[56]でコメントしました。

キリスト教も二千年・・・ユダヤ教時代から数えても約三千年の歴史の中で多少の進化を遂げてきています。
いま現在、天動説を唱えるクリスチャンはたとえ「根本主義者」であっても皆無だと思います。
これは完全に、地球が円く太陽の周りを周回していることが解明されていて、抗いようが無く、万人が認める<事実>だからです。
しかし、多少でも謎を残す部分・・・たとえば<ノアの洪水>なんかだと、執拗に伝承伝説にしがみつこうとする者も、未だ僅かに存在します。

だが、おおかたは客観的事実に正対した知性と感性の良識的働きに従い、教会も神学も遅い歩みを進めてはいます。

オックフォード大学神学部教授のリンゼイも、自著でこう書いている。
   ++++++++++
しかし、キリスト教思想は、変化し得るし、また変化する。
まだ百五十年ほど前、キリスト教神学者たちは未だに奴隷制度を弁護していたし、百年以内においても、植民地政策を弁護していた神学者を発見することは可能である。
そして五〇年前に至るまで~今日にいたるまで~神学者は、女性は男性に従属していることを弁護し、未だにそうしているのである。
多くの過ちや、誤った方向性にもかかわらずキリスト教神学は、新しい未来の世界についての神中心のヴィジョンを明確にすべく、緊急、かつ継続的責任をもっているのである。
   ++++++++++

多くの過ちを犯してきた教会は・・・(と、ひとことで語るには余りに大きすぎる罪過だが)・・・それでも、長い時間をかけて是正してきた。
我々、一般の眼からは<遅すぎる歩み>ではあっても、社会の急ぎすぎる部分のブレーキ役も兼ねながら、文化文明に追いつこうとしてきた<近代期の教会>の努力もある。

現代の日本のクリスチャンは、その歴史を踏襲していないので・・・つまり、アメリカ経由という迂回した経路を辿っている為に、特にプロテスタントの方々は教条主義に陥っているところが目立つ。
同じプロテスタントでも欧州ではもっともっと先に行っている。

<殺生>というのは元々は仏教用語といっても良いだろうけれど、既に<現代日本語>でもある。
ひとつには、日本がケモノを食べる文化ではなく、長い間、魚介類と菜食の文化であったことも、その感性に影響しているだろうけれど、その分、動物に対する認識が遅れているのも事実。
西欧が狩猟民族であった分、キリスト教の影響下にあってもなお、生きものに対する感謝の念は古代から現在までも生き続けている様で、動物愛護の認識の深さと理念、またそれにかける努力の大きさも、常に欧州文化が主導してきている。
日本は常にそれを追いかける立場に立たされている。

さて、日本におけるキリスト教宣教は、既に失敗している。
結果は出ている。
しかも4たび、失敗を繰り返している。

もし、少しでもキリスト教の文化を根付かせようと思うなら、まず日本の文化を受け入れることです。
あれは仏教由来、これは儒教由来、それはアミニズム、道教・・・と排斥否定していては、キリスト教の方が日本海域からも摘み出されるだけです。
日本ではキリスト教の方が遅れてきた<異文化>であることを認識しなくてはダメです。
日本人の意識文化と精神文化に寄り添わせていただく謙虚さが必要です。

そもそも、そうやってキリスト教は発展拡大してきたんじゃないですか。

この日本では、キリスト教の教理に合わずとも何の問題も無い。

ついでに現在も存在する「文化融合」の例として。
メキシコの「グアダルーペの聖母」というのがありますよね。
有名です。
これはカトリックでは、現在は否定しているマリア信仰にアステカの(古代宗教的)習慣が融合した「マリア参拝」が公然とカトリック教会で行われている例です。
司祭もお手上げ状態ですが、最近では司祭がそのフォローにまわっています。
70  匿名さん ID:mQUayhio  2010/01/21 12:53
>>69 謙遜に異邦の文化にアプローチする必要はあるかと思いますが、異邦の宗教にキリスト教を融合させるのは違うと思います。

 ガラテヤ書にも「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」とパウロ使徒が警告しています。

 各地の文化や歴史を尊重しながらも、聖書の御言葉の内容は曲げてはならないと思います。クリスチャンは他の混ぜ物を入れずに福音をつたえてこそ、聖霊の働きによる本当のリバイバルが実現するのだと思います。
 
71  矢島 ID:HpG4Gwcg  2010/01/21 17:45
70:匿名さん
(できれば、なんかテキトーな名前を名乗っていただけると助かるんですが・・・
 ここでは、匿名という同姓同名の方が非常に多くてヤヤコシイ)

≪各地の文化や歴史を尊重しながらも、聖書の御言葉の内容は曲げてはならないと思います≫

ボクはそういったことは云っていないはずですが・・・

<あれは仏教由来、これは儒教由来、それはアミニズム、道教・・・と排斥否定していては・・・>

というのは、たとえば「七夕祭り」、たとえば「正月飾りや鏡餅やおせち料理」、たとえば「お月見」「精霊流し」・・・など。
こういった今や単なる日本の風習、慣例、文化として存在するものを、異教由来として排斥するべきというような依怙地で偏狭でガチゴチな信者さんがおられるでしょう?
そんなもん通用しないっていう常識くらい理解されてないと、とてもとても日本宣教なんて夢のまた夢・・・ですよ?と申し上げています。

しかし・・ね。
≪クリスチャンは他の混ぜ物を入れずに福音をつたえてこそ・・・≫

と、云われましても、既に膨大な<混ぜ物>で出来上がっているんじゃないですか?・・キリスト教は。
あなた方はクリスマスはお祝いしないのですか?
イースターも?

その、最初期からいろんな近隣からの混ざり物が・・・とか云いながら、では<混ざり物>のない純粋なキリスト信仰とは?・・・と云ってみても、新約自体が大別して4つ~5つの思想によって書かれてますようなので、どうにも仕方の無いハナシではあります。
72  現在 ID:mGxqsnIQ  2010/01/21 19:50
現在はあのり原罪について論じていませんね。
原罪は2010年です。
73  とあるクリスチャン ID:WlQxUTyU  2010/01/22 10:09
>>71 世の学者とキリスト者の価値観の違いかと思いますが、聖書は霊性によって書かれた書物です。
 もちろん、世の初めからイエスキリストの誕生以降まで生き続けられる人間はいませんから、書き手は様々だったでしょう。
 しかしその内容は聖霊による啓示を受けたもの、聖霊の働きを中心とした人類の救いの歴史が書かれています。

 ヨハネ福音書および、ルカ・マルコ・マタイの共観福音書はそれぞれ記者は別別ですが、みなイエスキリストの生についてそれぞれの価値観で書かれていることで、読む人があらゆる角度からイエスキリストを見れるようになっていると思います。一度はイエスを裏切ったペテロが改心した後にのべ伝えた福音、そして以前はキリスト教の熱心な迫害者だったパウロが聖霊の働きを受け、イエスの使徒となって伝えた福音、それぞれがそれぞれの人間性を反映しながら聖霊による御言葉をのべ伝えているところが面白いです。

 しかしながら、聖書を世の中的な文献を読むような読み方で読むと、すぐにつまらなくて飽きてしまうと思います。私も以前は英語の勉強のために良いことを書いている部分だけ暇つぶしに読むような読み方しかしていませんでした。。

 -聖書は、イエスキリストへの愛があってこそ、初めて読む価値の十分ある意味深い書物となるのだと思います。世の中の人は、クリスチャンが毎週礼拝に行って、讃美歌をうたっているのを馬鹿にしたりしたがる人もいますが、そもそもなぜ、聖書のみことばを聞くのにその前に歌を歌うのでしょうか。それは、歌が愛の感情を呼び起こさせるからです。その歌を歌うことによるイエスキリストへの愛の心が十分満たされたところで、聖書のみことばを聞くから恵みがあるのだと思います。そして、そのイエスキリストへの愛をもって聖書を見るとき、それぞれの福音の記者は異なれども、聖書はひとつの神による霊性によって書かれた一貫性のある書物であるということを実感できるのだと思います。

 そうして、聖書というのは、この随分前に自分が立てたと見られるスレを振り返るとつくづく思うのですが、私のような罪人・病人を救うための書物なのだと思います(マルコ2:17)。まるで論文でも読み進めるかのような、あまり平常な精神で読んでも恵みを感じないかもしれません。本当にイエスキリストが必要で、それ以外に救いはない、という心で読むときに、その中に書かれた内容の霊性による一貫性が心に響くものなのだと思います。もちろん、それを導く牧師の存在がとても重要なのは、言うまでもありません。

 -良い牧師とは、自分の知識や経験、職位あるいは世の中的な富の力によって高慢になることなく、ひたすら自分を無にして弱くして、神様の力を受けて御言葉を伝える牧師のことを言うのだと思います。そのような牧師の姿を見て、「人間の能力によらず、聖霊の働きが大胆に働かれている奇跡」というのを聞く人が実感することができるのだと思います。そうなるためには、聖霊の力を大胆に働かせることができるためには、「自分」を壊さなければなりません。これが要するにガラテヤ書2:20節に書かれている奥義-「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」-なのであると思います。

 また、第2コリント12章には、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」とありますが、このように常に自分の「強さ」ではなく「弱さ」を誇り、神の恵みを受けようと祈り求める姿、常に聖霊の働きに満たされている姿が特に教会で御言葉を伝える牧師には必要だと思います。牧師というのは決して職業などという括りに収められるものではなく、その人の人生そのものがまさに「生ける神殿(ローマ12:1)」となっているような、そのようないつも聖霊に酔いしれているような姿が必要なのだと思います。そういう「自分」というものを全く誇らないで、神の御業のみを誇る牧師の姿を見て、信者の信仰も高まり、人間的にはとても弱い姿を隠せない牧師を通してまさに聖霊による力強い働きがなされるために、もっと牧師の働きのために祈り、そして助けになろうと思うようになることで、教会全体の勢いが高まり、リバイバルが起こることにつながるのだと思います。

 そういう自分の弱さを誇り、その弱さを通して神様の恵みに十分に満たされて大胆に主の御業を伝える牧師さん達の存在が、もっともっと、クリスチャントゥディのようなキリスト教新聞で光が当てられて伝えられていくと良いと思います。そういう牧師さんに出会えるか出会えないかでも、聖書の見方が随分違ってくるのではないかと思います。そう考えると、キリスト教の新聞というのはその「伝える視点」が人類の救いのために本当にとても重要ですね。

 それで、原罪についてですが、このような観点から見ますと、結局「高慢」という罪に陥ってしまったがために、本来は神の器として神様の御業が聖霊の働きを通して十分になされるように人間を創造されたにもかかわらず、この「高慢」という覆いによって、せっかく十分な器があっても神様の御業を働かせることができないのが、「高慢」という世の中的な罪を負う私たちの姿なのだと思います。

 -教会の牧師を見る目が、世の中の学者や政治家、起業家を見る目とは異なる必要も私たちにはあります。結局ある牧師が何か要職に選ばれたり、なにか誉れあるものを受け取ったりしたときに、「その人が(世の中的な価値観で)自分よりどう優れてそのようになったのか」を見るのではなく、また伝える方もそのような世の中的な業績を伝えるのではなく、「その人を通してどのような神の御業が成し遂げられるのか、どうしてその要職に就くにふさわしい人格なのか」が報じられる必要があるのですね。キリスト教の新聞が事実をどのように伝えるかでまたキリスト教に対する読者の印象や見方も大きく異なってくるように思えます。まだまだそういう意味で日本のキリスト教が1%未満なのは、キリスト教の新聞がまだまだ未熟であるというのも大きな原因の一つであるのではないかと思いますが、これからは本当に聖霊の働きを伝えるキリスト教の新聞が大いに活性化していってほしいものだと思います。

74  矢島 ID:AIZo5XFU  2010/01/22 10:16
72:現在さん
そうでしょうか・・・?
ボクは[コメント:1]に対しても、応答しているつもりですが?

ただし、大方の部分で[コメント:1]は支持できますが・・・
≪まずは、異邦人においては、相手の立場をとりあえず認め、まずはそのような人にもすべての人に対してのクリエイターであられる神の愛が施されているということを知って頂き、聖書を読んで頂くことに謙遜な姿勢で取り組むことが宣教の一番の近道だと思います≫
という個所は、もひとつ・・・ですね。
【とりあえず認め】るのではなく、全面的に完全にスッカリ認めなければ意味は無いし、相手にも通じない。
また、それ(相手の存在を受け入れる行為)が宣教のためであってはならないし、他の何かのためであってもならない。
全てに先んじていなければ、そのアトはない。
宣教・伝道など、必要ならアトから勝手に着いて来る。
75  矢島 ID:AIZo5XFU  2010/01/22 18:31
73:とあるクリスチャンさん
(時間が無いので、ひとことだけ前振りしておきます)

≪聖書は霊性によって書かれた書物です≫
と、お考えにならないほうが(クリスチャンとしても)実りは多いと思います。
ボクらは、<聖霊の働き>とか<神は何でも出来る>とかいう、オールマイティなカードを持ちません。
また持たないようにしています。
矛盾は矛盾のままに、なぜ矛盾しているのかを考え、判らない部分は判る時まで、判らないままにしておきます。
<人間には解からないが、このように信じろ>なんていう乱暴なことは、とてもとても・・・出来かねます。

しかし、あなたがたの(他の誰であっても)信仰を否定するものではありません。
(ただし、もし行為として社会に害になる部分があれば、その部分を取り去る必要はあるでしょうが)

76  矢島 ID:DfoUXwu.  2010/01/24 18:20
75のつづきです。

≪世の学者とキリスト者の価値観の違いかと思いますが≫
ボクは学者ではありません。
元クリの・・・ただの貧乏な労働者です。
よって、聖書学、神学、文献批評、正文批判、などについても素人の読み齧りに過ぎません。

さて・・・前段部分について。
≪ヨハネ福音書および、ルカ・マルコ・マタイの共観福音書はそれぞれ記者は別別ですが、みなイエスキリストの生についてそれぞれの価値観で書かれていることで、読む人があらゆる角度からイエスキリストを見れるようになっていると思います≫
これは、そういう風にお考えになるので、のちのち三位一体説などが生み出されることになる。
ご存知のように、福音書に先立つものは、パウロ書簡類です。
このパウロ存命中に、あらかたキリスト信仰は出来上がっているわけですけど、マルコ、マタイなど、あからさまなパウロ主義批判で書かれていますよね?
有名ですが、ヤコブ書など真っ向からパウロに反論しています。

エクレシア時代から、どうもいくつかのグループに分裂していたようです。
パウロ主導のアンティオケア派、いわゆるマタイ学派(エルサレム教団)、そして長老ヨハネ教団・・・更には洗礼者ヨハネを信奉する教団(後のマンダ教団)と、そこからの改宗者などなど。
キリスト教は、その出発点から既にお家芸の「分派」が始まっていたわけです。
更には各福音書は、それぞれにアンチを投げかけている形跡もあります。

≪聖書を世の中的な文献を読むような読み方で読むと、すぐにつまらなくて飽きてしまう≫
いえいえ、とんでもない。
ますます興味深く読んでいます。
非常に困難ではありますが、イエスという若者の残した驚天動地な革新性、人間社会の根源的問題に独り立ち向かう先駆的行動は、眼を見開かされるものがあります。

最近どうも、キリスト教徒という方々は、教派教義上のキリストを信じる方々であって、実際のイエスの言葉なんぞはどうでもよい人たちなんだと解かってきました。
イエスがこうしろと命じたことは行わず、するなということは飽きず繰り返す。
そして、出来ない自分たちを赦し招いてくれるのが神の子なんだと、恥知らずな詭弁を垂れる。
やりもしないものが出来るわけもないが、それなら、するなと云われている事くらいは、しないでおくことも出来るだろうに。
[1 - 100] [ 全投稿を表示 ] [ リロード ] [ 一覧へ戻る ]
名前: E-mail:
画像認証:
メッセージ:
「CTフォーラムは、「CTフォーラム利用規約」(こちらを参照)を承諾いただいた方にのみ提供させていただくサービスです。
従いまして、利用者の皆様は、CTフォーラムをご利用することで当規約に承諾していただいたこととみなさせていただきますのでご注意ください。」